ローマとキリスト教

ローマとキリスト教
今キリスト教と言うと、主にローマカソリックとプロテスタント、そして東方教会を思い浮かべます。でもプロテスタントは16世紀にカソリックから離反して生まれたことを考えると、初期のキリスト教はローマが中心となって広がっていったことになります。でもローマは当初、キリスト教を弾圧する立場でした。主イエスの十字架は、ローマの当時のユダヤ総督であるポンテオ・ピラトが命じた処刑ですし、使徒言行録に記されているように、その後もキリスト教徒を迫害していきます。それがキリスト教の言わば中心地となっていったのはどうしたわけなのでしょう。
紀元前のヘロデ大王のもとではユダヤはローマの独立した同盟国だったのですが、主イエスが宣教を始める頃にはローマは支配を更に強くていました。ユダヤの宗教的指導者である祭司長はローマのユダヤ総督によって任命され、彼の祭具や憲章はローマの監督下に置かれます。また農地税や人頭税はローマに直接収めることになり、やがてガリラヤの人々の乱を引き起こします。こうしてローマへの反感が益々募っていく中でユダヤ総督府や祭司長が率いる最高法院は、主イエスを不穏分子として警戒し、遂には十字架に懸け、その後も使徒たちへの迫害を続けていきました。そして70年春には将軍ティトスがエルサレムに侵攻し、古くからユダヤ信仰の要であった大神殿(第二神殿)を焼き払い、この第1次ユダヤ戦争によってエルサレムは陥落します。その後西暦135年に終結した第2次ユダヤ戦争の後には、ユダヤの人々は国土を持たない流浪の民となりました。
しかしこうした3世紀に亘る迫害にあっても、主イエスの福音に従う人々は増え続けました。紀元1世紀末には、ローマ帝国のクリスチャン人口は1万人を数えるほどになり、3世紀半ばには100万人、そして冒頭に述べたコンスタンティン帝の4世紀初頭には、ローマ帝国の人口の10%を占める500万人にまで達したそうです。
このような変化の要因としては、使徒言行録に記されているように、主イエスの弟子たちのたゆまぬ伝道が最も大きな力となっていたのですが、もう一つには、個々の神を酒や美などの人間的な価値の象徴と捉える多神教に対して、全ての人々を救う唯一の神を信じる一神教のキリスト教が、ローマ帝国を構成する多くの民族に受け入れられたことにあります。その教えには、主イエスの十字架による「贖罪」と、「信仰、希望、愛」という普遍的な真理が込められていました。こうして主イエスの福音は、民族文化や世代を超えた世界宗教として広がっていきました。
そして西暦312年、キリストの神の啓示を受けたとするローマのコンスタンティン帝が「ミルヴィアン橋の戦い」で勝利し、翌313年に発布したミラノ勅令で、帝国の全市民の信教の自由と、それまでに没収したキリスト教の資産の返還を定めました。これによってキリスト教徒への迫害は終わり、西暦325年には彼が呼び掛けてトルコのニケアで各教会の監督を集め、最初の公会議を開きます。そこで採択されたのが二ケア信条であり、この信条を受け入れる教会がキリスト教会である、と宣言します。公会議は6月のこのニュースレターで紹介した通りその後も続き、キリスト教の礎がローマを中心に築かれていきました。
このようにして、初めはユダヤ教のナザレ派と言う位置づけであった主イエスの教えが、今に見る世界的な宗教として広がっていく過程にはローマの大きな貢献があり、そうなるとカソリックの本山がローマのバチカンにあることも頷けます。
でもウェスレー教会を始め、私たちが歩みを共にする教会はプロテスタントですね。一体どうしてカソリックから分かれてしまったのか、何が同じなのか違うのか、またいつかお話しする機会があると思います。
ここで、日語フェローシップからのお報せです。10月27日(日)10時から、日語礼拝をチャペルで守ります。メッセージは、9月に予定していて叶わなかったキリスト合同長老教会の鈴木央子先生です。是非ご出席ください。
(塚本 旨)