SUNDAY SERMON

2019年 4月21日「キリストは生きておられる」 イースター礼拝

 4月21日 イースター礼拝説教要旨
「キリストは生きておられる」山本一牧師
ルカによる福音書24章1-12節


●興味深い事に今や日本でも、多くの人がイースターをお祝いをしています。いくつかのスーパーなどの広告を見ると共通しているキャッチコピーは「春の訪れを祝う」という言葉です。しかし、キリストの復活ということにはそれにも増して大きな喜びがあるのです。


●キリストの復活を喜ぶという事、それは「あのイエスさまが今も私たち一人一人と共に生きておられる」という実感を持つということです。仏教では「同行二人」という言葉があり、四国のお遍路(巡礼の旅)に弘法大師が一緒にいてくださる、また大師の思いと一つになって心を豊かにされて旅をしていくという信仰を表す言葉です。まさにキリストはそのような形で生きておられると感じるのです。


●キリストの復活という事自体はとても信じがたい事柄です。しかし、それは聖書の時代の人々も同じでした。復活の朝、遺体に香料を塗りに出かけた婦人達が墓が空なのを見つけ、そこで二人御使いによって主イエスが復活されたことを告げられます。しかし婦人達は信じられず、ただイエス様の言葉を「思い出した」とだけ記されています。またその婦人達がこの出来事を弟子たちに伝えた時「皆その話がたわ言のように思い、婦人達を信じなかった」、とはっきりと伝えています。
それは今を生きる私たちの状況と同じです。聖書にあるイエスの復活も他の希望の言葉も私たちは簡単には信じることができません。しかしそれでいいのだと告げているのです。
天の御使いであろうと思われる二人は告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。この言葉は、今生きている日常の只中に、復活のイエス様がおられる、という宣言です。
その言葉の通りに人々は、疑いつつも希望の言葉を胸に秘め歩む中で、何か特別な場所ではない普段の生活の中、不安や苦しみ、悩みを抱えるその只中で復活のイエスと出会い、主が共に生きておられるという事に目が開かれていくのです。そして、この言葉は今の私達にも告げられた神の言葉でもあるのです。 

●私は昨日まで突然の体調不良のため休暇を頂いていました。原因不明の心身の苦しみに加え、私にとって最も大きな苦しみは、スピリチュアルペイン(霊的な苦しみ)で、神様・イエス様が共にいて、愛しておられると思えないという事でした。なぜこんな状況にと一人で空を見上げては考えていました。今イエス様が目の前に現れてどうして声をかけてくださらないのかと問い続けていました。
そうしてしばらくして、日本では母が原因不明の圧迫骨折をし長期入院になるという知らせを受けました。そこで日本に帰る事にしました。私も両親も希望が見えないような状況でしたが、日曜日に母の病室で共に小さな礼拝を持つことにしました。日本は丁度桜が満開の時でしたが、私達家族は冬の真っ只中という状況でした。母も共に雪深い新潟で生活しましたが、その厳しい新潟の冬を思い起こしつつ、また私達にも春が来ることを祈りました。痛みで集中力もない母でしたが、涙を流して言いました「神様は生きておられるなぁ、アメリカから息子が帰って来てこんな場所で礼拝できるなんて」。その言葉を聞き、私もこの苦しみ弱っている私達とイエス様がいてくださるという事を感じる事ができたのです。未だ、母も私も完全とは言えません。けれどもその小さな礼拝で感じる事のできた「イエス様は共にいてくださる」という思いは、何にも代えがたい私たちの力となりました。


●「足跡」という誌があります。これは今の私に与えられた詩だと感じます。それは苦しみの時にイエスさまが私を見捨てたのではなく、背負って歩いてくださっている、ということを思い起こさせてくれる詩でした。
 イースター、キリストの復活の出来事、その喜びは、復活されたイエス様が、私達の理解を超えた姿でいつも共にいてくださるという事です。しかし、苦難の中にあって私達はなかなかそれを信じることができません。しかし、それでも誰かと共に祈る時に、私達は決して私達を見捨てないキリストに出会うのです。このイースターの朝、また共にここアメリカでその歩みを続けることのできる恵みと喜びに本当に感謝いたします。

「足跡」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

2019年 3月17日「澄んだ目に映るものは」 主日礼拝

  3月17日 主日礼拝説教要旨
「澄んだ目に映るものは」 山本一牧師
ルカによる福音書11章33-36節


●あの第二次世界大戦の時、過酷な地上戦の舞台となった沖縄にある佐喜眞美術館には悲惨な集団自決をテーマとして描かれた「沖縄戦の図」(丸木位里・俊作)があります。

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その絵で最も印象的なのは描かれた人の「目」です。皆、瞳が描かれていないのです。戦時中、死の極限まで追いつめられた人間は、極度の恐怖や悲しみから自らの精神を保つために感情をマヒさせていきました。その現実を直視する事から逃げざるを得ない人間に「空白の瞳」を見たからです。また一方で丸木さんはこの絵の中央に3人の子どもを描き、彼らにだけ瞳を書入れました。それは、何物にもとらわれず、真実を見通す子ども達の瞳に未来への希望を託したという事なのです。
時に私たちもこの世で困難に遭遇します。その中で、私たちの心もまた、悲しみや恐怖、不安を感じ、そこから逃れたいと願い、呆然とし「空白の瞳」を得てしまいます。そのような中、それでもなお真実を直視し、希望をもって生きれるとするならば、私はあの過酷な受難の人生を歩まれたイエス・キリストにすがるしか他ないと感じるのです。


●今日の箇所でキリストは告げました。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い」。これはどういう意味なのでしょう。
今日の聖書箇所のすぐ後で、イエス様は当時の宗教家たちが「表面を取り繕い、清く美しく見せているが、その内面は強欲と悪意で満ちていた」事を指摘されています。イエス様は、自分自身の内にある悪を直視できていない当時の宗教家たちの姿を見て、自分の全てを神さまの光に照らしてみなさい、そうすれば、本当の輝きを、神さまの愛と赦しと救いを得ることができるんだと教えられたのです。
つまり、「澄んだ目」とは、私たちが自分自身やこの世の現実の良い部分も悪い部分もそのまま受け止めて見る目という事なのです。その「澄んだ目」を持つ時に、神様の前に自 分の全てが明るみに出される。そこで自己嫌悪にもなり涙も流す、けれどもその涙ながらに自分の全てを見つめる「目」からは同時に全ての罪を赦すキリストの光が温かく差し込んでくるのだ、という事を告げているのです。
「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、灯火がその輝きで貴方を照らすときのように、全身は輝いている」この言葉は、自分の全てをキリストの光に照らされた者こそが、この世で、温かなそして優しいキリストの愛と赦しの輝きを持つようになるんだ。ということを告げているのです。


●イエス様はまたこの世の闇にも目を背けずそれを直視されました。そしてそこに飛び込み生きられ、ご自身も迫害と受難の歩みを歩まれました。けれども中にあっても、イエス様は決して「空白の瞳」になる事なく、父なる神に希望を持って人を愛して、生き抜かれました。それは「誠実に今できることをなしていくならば、神さまが必ず応えてくださる」という信仰によってでした。そして、そのイエス様の姿に、当時絶望し「空白の瞳」を持って死んだように生きていた人々が立ち上がり、厳しい現実を直視しながらもそれを受け止め、希望を持ってイエス様と共に歩み始めたのです。厳しい現実と共に神の希望を見る「澄んだ目」を人々はイエス様から受けていったのです。


●東日本大震災の被害にあった三陸に「眼は臆病だが、手は鬼になる」という格言があります。これは、人の目はすぐに恐怖に脅えるけれども、どんな困難に遭遇しても、できることをしていけば、不可能が可能になる、という意味です。この格言の通り、あの東北の方々は悲惨な現実にあって、それと向き合い、復興に励んでこられました。その姿に私達も励ましを受けた事を思い起こします。
 今、ここにいる私たちにも現実を直視する「目」が与えられますように。そして、あのイエス様がいつも私達と共におられ、愛し赦してくださっているという希望に目が開かれていきますように。そして、困難の多いこの世にあって、今できることを、それぞれに少しずつなしていきたい。そう願います。

2019年 3月10日「神を信じ忍耐して」 主日礼拝

「神を信じ忍耐して」 山本一牧師

ルカによる福音書4章1-13節

●「人生、思い通りにならない」と感じる事の多い私にある牧師が次の言葉をくださいました。
「思い通りに行かぬことばかり。思い通りになら なくてよかった。思い通りになっていたら大変 だった。 神様の御心が一番」
そして「行き詰まりと、失敗ばかりの人生だが、そのつど、神様の方に目を向けられてきた」とその牧師は話してくださいました。思い通りに行かないその事を通してこそ本当の意味で神を知るのだと教えてくださったのです。
●本日受難節第一節に与えられた聖書は、イエス様を悪魔が誘惑したという箇所です。
「悪魔」がイエス様を3度誘惑しますが、その内容は「神の子なら石をパンに変えてみてはどうか」。そして次に「もし私に跪くなら、この国の一切の権力と繁栄を与えよう」。そして、最後に、「神殿の屋根から飛び下りて見よ。神が助けてくれるはずだから」。というものでした。 
もしもそのような力が与えられたら、恐らく人生全て思い通りに事が運び、ストレスも無く、苦しまなくてすむというような内容です。しかし、聖書はそれらすべての事が「悪魔」の誘いなんだと告げているのです。そして、イエス様はそれを退けられたのです。
この話は、何でもすぐに思い通りになる人はこの世にはいないという事、そして、そこに必ずしも、神のみ心や神の恵みがあるわけでは無いという事を教えているのです。そして何よりも大切なメッセージは、そのように、不自由さや限界、不安や困難を避けられない私たち人間と共に忍耐強く生きる決意をイエス様がされたのだということです。実際に、イエス様は身をもってその十字架の死にいたるまで思い通りにならない人生を生きられ、同時に父なる神に希望を置き、父なる神のみ旨を信じて歩み抜く事を示されたのです。
今日の箇所の最後に「誘惑する悪魔は離れ去った」とありますが、悪魔は後に戻って来ます。それはイエス様が十字架につかれる前、ゲツセマネというところで祈っていた時です。

イエス様に十字架の死が迫ってきました。逃げ出す事もできたでしょう。しかし祈りの果に裏切り者のユダが向かってきた時、イエス様はここにも神のみ旨があるに違いないと立ち上がり、その運命へと向かっていかれたのです。このイエスさまの姿は「自分の望む道が開かれない事はある、けれども、信じて歩むなら、そこに必ず神の「御旨」がある。だから共に忍耐して歩みましょう」という励ましのメッセージを伝えているのです。そして復活という出来事によって、そのことを立証されたのです。
私たちの思い通りにならない歩み、そこにイエス様が共におられ、そこに深い恵みがある事を聖書は証しているのです。
●来週日本に本帰国される石井さんご家族との交わりを思う時にも、苦労の多い異国の地で助け合い祈り合う素晴らしい時が与えられました。深い感謝や決して忘れる事のない心温まるような思い出といった何にも代えがたい恵みは、すぐに解決されない問題や困難な課題がある只中で、助け合い祈り合う事を通して神様から備えられたのだと感じるのです。思い通りにならない時「神はいない」のではなく、思い通りにならない時、人を通して、神を、キリストを知る事ができる、それが「信仰者の交わり」教会の素晴らしさです。
●私は「教会」を思う時に、日本のある土地を思い起こします。日本の屋久島です。
日本の屋久島で数千年生きている屋久杉は、置かれた厳しい環境の故、他の木々と繋がりゆっくりと成長し、丈夫な木とされます。人もまた様々な環境的制約や人間の限界、弱さを持っています。しかし、そのような中で共に忍耐し、神に希望を持って育まれる命は、美しく、また強くされるのだと信じたいのです。ご帰国される石井さんご家族の歩みがそのような神にあって豊かに成熟される歩みとなりますように。また、これまで100年以上もこの土地で生き抜いてきた日語部は、ゆっくりかもしれませんが、これからも成長し、人に希望を示し続ける素晴らしい群れとなっていく事を信じています。共に忍耐しつつ、希望をもって歩んでまいりましょう。

2019年 3月3日「春を待つ信仰」 主日礼拝

「春を待つ信仰」 山本一牧師

ルカによる福音書 9:28-37

●この度の冬季休暇、雪深いシャスタ山に行く道すがらアーモンドの花が美しく咲き始めているのを見、寒い日が続く中にも春の到来を感じました。厳しい冬も必ず終わり春が来る、この事は私たちの大きな希望です。
●先日私たちの教団「合同メソジスト教会」の特別な会議が開かれました。世界中のUMCのリーダーたちが集まり決議した事柄はLGBTQの方々に開かれた私たちの教会にとって厳しいもので、同性愛を禁じる文言が、私たちの教団の規則に残され、実質LGBTQの方々を教会から排除するような決定となってしまったのです。今や、この教団の歩みは冬に入ったと言わざるをえません。そのような中にあって、今最も必要なのは「希望を持って歩む一人一人」です。それは寒さの厳しい冬を生き抜いていくような歩みかもしれません。しかしイエス様がまさにそのような歩みを先頭に立って歩まれた事を思い起こしたいのです。
●イエス様の人生にもそれぞれの季節がありました。田舎町ガリラヤで慕われる仲間たちと共に豊かに活動した「ガリラヤの春」と呼ばれる時代。寝る暇もないほど忙しく人を愛し、癒やして働かれた充実の夏、そして、当時の権力者から命を狙われるような不穏な空気が流れる秋を駆け抜け、さらには十字架に示される辛く厳しい冬を迎えられたのです。
聖書はイエス様がその冬(受難)の歩みを先頭を立って進んでいかれたと記しています。なぜイエス様はそのように受難の時を力強く生きることができたのでしょう。今日の聖書はそのヒントを教えています。
●ある時、イエス様は一番近い弟子達を連れて祈るために山に登られました。そしてそこで「モーセとエリヤと共にイエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後について語り合っていた」といいます。つまりイエス様は、過去の神を信じ生きた代表とも言える二人の生き様に触れ、励ましを受け「信じ生きる者を神は見捨てない」というメッセージを信仰の先達から受けておられたのだと思います。そして、直前の箇所でイエス様が「たとえ十字架の死を迎えても復活する」と予告されたように、厳しい冬の後に必ず春が来る、という信仰がイエス様の受難の歩みを支えていたのだということを私たちは知らされるのです。
●弟子の一人のペトロはその山の上に仮小屋を建てて、皆で住む事を提案をしました。しかし、イエス様は山から降りて、危険と困難が渦巻くこの世に飛び込んでいかれたと記されています。これは、仲間だけの安全な場所から全く違う価値観の人々と共に生き、痛み、苦しみを甘んじて受け、忍耐しながらも対話していく場所へ出ていく事がキリストの道であり、キリストに従う私たちの道でもあるのだと教えているのではないでしょうか。
そして、ペトロが聞いた神の声「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」は、この厳しい冬を思わせる世の中にあって、イエス様はいつも私たちの苦しみを理解し、寄り添ってくださるという約束の言葉なのです。人の無理解と虐げの中で「私もそうだったよ、でも神を信じ、愛を信じ、謙って希望を持って歩む時に、父なる神は絶対に私を見捨てない、最善の道が開かれるんだよ」と言ってくださるイエス様がいてくださる事を共に信じていきたいのです。
●先にお話した教団会議の厳しい決議を受けて、すぐに私たちの地域のビショップ達がビデオで、メッセージを発信されました。そこに困難な時にあっても、希望を持って歩むあのキリストの姿を見る思いがしました。
 季節は春を迎えますが、これからの世の中はますます生きにくい時代に入っていくかも知れません、しかし苦しみを知って下さる主がいつも私たちには与えられており、また、希望を持って歩もうとする信仰の友が与えられているその事を信じ、私たちは連体し、共に神さまが必ず備えられる「春」を待望み、冬を思わせる様々な状況にあっても、先頭に立って歩む群れとなりたいと願います。


2016年 11月20日「蒔かれた種が実る時」 収穫感謝日礼拝

11月20日 主日礼拝説教要旨
「蒔かれた種が実る時」   山本一牧師
マルコによる福音書14章1節~11節

●農業では、種を蒔いても全てが順調に育つのではありません。収穫には困難もつきものです。私達の人生も同じようなものです。夢や目標のために努力し、それがすぐ達成される事もあればそうでない事もあります。今日は「長い時を経てみのる実りもある」ということを味わいましょう。
●江戸時代に日本の屋久島に上陸したシドッチ神父はイタリア人宣教師でした。彼はローマ法王庁より日本に派遣されるにあたって、少ない資料から3年間必死で勉強しました。しかし、それが実ったかというと決してそうではありませんでした。
上陸した時、彼は異様なちょんまげを結い、刀を差して武士の姿に変装していたというのです。その異様な姿はさすがに目立ち即日役人に捕らえられ、江戸へと送られてしまいます。そして牢獄で生涯を終えたというのです。これだけ見ると彼の宣教は失敗ですが、後に全く予想しない実りが実ることになったのです。
●シドッチ神父を江戸で取り調べたのは当時の知識人新井白石。彼は誠実なシドッチ神父の人柄に惹かれ、彼の言葉を書き残します。そして有名な書物『西洋紀聞』を書き上げるのです。そこには「地球は丸い事、5つの大陸があること等の知識が記されていました。彼は1714年46歳にして獄中で無くなりましたが、その貴重な世界の情報は幕府の指導者達の間で受け継がれ、19世紀半ば、日本が開国を迫られた危機的状況にその本が、日本の方向を決定づける大切な判断材料の1つになり、日本が世界に開かれていく一つの大きなきっかけとなったのです。シドッチ神父の計画と夢は本人が全く意図しない形で160年かけて大きな実りを実らせたのです。 ●今日の聖書はイエスに香油を塗った女性のお話です。ある食事の時、彼女はイエスに約300万円相当の香油を注ぎかけました。周りの弟子たちは、もったいないと言って激しくこの女性を非難しました。けれども、イエスはその女性に対して「この人はできる限りのことをした。」と言い、これは自分の埋葬の準備となると言われました。
自分のことしか見えていないように見える彼女の行動ですが、ただ主イエスを思い、最高の愛をもって精一杯主イエスに仕えようとしたこの女性の業は、最終的に神のご計画の中に入れられていくのです。
●私達は自分に自身が持てない事も多く、何かと気にして行動できなくなる時もあります。また時にこの女性のように、良かれと思ってしたことが周りから見るとそうではなく非難されてしまうと言うことも多々あります。
けれどもイエス様は「それでいいんだ」と言ってくださるのです。私達人間が与えられた環境においてイエス様の喜ばれることを!と思い最高の愛を込めてできる事をなしていく。それを神様は喜んでくださるのです。すぐには評価をされない事もあります。けれども時を経て神さまの業の一端を担っていることがあるんだというのです。そのように時を経て実る実りがあるのです。
●たった一度しかない、かけがえのない人生をイエス様を信じて思い切って生きましょう。それが、かならず時をえて、実を結びます。また私たちが出会う人、職場や教会にもに違いがあります。自分が望む実りがすぐに実る事もあるでしょう。けれども、長い年月を経て実るものもあります。その事を覚えて、実りを信じつづけるキリスト者となりましょう。私たちのつたない歩みから「豊かな実り」を生み出してくださる神さまの力を信じて。

 

2016年 11月13日「仕え合う幸せ」

11月13日 主日礼拝説教要旨
「仕え合う幸せ」 山本一牧師
マタイによる福音書5章1~12節

●先日の大統領選挙以来、多くの方が不安を覚えています。私は今のアメリカが、事業家であり不動産王である候補者を選んだところに、この国が経済の発展を第一に望んでいる事を強く感じ、少し経済偏重が行き過ぎではないかと感じました。今は、むしろ人の本当の幸せはどこにあるのか問う時ではないかと思うのです。
●時々、漢字というのは面白いなぁと思います。「幸せ」という漢字は「土」という字と「¥」という字にわけられます。土地と、お金があれば幸せだと言う風に読めます。その通りに、90年台は土地と日本円があれば幸せが得られるという幻想に人々は狂いました。しかし実際はバブルに過ぎず、お金や土地を追い求めた結果、幸せになれたかというと、そうではなかったのです。
●聖書は幸せについてどのように語っているのでしょうか?今日の福音書は有名なイエス様の山上の説教の始まりで「幸せ」について語っています。しかし一見するとあまり幸せそうではない事ばかりです。
「心の貧しい者は幸いである」これはギリシャ語では「プネウマ(霊・息)が貧しい」と書かれていまして「霊的に貧しい」(元気のないような人)とか、「息も絶え絶えな、弱っている人」という風にとれるのです。「柔和な人」も英語ではMeekで、「意気地がない人」と訳したほうが良いでしょう。また「悲しむ人」、や「正義のために迫害されるもの」も到底幸せそうには見えません。実に、これらの人は皆、この社会で少数者であったり、抑圧されていたりするものたちを示しているのです。
そして英語ではこの「幸せだ」という言葉はHappyではなくBlessing(祝福)です。神さまからの祝福があなた方にある。という うことなのです。言い換えると迫害されて、おびえ、悲しんでいるような、あなた達には私、神の子イエス・キリストがいるということなのです。
●私は、この度、本当にそうだと感じました。この度の選挙以来、誰が一番不安の中にあるだろうと考えた時に、ハッと、先日隣の教会のミニストリーで出会った近隣のヒスパニック・ラティーノ系のご家族のお顔が浮かびました。様々な事情で不法滞在になっており、公的支援をうけられない家族でした。
私は、そのご家族の事が思い浮かんだとたん、心臓がドキドキ、息苦しくなる思いでした。そして丁度祈祷会をしておられたので駆けつけるとその家族のご主人が日雇いの仕事を求めて行った店の前で取り囲まれて不法移民である事を責められたそうです。また、子どもたちは親と離れ離れになるのではないかと恐怖を抱いていました。
私たちは皆で手を繋いで祈りました。
私は「息の絶え絶えな人は幸いだ」「悲しむものは幸いだ」そのような言葉の意味が本当にわかっていませんでした。でもこの時、あぁここにイエス様が目には見えないけれどもいてくださるんだ、と感じたのです。そしてこのご家族を思うと、不思議と力が湧いてくるように感じたのです。
●幸せという漢字の話をしましたが、昔、幸せとは「仕合せ」とも書いたそうです。互いに仕え合う間柄に幸せがあるんだという風にとれます。
誰が国のリーダーであっても、厳しさや悲しみ、苦しみはこの世からなくなりません。大きな権力のうねりの中で、私たち教会にできることは、今一番弱り悲しんでいる人に寄り添っていくことです。そこにイエス様の慰めと励ましと支えが感じられるのです。そのような、互いに仕え合う中で与えられる本当の幸せを教会は求めていきたいと思います。

2016年 11月6日「生きている者の神」

11月 6日 主日礼拝説教要旨
「生きている者の神」   山本一牧師
テモテへの手紙一1章12~17節
ルカによる福音書20章37節~38節

●人間が造ったのではない「豊かな自然」は人に感動を与えます。しかし、科学技術の発展は人間に快適な生活を人にもたらす一方、私たちの環境を「命あるもの」ではなく「命の無い」無機質なもので埋め尽くそうとしています。そして人は「生きた物」との関係を奪われ、本当に大切な何かを失っているように感じます。
●スペインの建築家ガウディは「自然界には直線はない。直線は人間が作り出したもの、神の創った自然なものは曲がっているのだ」と言いました。「命あるもの」は曲がっているのです。私たち人間も同じです。人は素直になれなかったり、上手に生きられなかったりする存在なのです。だからこそ忍耐や愛や感動やドラマがそこに生まれるのです。教会に色んな人が集っている事は何と素晴らしい事でしょう!
●聖書にでてくる人物も一人残らず、完璧ではなく、性格も人生も曲がりくねっています。テモテへの手紙は使徒パウロの人生について語られています。使徒パウロの自身「わたしは、迫害した者で、罪人の中で最たるものです。」と延べ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と言っています。
正しい人、真っ直ぐな人ばかりだったら、イエス様は必要ないのです。実際に、私たちは生きている以上、誰一人、完全に真っ直ぐには、なりえないのです。そんな私を憐れみ、私を救うためにイエス様が十字架にかかってくださったのです。そんなパウロの信仰、感謝がここに溢れています。 神さまはそのようにして不完全な私たちに憐れみと恵みを与えて、神さまの御用に用いようとされるのです。
●後から読みました福音書ルカによる福音書にはこのような言葉がありました。
「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神である」また「神は死んだものの神ではなく、生きている者の神だ」というイエス様のこれらの言葉に心を打たれます。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ユダヤ人にとっての偉大な先祖とされていますが、旧約聖書を読むと度々失敗して、ひどい事もしています。彼らも私たちと同じく罪も犯し、また同時に神さまに従いたいと思う気持ちもある。そんな生きた人間だったのです。しかし神さまは、そんな決して真っ直ぐではない、「生きた人間」の神であり続ける、と宣言されたのです。
私たち人間は速さや快適さを求めます。真っ直ぐさを求め、従順で無機質な者を愛します。けれども、神さまは違うのです。生きている者、不完全で曲がっているものを愛されるのです。
生きたクリスチャンとは、完全な人になる事をめざすのではなく、不完全な私たちである事を日々覚え、感謝のうちにあのイエス様の愛をもって互いに祈りあい、励ましあって歩んでいくのです。
●吉野弘さんの詩『祝婚歌』はそんな生き方をよく表しています。「完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい」「立派でありたいとか 正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わずゆったり豊かに 光を浴びているほうがいい」「生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい」不完全な、そのままの私達と共に生きる主に感謝します。

2016年 10月30日「主の信頼を受けて」

10月30日 主日礼拝説教要旨
「主の信頼を受けて」 山本一牧師
ルカによる福音書19章1~10節

●ひと月の間、日本で両親と共に沢山の時を過ごす事ができ感謝でした。未熟な私を誰よりも私を信頼し、根気強く支え導いてくれたのは両親でした。
父はお米の研究者で、小さなお米の一粒の中に込められた無限の可能性を信じ、研究に取り組んでいました。父は本当に頼りない私という存在に対しても、その内なる可能性を信じてくれていたように思います。そしてその「信頼」こそが、有り難かったと、今、心から感謝しています。
●使徒パウロは自らが生み出したコリントの教会に何度も手紙をおくります。派閥争いなど様々な問題があった教会と信徒に対してパウロは、繰り返し「あなたたちには神の霊、命が宿っている」と語りかけているのです。あなたがたは「神の神殿」「神の実りを生み出す畑」や「尊い恵みを内に入れる神の器だ」という言葉です。
初代教会を支え、成長させたのはこのパウロの「信頼」だったのです。そして福音書は、イエスさまこそが愛と信頼をもって人と出会われたのだと告げているのです。
●今日の福音書はザアカイのお話でした。
ザアカイは人々から税金を取り立て、ローマ帝国にそれを治める徴税人で、当時のユダヤの民たちからは、裏切り者で私服を肥やす罪深い人だと考えられていました。
そんなザアカイですが、彼の心はどこかで神を求めていました。イエス様が近くを通られると聴き、背が低いザアカイはいちじく桑の木の上にまでのぼってイエスを見ようとしたとあります。そんな彼にイエスさまは目をとめられました。そして、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられたのです。
 イエス様は表面的な部分をみてザアカイを責めず、その彼の心の奥底に微かに、けれども確かにある神への信仰を見て、私はこういう人の内に宿り「内なる信仰」を燃え上がらせるために来たのだと言わんばかりに、声をかけられたのです。
9節の「この人もアブラハムの子だ」と言う言葉はこのザアカイも偉大な先祖と同じく神への信仰をもった一人だ、という信頼と愛に満ちた言葉です。実にそのようなイエス様の信頼がザアカイの人生を変えさせました。彼は「財産の半分を貧しい人に施す」と言いました。ザアカイは信頼された喜びと共に変えられたのです。
●表面的な部分を見て、すぐに罪人だと判断がくだされるようなユダヤ社会の中にあって彼を信頼する者はなかったのでしょう。今の時代も同じです。少し変わった行動や、言葉でその人の全てが図られ、否定さがちです。私たちは人や物事の悪い一面だけを見て過剰に不平を言い、あきらめてしまいます。しかし今もイエス様だけは全ての人を信じる事によって「溢れる喜びと共に」人を変えていっておられるのです。
●私自身この度、日本でお世話になった教会を再び訪ねてみて、本当に未熟な私が教会の牧師や人を通して、この主の信頼と愛を受けて、喜びと共に変えられてきたのだという事に気づきました。「教会は人を育むことのできる最高の土壌」です。信じがたきを信じる神の愛があり、人を豊か成長させて頂く事ができる場所です。
ぜひ教会に繋がり続けて下さい。どれだけ自分が小さく思えようともイエス様は「そんなあなたの心に宿りたい」と私たちの小さな信仰を力づけ、励まし、そして本当に幸せに生きる道へと導いてくださるのです。そして、私たちも互いに心の奥そこにある信仰の輝き、可能性信じあい、歩んで参りましょう。

2016年 10月9日「Who I am?」 山本知恵牧師

10月9日 主日礼拝説教要旨
「Who am I?」 山本知恵牧師
テモテへの手紙Ⅰ 3章14~16節

●先日の水曜日の黙想礼拝で、キース牧師はサンタクルズの美しい海と大自然の中で作られたというポエム(詩)を紹介してくださいました。それは、小さな海辺の生き物に焦点をあてて書かれた、わたしたちの「存在」とは一体何なのかという問いを静かになげかけてくれる内容のポエムでした。
●わたしは昨年、「鬱」という状態を経験しました。いろんなタイミング、また体調、ショックな出来事など、様々なことが重なったり、小さなことが引き金となって、人間は心も病にかかるのだと感じました。私はこの時に、生まれてはじめて、「Who am I?」という問いを自分自身に問いました。
イエス様は「疲れたもの、重荷を負うものはだれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」と言われた後にこう続けて言われました。「わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
●私達は知っています。イエス様が負われた荷というものは、決して軽いものではなかったということを。誰よりも重く、イエス様ご自身にも決して負いきれない重すぎる重荷で 
はなかったでしょうか。ここで、「わたしに学びなさい」という言葉に大きなヒントがあるのです。私たちは、イエス様の生きざまを通して、またイエス様の「命」を通して、本当の意味で神を知ることがゆるされているからなのです。
イエス様の荷がなぜ軽かったのか。イエス様のくびきがなぜ負いやすかったのか。それは、イエス様がいつも、自分はだれなのか、自分は一体どこにつながっているのかを問い続け、見出していたからではなかったでしょうか。私自身が「わたし」を見失ったとしても、わたしのいのちに意味を見出し、わたしの命を愛しぬいた方が、どんな時もわたしを見出していてくださるということに、わたしたちも気づいていたいと願います。どこにいても、どこで倒れていても、どこでのたれ死んだとしても、道をあやまったとしても、もと来た道を引き返してしまったとしても、必ず、この方がわたしを見出して、その小さな、塵のようなこの恥ずべき私の命を、だれよりも愛していて下さることに、目を開かれていたいのです。
●わたしは誰なのか、そのことをいつも問いながら、同時に、神を見上げて「あなたはどこにいるのか」と私たちも神を探し求めていきましょう。

 

2016年 9月25日「門前のラザロ」

9月25日 主日礼拝説教要旨
「門前のラザロ」 山本一牧師
ルカによる福音書16章19~31節

●人には決して自由に動かせないものがあります。それが人間の心です。自分の心であれ他人の心であれ、それは神さまの領域だと感じます。
●今日の聖書は「金持ちとラザロ」のお話です。生前貧しく、苦しんでいたラザロと贅沢をして暮らしていた金持ちの立場が死後、逆転してしまうというお話です。このイエス様のたとえ話のポイントはどこにあるのでしょう。
今日の直前の箇所を見ると、ファリサイ派の人々に対してイエスさまは「あなた達は人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である」と言われました。つまりイエス様は表面的な行いよりも「心」が大切だという事を教えるためにこの譬え話を話されたのです。当時のファリサイ派の人々は神の戒めを守る事には必死でしたが、その心に愛や同情が無くなっていたのです。それはこの譬話の金持ちのユダヤ人に重ね合わされます。
このお話の中で面白いのは、犬が登場するところです。時に人間よりもよっぽど動物たちのほうが私たちを慰めてくれると感じます。「犬が彼に寄って来てそのできものをなめた」とあります。この言葉には、犬でさえ彼を慰めたのだと皮肉を込めて言っているのです。
●ここにでてくる、金持ちとアブラハムのやり取りは全て「心」の事を問題にしています。なかなか聖書を読んでも変わらないような、自分中心な、律法主義的な心は人には変えられないのだと言っているのです。
金持ちは「こっちにラザロをよこせ」とか「わたしの兄弟のためにラザロを送れ」と言いますが。この言葉にもラザロに対する労わりや、彼を無視してきたことへの後悔の念が感じられません。彼が考えているの は自分とせいぜい身内のことばかりに見えます。しかし、私たちもまたこの人を無視にする事ができません。
●ではそんな自己中心的で貧しい人に同情できない人は死んだら地獄いきだといっているのかというと、そうではありません。
これは陰府の話だと記されていますが、ここにはイエス様は登場していません、先に死んだアブラハムだけです。そこで金持ちは苦しんでいるのですが、まだそこで悔い改める機会が残されているのです。この後で、その誰にも渡ることのできない陰府の大きな淵をイエス様が十字架にかかり死んで超えられて、その陰府にいる全ての人をも救われることを示されたのです。この金持ちも心動かされて悔い改め、イエスキリストによって救いと平安に入れられていくと言う可能性が残されているのです。
●イエス様は今日の例え話を通して、私達には「裁きの時」が与えられるのだと語られたのです。「裁きの時」というのは、いわば、「全てに気づくとき」です。「自分はこんなに愛されていたんだ」「赦されてきたんだ」など、振り返ってみて本当に何と自分は自己中心的だったんだと気づかせられる時がくる。それが聖書が教える「裁きの時」です。それは言い換えると「悔い改めの時です」それは今与えられるかもしれないし、明日かもしれない。死んでイエス様と出会い、初めて気づかせられるのかもしれないのです。そして低められて、大きな神恵みに気づかせられていくのです。
●私たちには自分で心を変えることはできませんが、必ずやそのような「気付きの時」が神によってもたらされるのだと聖書は告げているのです。これまではなんとも思わなかった「門前のラザロ」を思い、涙を流して、自らを神様の前にへりくだらせていく時が来る。そして、実はそこに神の本当の平安と救いがあるのだと聖書は、イエスさまは告げておられるのです。