2016年 10月2日「わたしたちの教会」 塚本旨兄信徒奨励

10月 2日 主日礼拝信徒奨励要旨
「わたしの教会」 塚本旨
テモテへの手紙二1章1-14節

●二週間前の礼拝後、日語部ではビジョンミーティングとして、私たちは教会に何を期待するのか、ということを話合いました。癒しの場、奉仕の場、また牧師の人柄、といった希望や期待がある中で、教会は信仰を育てる場所であることも忘れないで、という意見もその後の話し合いで聞かれました。今日の聖書の箇所は丁度その信仰についてイエス様が語っておられるところです。
今日の聖句の「からし種」は、聖書の世界ではいつも「小さなもの」を表し、また同時に「信仰」をも意味します。でも考えてみると、日本語でも英語でも「大きな信仰」という言い方はキリスト教の中ではありません。むしろ「深い信仰」という言葉を使います。イエス様はどういう意味で、この「からし種」のお話をされたのでしょうか。小さな信仰ではいけない、もっと育てなさい、ということなのでしょうか。今日はこのことをこれまでのウェスレー日語部を牧してくださった先生方の言葉から考えてみたいと思います。
●大友愛郎先生は1978年から1988年まで、ウェスレーに居られました。1983年にハドソン川で船の事故があり、犠牲者も出たのですが、その時乗客を救うために川に飛び込んだ人々を見て、「彼らをクリスチャンだと勝手に決めつけるな!」と言われました。先生はまだ若い頃、横浜の教会で近くの風俗産業に従事する人々を教会に迎え入れ、そのために教会を去る人も出てきたことがあります。「教会ってね、罪びとが集まる所なんだよ」、というのが先生の信条でした。でも「自分が罪びとであることを知ってる人たちなんだよ」。だから立派な人がクリスチャンというわけではない、ということなのです。
●次に来られた荒谷先生は、いつも「あるがままの自分」を受け入れてくださる神様を語っておられました。どちらの先生も小さな人、小さな信仰、を大事にしておられたのです。このことは今日の ルカ書の後半、主人に従う僕の譬えにも現れています。小さい者であるがゆえに主人に、そして神様に従う人でありなさい、と。つまり、信仰は小さなものでなければならない、とも言えるのです。
荒谷先生の後に来られたのは塚本先生でした。阪神・淡路大震災の時神戸に居られ、自分の教会を開いて避難した多くの人々を迎え入れました。でも、状況が落ち着いた後、その中から教会に連なる人は一人も現れませんでした。でも「もし同じことが起こったら、私は同じことをします」と断言されたのを今でも覚えています。
●塚本先生の後は松下先生でした。とても誠実な先生で、病や老齢の方々をいつも訪問し、請われれば決して上手とは言えない歌を、精いっぱいの声で歌っておられました。「私は小さな事しかできませんが、それで愛を感じてくださる人がいるのなら、いつまでもやり続けます」という先生の言葉は、その人柄を良く表しています。小さな自分だけど、御言葉に従っていけば、神様が自分を通して働いてくださる、という信仰です。どちらも、深い信仰があったからこその言葉です。
今日のテモテの箇所は詩を前にしたパウロが獄中で書いた最後の手紙です。恐れずに、教会を守るように、とテモテに諭しています。
●塚本先生の後にお迎えした西之園先生の時にジャズかつが始まったのを覚えておられる方も多いでしょう。実は当初、役員会はこのジャズかつに反対していたのです。とてもそんなイベントは今の日語にはできない、と。でもその時の先生の言葉は「私たちがやらなければ、一体だれがやると言うのですか」というものでした。東北の為だけではなく、今の日語を守る為にこそ、これをしなければならない、ということだったのです。
●私たちの教会はこうした素晴らしい先生方に恵まれて育ってきました。小さな「からし種」は今も小さなままかもしれません。でもこのウェスレー教会という畑の中で、その種がこれからも少しずつ深く根を下ろしていくことを願っています。

2016年 9月25日「門前のラザロ」

9月25日 主日礼拝説教要旨
「門前のラザロ」 山本一牧師
ルカによる福音書16章19~31節

●人には決して自由に動かせないものがあります。それが人間の心です。自分の心であれ他人の心であれ、それは神さまの領域だと感じます。
●今日の聖書は「金持ちとラザロ」のお話です。生前貧しく、苦しんでいたラザロと贅沢をして暮らしていた金持ちの立場が死後、逆転してしまうというお話です。このイエス様のたとえ話のポイントはどこにあるのでしょう。
今日の直前の箇所を見ると、ファリサイ派の人々に対してイエスさまは「あなた達は人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である」と言われました。つまりイエス様は表面的な行いよりも「心」が大切だという事を教えるためにこの譬え話を話されたのです。当時のファリサイ派の人々は神の戒めを守る事には必死でしたが、その心に愛や同情が無くなっていたのです。それはこの譬話の金持ちのユダヤ人に重ね合わされます。
このお話の中で面白いのは、犬が登場するところです。時に人間よりもよっぽど動物たちのほうが私たちを慰めてくれると感じます。「犬が彼に寄って来てそのできものをなめた」とあります。この言葉には、犬でさえ彼を慰めたのだと皮肉を込めて言っているのです。
●ここにでてくる、金持ちとアブラハムのやり取りは全て「心」の事を問題にしています。なかなか聖書を読んでも変わらないような、自分中心な、律法主義的な心は人には変えられないのだと言っているのです。
金持ちは「こっちにラザロをよこせ」とか「わたしの兄弟のためにラザロを送れ」と言いますが。この言葉にもラザロに対する労わりや、彼を無視してきたことへの後悔の念が感じられません。彼が考えているの は自分とせいぜい身内のことばかりに見えます。しかし、私たちもまたこの人を無視にする事ができません。
●ではそんな自己中心的で貧しい人に同情できない人は死んだら地獄いきだといっているのかというと、そうではありません。
これは陰府の話だと記されていますが、ここにはイエス様は登場していません、先に死んだアブラハムだけです。そこで金持ちは苦しんでいるのですが、まだそこで悔い改める機会が残されているのです。この後で、その誰にも渡ることのできない陰府の大きな淵をイエス様が十字架にかかり死んで超えられて、その陰府にいる全ての人をも救われることを示されたのです。この金持ちも心動かされて悔い改め、イエスキリストによって救いと平安に入れられていくと言う可能性が残されているのです。
●イエス様は今日の例え話を通して、私達には「裁きの時」が与えられるのだと語られたのです。「裁きの時」というのは、いわば、「全てに気づくとき」です。「自分はこんなに愛されていたんだ」「赦されてきたんだ」など、振り返ってみて本当に何と自分は自己中心的だったんだと気づかせられる時がくる。それが聖書が教える「裁きの時」です。それは言い換えると「悔い改めの時です」それは今与えられるかもしれないし、明日かもしれない。死んでイエス様と出会い、初めて気づかせられるのかもしれないのです。そして低められて、大きな神恵みに気づかせられていくのです。
●私たちには自分で心を変えることはできませんが、必ずやそのような「気付きの時」が神によってもたらされるのだと聖書は告げているのです。これまではなんとも思わなかった「門前のラザロ」を思い、涙を流して、自らを神様の前にへりくだらせていく時が来る。そして、実はそこに神の本当の平安と救いがあるのだと聖書は、イエスさまは告げておられるのです。

2016年 9月18日「限りある人生に永遠の命を」

9月18日 主日礼拝説教要旨
「限りある人生に永遠の命を」山本一牧師
ヨハネによる福音書10章22~30節

●聖書に出てくる「永遠の命」を山浦玄嗣さんは決して死なない命ではなく「いつでも生き生きと生きる力」と訳し変えました。そのような命を人はどうやったら得られるのでしょうか?健康・富や名誉を得ることによるのでしょうか?
「死の谷をすぎて」という本を読みました。太平洋戦争中日本軍の捕虜となりタイの収容所で過酷な労働を強いられたイギリス人の捕虜のアーネスト・ゴートンさんの手記です。
日本軍の泰緬鉄道を建設のために16,000人の連合軍捕虜が犠牲となりました。著者もまた死の寸前まで追いやられます。この収容所には当初人間の本性がむき出しになる地獄のような光景が支配していました。彼もまた『神などいるものか』と人生を呪いながら命が終わる日を待っていました。
しかし、そんな彼を献身的に看護する二人のキリスト者があらわれ、無神論者だった彼も聖書を読み始めるのです。そして彼も自己中心的な人間の限界を打ち破り、「人を愛して生きること」へと導かれていくのです。彼らは聖書のイエスの愛と自分を看護した友や身代わりとなって死んでいった仲間の愛を重ねました。そしてこの死の収容所の中に神が生きて働いて奇跡を起こしていると感じたのです。彼らは極限状態の戦場にあって生き生きと人を愛して生きていたと記されているのです。  
●今日の聖書箇所で、イエス様は自分を羊飼いだといい、それに従う羊に永遠の命を与えると言われました。 羊は目の前の者を追って右往左往して、導き手がいないと幸せになれません。そのような羊の姿は、 本当の幸せあると思って、全く見当違いのほうへ行こうとする私たちと似ています。自分の事ばかりを追い求めると不満や絶望が待っていて、逆に苦難の中、イエスの愛を求め、人を愛し人に支えようとするときに、「永遠の命」本当に自由な生き生きとした命が得られるのだと聖書は告げているのです。
●あの厳しい収容所とは違いますが今も人間の本性がむき出しになるような、厳しい時代にあると感じる事があります。人との繋がりが薄く自己中心に陥りがちです。今も「神は一体どこにおられるんだ?」と問うような状況があります。けれども、そのような現実に神さまは必ず「愛」をもって臨んでおられるのだと聖書は告げるのです。そして、イエス様が持っていた、永遠の命、本当に生き生きと生きる命へと人々を導いておられると信じたいのです。
●本の中で「神などいない」という著者に友人が一つの詩を紹介しました。
「私は私の魂を探し求めた、しかし、
私はそれを見つけることができなかった
私は私の神を探し求めた、しかし、
私の神は私から隠れておられる
私は私の兄弟を探し求めた。するとその
三者の全て、私の魂、わたしの神、
すべての人びとを見出したのです」
この魂という言葉を「永遠の命」と言い換えても良いと思います。
●あの過酷な戦地で、人を愛して生きようとした時に、人々はイエス・キリストと神を知り、生き生きと生きる命に出会いました。私たちも、今週、兄弟を探し求めたいと思います。誰かに小さな愛を届けたいと思います。その時に私も本当に大切なものを見つける事ができると信じて。

2016年 8月28日「お返しできないほどの恵み」

8月28日 主日礼拝説教要旨
「お返し出来ないほどの恵み」山本一牧師
ルカによる福音書14章7~14節

●熊本の被災地を支援するジャズカツがJAMsjで開催されました。中心スタッフのお一人は一週間前にお姉さまを交通事故で亡くされました。しかし、終始明るくこの支援活動をリードしてくださいました。皆もハグをし、声をかけ祈りました。あらためてコミュニティの中で人はケアをされ、愛と慰めを受けていくんだという事を感じました。
人生には「まさか」と思う出来事があります。震災も不慮の事故もです。そんな時に私達は言葉を失います。しかしそのような絶望の淵にあってこそ人は尊い愛や配慮を神様から与えられ、互いにそれを示していくのだと思います。
●イエス・キリストが告げ広められた「神の国」とは、痛みも悲しみも無い国ではないのです。当時、イエス様の周りには痛みや迫害、孤独や差別が渦巻いていました。イエス様はその土地を巡り、悲しむ者と共に涙し、祈り、それでも天には神が生きておられると希望もって励ましあい歩んでいくそんな交わりを造り、示されたのです。
●本日の聖書はイエス様がある宗教指導者の家に食事に招かれた時のお話でした。
食事の招待を受けた客たちが上席を選んで座ろうとしていたのをイエス様が御覧になり、「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。・・・むしろ末席に座りなさい」と言われました。これは古くは箴言25章にもでてくる教えです。また、12節以降は招く側の人たちに対して「食事会をするときには、貧しい人、お返しができない人を招きなさい」といわれました。これまた当時、イエス様でなくても一般的な倫理行動として勧められていた事柄だと言える でしょう。しかし、ここはそんな倫理的教えが中心ではないのです。
●イエス様は「婚宴の譬え話」をされました。「婚宴」は、通常「神の国」を表すキーワードです。つまり神の国とは何なのかが語られているのです。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる」という言葉にあるように、小さくされ、悲しみ、痛んでいる者たちが顧みられるのが神の国なのだと告げられているのです。
後半部分のお勧めでは「食事会には友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちもよんではならない」とあります。これもまた、普通の食事の会のルールを言ってるのではなく、神さまのみ心を教えているのです。つまり、神さまと言うお方は、この世で家族を失い、コミュニティから阻害されて、人間関係が断たれた孤独な人たちがいないかと気にかけ、どこまでも捜し求められるという事を告げているのです。
そして、その神様の思いがイエス様と言うお方の生涯に表されていたのです。お返しのできない私たち、罪も弱さも欠けもある私たちを真っ先に探し、招いてくだり、この私たちのためにイエス様が十字架にかかり、命を献げて下さたのです。
●この箇所にあるお返しのできない人とは誰のことでしょう。これは時に私たちの姿ではないかと思います。大切なものを失い、病にあい、災害にあい。急な不幸に見舞われ、ただ立ち尽くす時があります。そのような時に私たちは時に、お返しも出来ないほどの温かな恵みを、周りの人々から、私達のコミュニティから受ける事があります。それはきっとその時に、絶望の淵にある者に手を差し伸べられるイエスさまが私たちのコミュニティにいてくださるからでしょう。そのようなコミュニティ(神の国)こそが私たちの希望なのです。

2016年 8月21日「あなた方は価値あるもの」

8月21日 主日礼拝説教要旨
「あなた方は価値あるもの」 山本一牧師
マタイによる福音書6章25~34節

●先日読書会をした東田直樹さんの本「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」は自閉症の方の心に触れる事ができて感銘を受けます。その中で東田さんは「物は全て美しさを持っています。僕たちはその美しさを自分の事のように喜ぶことができるのです」と言われました。彼の眼差しの純粋さに心打たれます。同時にそれはイエス様の眼差しを思い起こさせます。
●今日の箇所は「思い悩むな」と表題がつけられた箇所ですが、「空の鳥をみなさい、野の花を見なさい」という有名なイエス様の言葉がここにあります。
この「空の鳥」は可愛い小鳥を思い浮かべるかもしれません。しかしルカ福音書の平行箇所ではこれを「カラス」と記しています。カラスは聖書では多くの場合汚れた鳥として忌み嫌われています。カラスを見よと言われて、恐らく皆、戸惑ったことでしょう。しかしその人々にイエス様はすぐさまそのカラスがどんなに神に愛され、自由に生かされているかを教えたのです。
さらに「野の花」について言えば、ユリの花と訳されてきたこの「クリノン」(ギリシャ語)という言葉も実のところは不明で、「野アザミ」の説もあるのです。棘があり、はびこると厄介ないわば雑草です。「今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる」という表現を見ても、野アザミ説は有力です。ただ、野アザミも嫌われがちな雑草ですが、よく見ればとても美しい花であり、その美しさをイエス様は強調されるのです。 ●つまりこの聖書の箇所が最も伝えたかったことは「天地万物を創られた神様がこの世の全てをごらんになるその眼差し」に他ならないのです。忌み嫌われるカラスや野アザミを見なさいというこの言葉のうちには全ての物に価値と美しさを見いだし、それを喜ばれる神様の眼差しが示されてます。そして、その眼差しはイエス様を通して、当時の人たちに向けられたのです。
イエス様の周りには社会から敬遠されたり、不器用な人、一癖も二癖もあるような人たちが集まっていました。しかし主に希望を置き、必死で生きようとしている、そんな人々に対して、尊さを見出し「あなた方は価値あるものだ」と言われたのです。
●今の時代もこの主の眼差しと言葉を求めています。この世では能力、学歴に価値が置かれます。ここベイエリアでは良い大学に入れず自殺する人も多く、10代の自殺率は全米平均の5倍です。もちろん良い能力や賜物、仕事を追い求める事は良い事です。しかし同時に能力主義の社会の価値観、人々の眼差しに晒されている中で、私達は、存在の深みまで見つめてくれるような温かな眼差しに出会えず苦しんでいます。
●今日の聖書の箇所はイエス様こそが、どこまでも深く人を見つめ、その人の存在自体の美しさと価値を見いだし、それを我が事として喜んでくださる方であることを告げています。その眼差しを覚えていたいのです。今もイエス様は、カラスのようなアザミのような存在の私たちと共にあり、今も「あなたは価値あるものだ」と言ってくださるのです。

2016年 8月14日「重荷を担い、担われること」金澤友幸神学生

8月14日 主日礼拝説教要旨
「重荷を担い、担われること」 金澤友幸神学生
ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
マタイによる福音書11章25~30節

●牧師になるためのインターンシップでここに来て、平日の牧師や信徒の皆さんの活動やお働きに驚きを覚えています。中でも日本に引っ越す内藤さんの引越しをされたお話にそこまでされるとは、と感心しました。
●人生には様々な重荷がありますが、パウロはガラテヤの信徒に「互いの重荷を担いなさい。そうしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」と言いました。キリストの律法とは何か。それは「愛神愛隣」、神と人に対して愛を持って行動する事です。また強制されてでなく心に湧き上がる喜びを持って愛し合う事です。パウロはそのキリストの愛の実践として、互いの重荷を担い合う事を勧めたのです。
しかし、いつも喜びと愛に満たされて行動する事はできません。時に自分の重荷に精一杯で、他の人の重荷まで担えない時があります。そのような人はそれでいいのです。事実、自分の重荷で精一杯の人が他人の重荷を担うことは出来ません。自分の負担が軽い時に、他の人の重荷を担ったらいいのです。
●パウロは5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とも言います。自分の重荷を他人に委ねなさいといいつつ、自分の重荷は自分自身で担うべきであるとは、矛盾しているように思えます。
実は、この二節と五節の“重荷”は原文では違う単語で表され、「互いに~担う」では“バロス”(ギリシャ語)ですごく重く、他者と一緒に運ぶ事が出来るような重荷です。 一方「自分の~担う」に使用されているのは“フォルティオン”で、自分で負うしかない、誰にも代わってもらえない重荷を表すのです。時に、その二つの重荷が同時に私たちを襲うことがあります。
●私は米国に来る前、レポートに追われていました。誰にも代わってもらう事はできません。出発前日にも、まだ課題が出来ず、それに加えて、荷造りもまだでした。そこで、荷造りは家族が助けてくれて、何とかこちらに来る事ができたのです。本当は自分で全てするのが理想ですが・・・。
自分にのしかかる重荷を素直に他の人に伝えること、担ってくださいという事は難しいことです。ただ私の場合のように「家族に」ならお願いできるかもしれません。
ここで皆さんに考えて欲しいのです。教会の人たちはどうでしょうか?パウロは言います「互いに重荷を担いなさい」と。キリストによって神の家族となった私たちだからこそ、担い合える互いの重荷を負い、キリストの愛を実践する者となりたいものです。
●では他方にある、自分で担うしかない重荷はどうか?むしろ、このような重荷にこそ人々は悩まされます。しかし主は言いました。「疲れた者、重荷(フォルティオン)を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストは、自分自身で担うしかない重荷を負い、疲れている者を招かれます。他の人が一緒に担えない重荷であっても、イエス・キリストなら担うことが出来るのです。そのイエスを信じて、重荷の多い人生を共に生きていきましょう。

2016年 8月7日「悪人にも善人にも」

8月7日 主日礼拝説教要旨
「悪人にも善人にも」 山本一牧師
ヨハネによる福音書9章1~7節


●今年の夏の修養会では日々「自己中心、エゴ」を意識化し、愛に満ちたイエス様の力を求めていく事が大切だと学びました。 「平和」の実現にも「不断の努力」とイエスさまの助けが必要だと感じます。
米国がイスラム国への空爆を開始してから丸2年が経ちます。果たして空爆で本当に平和が来るのでしょうか?
●今日のマタイによる福音書5章には「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」と言う言葉がありました。しかし、この「悪人にも善人にも恵みを与える神さま」は躓きにもなり得ます。悪には悪、善には善という因果応報こそが公平で正義だと考えてしまうからです。
聖書には大昔からの法律として「目を傷つけられたら相手の目を、歯を失ったら相手の歯をもって賠償としなさい」という復讐法がありました。往々にして過剰な報復が行われたからです。それを禁止する意味で損害には同じものをもって償うべきだとされたのです。イエス様もこの法律を知っていました。しかし、ここで全く新しい教えを述べられました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
あなたに悪を働く者に対して、報復ぜず、善を返しなさいと仰ったのです。なぜなら天の神が、善人にも悪人にも恵みを注がれる方だからだ、というのです。
●目には目を歯には歯を、つまり-1を相手から受けたから相手にも-1を返すとすると、一見平等に見えて、この世の中に-2が残るだけです。子どもの喧嘩を見ていてもそうです。互いに同じ数ずつ叩きあったところで、怒りも痛みもおさまりません。ますます怒りは燃え上がります。それと同じように、報復による負の連鎖は止まり ません。それは私たちの世界の戦争の歴史を見ても明らかです。
イエス様はこの世のマイナスを愛というプラスで補うことの大切さを示されました。そして、自らが十字架にかかり身を持ってそれを示されたのです。自分を迫害する者、頑なな心に、徹底して愛を示す事によって、人間の「闇の部分」を作り変えようとされたのです。
●過激派のテロよって、中東からの移民の受け入れに難色をしめす国が増えています。しかし一度テロリストの人質になったジャーナリストのニコラス・エナンさんはこう言います。
「テロリスト達の世界観の中心はムスリムとその他のコミュニティーは共存できないというものだ。そして日々アンテナを張り巡らせて、その考えを正当化しようとしている。
そんな彼らにとって、難民排除で殺伐としている欧米の動きは、彼らを大いに興奮させている」というのです。しかし、そんなテロリストたちを悩ませたものがあったと彼は言います。
「ドイツの人々が移民を歓迎している写真は彼らを大いに悩ませた。連帯、寛容・・・それは彼らが見たいものではない。」つまり、「愛や寛容」こそが空爆に勝る彼らの脅威なのだと語られたのです。
●「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」とパウロも言います。
自分だけが正しい、自分は誰とも共存できないと決め付け、人を裁き傷つけるような「悪」が私たちの社会にあります。いや、私たちの自身の中にもあります。むしろそのような頑なさ、悪にこそイエス様の温かい太陽の光のような愛が必要で、神様は悪人にも善人にもイエス様を、その愛をお与えになり、全てを愛の光で包んでこの世を変えようとしておられるのです。
その神様の愛をしっかりと受け止めて、共にこの世に神の愛と平和を作りだす人になりたいと願います。
 

2016年 7月31日「まだまだこれから」

7月31日 主日礼拝説教要旨
「まだまだこれから」 山本一牧師
ヨハネによる福音書9章1~7節


●先日この度日本に帰られる内藤政枝さんの日本のご家族と初めてお会いしました。笑顔で語り合う内藤さんのお姿を見て、素敵な家族の待つ家に帰られる事がわかり、安心すると同時に、今まで知らなかったお姿に触れた気がいたしました。
普段近くにいても人は他の人の事を完全には知る事はできないのだと思いました。そもそも人だけでない、様々なこの世の事柄を私達は完全には理解できないのです。
「何かを知っていると思う人は、知らなければならないほどの事すらまだ知っていない」とパウロは語ります。人は皆完全ではない、と知ることが大切なのだと教えているのです。
●イエス様はある時、生まれつき目の見えない人と出会いました。弟子たちは「彼がそのように生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか」とイエス様に尋ねました。これは当時のユダヤ人の中に、病気や不幸と、本人が犯した罪には深い因果関係があると信じる人たちがいたからです。そしてそれが「生れつきの病や障がい」の場合になると、一体なぜその様になったのかを説明するのは困難でした。ある人はその両親に原因があるとし、他の人は胎児も罪を犯すのだと考えていたようです。
しかし、イエス様はそのようには考えられませんでした。イエスさまがここで仰ったのは「神のわざがこの人に現われるため」という言葉でした。そして、その人を通して神の素晴らしい業が示されたのです。
イエス様はこの人の障害の原因(過去)ではなく、その目的(未来)について語られたのです。人間にはこの世の全ての事柄についての意味や原因はわかりません。イエス様はそのような世の中にあって、後ろを向きがちな私たち人間に、いつも新しい前向きの視点を与え、人を生かしたのです。 そして、私は今でもそのイエス・キリストと出会い前向きに生かされるのだと信じているのです。
●私は神学部時代、様々な事を思い悩み、自分の未熟さを受け止めることができない、弱く、後向きな学生でした。しかしそんな私をある先輩がよく励ましてくれました。
彼は仕事が大変順調だった時期に中途失明をしました。そのため仕事仲間にも冷たくされ、婚約も破棄され、会社もやめることになったそうです。
「なぜ自分がこんな目に」と嘆き絶望の淵に立たされました。しかし、その苦しい日々の中で目の見えない彼にキリストが現れて「私に従いなさい」と言ったというのです。彼は言いました。「今思うとあれは幻覚だったのかもしれない、けれどもその出来事によって「全てを神にゆだねよう」と思い、洗礼を受けたのは紛れもない事実。まだこの先不安もあるが、それでも神に望みを置くことが唯一私の生きる道なんだ」
私は、彼が前向きなのは彼の性格からではなく、キリストとの出会い、神への信仰によるものだったんだと気づいたのです。
彼は後ろ向きな私にいつも「なに言っていんの、まだまだこれからやでー」と口癖のように言ってくれました。
●私たち人間は様々な事柄を、自分勝手に判断してしまいます。自分の人生について、他人やこの世の中について、諦めようとしたり、嘆き絶望してしまいます。弱いですから。けれどもイエス様は苦しみを覚え、絶望の淵にある人のそばに寄り添い、「私がいるから大丈夫、私に従いなさい」と揺るがない未来への希望を示してくださるのです。そのイエス様の故に私たちは前を向けるのです。日本に行かれる内藤さん(当教会で55年以上活躍され、日本への帰国を決められた)の人生も、また多くの人を他の土地に、また天にも送り、寂しさを覚えているウェスレー教会日語部も主イエスキリストの故に「まだまだこれから」です!
 

2016年 7月17日「イエスの方を向いて」 馬越直子姉信徒奨励

7月17日 主日礼拝信徒奨励要旨
「イエスの方を向いて」 馬越直子さん
ルカによる福音書10章38~42節


●牧師の子どもは「PK(Pastor’s Kids)」と呼ばれますが、私もその一人です。私は看護専門学校を卒業し東京の国立小児病院で働きました。子どもの頃は「教会の子」と一個人「府上直子」との葛藤の中で常に振り回されてきたように思います。
父は京都御所の真横の教会で、新会堂建設、地域へのアウトリーチ、社会の問題への取り組みなど、神の声に聴き従い地域に開かれた教会を祈り求め、働き続けました。
母もよく働いていました。早天祈祷会後に朝食を作り、神学生やスタッフへの週に一度の夕食会、ホームレス支援、新年の牧師館オープンハウスでは百人分のごちそうを一人で作り、葬儀や結婚式のお世話、新会堂の管理など・・・。 ある日、一晩だけ母が行方不明になりました。後に分かったのですが、教会の塔の上から飛び降りようかと真剣に考えていたそうです。母の心身の疲労は極限まで達しており、ついに入院となりました。入院に際して付き添わない父への憤りと母のやせ細った体、枯れ果てた心の疲れに愕然とした覚えがあります。
両親の生き方は良くも悪くも私にとってお手本であり反面教師でもあります。私は教会で育ち、人の為に生き、神の為に仕える、という生き方を徹底的に叩き込まれてきました。そういう生き方しか知らないというか、他の生き方が全く分からず、できないのです。
●今日の福音書の箇所マルタとマリアの話が私はずっと好きではありませんでした。
自分の行いが否定されているように感じるからです。放蕩息子の例えもそうですが、兄や姉は一所懸命、実直に、我慢強く神様と親との約束を守り、仕えています。妹や弟は、好きな事を好きな時に存分にし、しかも放蕩息子の場合は父親に、マリアの場合はイエスによってあるがままを認めてもらっています。対するマルタは40節「マルタは、色々のもてなしのためにせわしく立ち働いていた」 とあり、さらに「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」とマルタ自身がイエスに訴えています。これはマルタが自分自身に焦点を当てた主観的な訴えです。なぜなら人は誰もが忙しい時にこそマルタのように「なぜ、私ばかりが」と、どす黒い感情が胸に渦巻くからです。周りの人も一杯一杯で誰にも頼れない、それでも「もてなすこと」をやめません。そうする事でしか、自分の信仰が表せないと思っているからです。
それに対するイエスの答えは客観的なマルタの姿を示しています。「あなたは多くの事に悩み、心を乱している。」はっとさせられる言葉です。そして「必要なことはただ一つ。それを取り上げてはならない」とイエスさまは仰いました。
●Mrs.堀越の以前、Mrs.堀越が証の中で祈りの姿勢について「心の目を開き、神様の方を向いて祈る」大切さを話されました。何か対象があり、そちらを向くという事は自分ではない、全く別のベクトルの方向性を持つという事です。では、心の目を開き、神様の方を向いて祈る事、イエスに聞き入る事とはどういう事なのでしょう?
●身体が動かなくなる先天性の神経難病にかかったワシントン州のジュリアナ・スノーちゃんの両親は彼女が4歳の時に医師から「今度呼吸困難が起きた時にどうするか、考えておいて下さい」と言われたそうです。そこで両親はジュリアナちゃんに、聞きました。
「あなたの病気が今度悪化したら、また病院へ行きたい?」という問いに、「心配しないで。私のことは神様が引き受けて下さるから。」と家に居る事を望んだそうです。そして一年半後、自宅のプリンセス・ルームでお母さんに抱かれてこの6月息を引き取られました。
ジュリアナちゃんの心は真っすぐ神様の方を向いています。自分の体すら思うように何一つ動かせないたった5歳の女の子が「私は何のために生まれてきたの!?」とは問わずに「神様は私の心の中にいる」と言い切るのです。この真っすぐな信仰こそを「取り上げてはならない」と強く感じました。
 

2016年 7月10日「隣人は誰でしょう?」

7月10日 主日礼拝説教要旨
「隣人は誰でしょう?」 山本一牧師
ルカによる福音書10章25~37節


●ウェスレー教会のモットーは「愛神愛隣」神を愛し、隣人を愛するという事です。しかしそれは決して私たちがそれを常にできるとか、また完全に出来る事がクリスチャンの証だというのでもないのです。今日の福音書「良いサマリア人」のたとえ話もまたその事を教えています。
●ある時、律法(旧約聖書)の専門家がイエス様に「何をしたら、永遠の命(神に喜ばれる本当に幸せな人生)を受け継ぐことができるか」と問いました。それに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか」と問い返され、すかさずこの「愛神愛隣」の教えを口にしたのです。イエス様はそれを聞いて満足されました。しかし、話はそこで終わらずこの律法学者は「自分を正当化しようとして」こう言うのです。「それではわたしの隣人とは誰ですか?」
愛すべき隣人の範囲を明らかにして欲しいといったのです。もちろんこの律法学者は同じ神を信じるイスラエル人だけだという答えを既に持っていたのでしょう。彼の心には「違う信仰の人は愛したくない」また「全ての人を愛することはできない」という思いが見えるのです。ただ、これを批難はできません。私たちの身の周りにも良くある考えだと思います。ただ、そのような問いに対してイエス様は「良いサマリア人」の話をされたのです。
●あるところに傷ついて倒れている旅人がいました。そこを通りかかった祭司とレビ人(神の神殿に仕える者たち)は旅人を避けて通り過ぎました。これには理由があり、祭司などは血や瀕死になった人に触れる事によって自らを汚す事は許されていなかったからです。彼らは自分は神殿の祭司だから仕方ないと考えたことでしょう。 しかし最後の一人は全く違い、手厚く世話 をしたというのです。そして、その親切な人は「サマリア人」だったと記されているのです。何故イエス様はここであえて「サマリア人」と言われたのでしょうか?そこに大切な意味があります。
●一般に言われる「善いサマリア人」という言葉に私は疑問を抱きます。このサマリア人が素晴らしい聖人のような印象を受けるからです。けれども、聖書の本文には「善いサマリア人」なんて文字は全く出てこないのです。むしろ当時のサマリア人の多くは、民族主義者で、排他的・・・プライドを持ってユダヤ人を批難するような限界や問題を抱えた存在だったのです。
イエス様が、このたとえで律法学者に本当に言いたかった事の一つは「自分を正当化するあなたもサマリア人と同じ、だれも完全な人はいないんだ」ということです。
そして、しかしそんな問題ありのサマリア人でも、自分の限界を超えて時に目の前に苦しむ人がいるなら心動かされ手を差し伸べる事があるんだということを強調されたのです。
イエス様は、私たちは完全な人間はなれないが、そのあなたのままで出で行き、今のあなたにとって本当に大切な隣人を見つけ、それを愛しなさい。その時に、サマリア人であろうが、律法学者であろうが、誰であっても「永遠の命」本当の幸せがみつかるんだと、私たちを愛の業へと押し出してくださっているのです。
●「私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にある」。クリスチャンであろうがなかろうが、信仰暦が浅かろうが深かろうが、様々な隔たりを超えて、弱りを覚えた身近な隣人を互いに覚え、愛し祈りあう時、私たちは喜びを覚え、幸せを感じます。なぜならそのような時にあのイエス様の愛が私たちに宿り働いて下さるからなのです。
私の隣人とは誰か?今日も尋ねつつ、身近なところに出て行きたいと願います。