詩編

2016年 5月29日「新しい歌」

5月29日 主日礼拝説教要旨
「新しい歌」 山本一牧師
詩編96 1節~13節


●「唄を忘れたカナリアは象牙の船に銀の櫂月夜の海に浮かべれば、忘れた唄を思い出す」
このカナリアのように人は誰でも、恵まれた環境にあるなら、喜びの歌、讃美の歌を歌うことができます。しかし現実は厳しく、誰でも一度位、唄を忘れたカナリアになる、つまり昔のように喜びたくても喜べないという状況に陥る事があるのはないでしょうか。ただ、その様な時にこそ「新しい歌」が与えられるのだと今日は覚えたいのです。
●初めて着任した教会で幼稚園バスの添乗をしていた時、新学期に必ず親から離れられない子どもがいました。その子を母から引き剥がして乗せるのに最初は気が引けましたが、案外バスに乗せてしまうとケロッとして友達と笑い出したりするのです。
新しい喜びを見つける能力は大人よりも子どもの方が優れているように思いました。子ども達はこのように新しい喜びを発見し、自分の世界を広げていくのです。不安を伴う新しい環境は、苦しみでもあるが、それは新しい喜びに出会うチャンスでもあるとこの子ども達から教えられました。
●「新しい歌を主に向かって歌え」で始まる詩篇96編には全世界を震わすような溢れる喜びがうたわれています。
このような素晴らしい詩を残した旧約聖書の詩人たちにもまた喜びの唄を歌えなくなった時がありました。それはバビロニア捕囚(BC598年)という出来事です。国が滅び、囚われの身となり、自由や思想を奪われる生活が50年近くも続いたのです。
実はこの詩編、七十人訳と呼ばれる古いギリシャ語訳の聖書によると今日の詩編の最初には「50年間バビロンの地にあって労働者にならざるを得なかった時を過ごした後、神がそこから補囚者たちを連れ戻した時の唄」と記されています。  そしてまた、この初めの「新しい」という言葉は「今まで全く見たことのない」という意味の言葉が使われているのです。
彼らは国が滅び、もう昔のような繁栄の時は二度とこないのかと思いながら半世紀を過ごした後、外国の王による解放という、全く想像も経験もしなかった出来事、喜びを与えられたのです。
●私自身、いくつか教会を移る中で過去に教会に失望した事があり、昔に戻りたいと思ったことがありました。けれども、確かに昔の教会環境に戻ったなら元気を取り戻したでしょう、しかし私は一生その同じ環境の中でしか喜べない、つまり「古い歌」しか歌えない、そんな人間になってしまったのではないかと思わずにはいられません。そしてやはり、神様は辛い時期を経て、新しい自分の発見や成長、友など、「新しい唄」を与えて下さったと感じます。
●イエス様は「今貧しい人、飢えている人、泣いている人は幸いだ」とおっしゃいました。それは辛い時こそ主に出会う時だという事なのです。この世の喜びはいつか消えうせますが、決して消えない喜びをイエスキリストは私たちにくださると新約聖書は告げているのです。これが私たちに与えられた究極的な「新しい歌」です。
●ある方は亡くなられる前、ベッドの上で涙を流しながらこう仰いました。
「私はこれまで生きていることが当たり前だと思っていました。でも今になって朝、目が覚めるということがありがたい事だという事に気がつきました。神様に共にいてくださるイエスさまに感謝です。」
たとえ死を前にしても、神を信じ、イエスキリストを共に感じることができるなら、私たちは「新しい歌」を歌うことができるのです。一人一人に、イエスキリストが共にある事による決して消えない喜び、全く新しい唄が与えられることをお祈りします。
 

2016年 4月17日 「主が共にいてくださる」

4月17日 主日礼拝説教要旨
「主が共にいてくださる」 山本一牧師
詩編23編


●過日より続く九州地方の地震の被害は深刻です。何も出来ないと絶望的に感じる事もあります。そんな中ある方が「教会でぜひお祈りさせて欲しい」と言われました。「そうか、離れていても祈る事はできる」と教えられ、また今できる事を神様を信じて希望をもって、諦めずにしていけば良いのだと改めて教えて頂いた気がしました。

●大地震が起こったエクアドルの童話に「ハチドリのひとしずく」というお話があります。
森が燃えていました
森の生き物たちはわれさきにと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは行ったり来たり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます
動物たちはそれを見て
「そんなことをしていったい何になるんだ」と笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」

●話はここで終わりますが、続きがあるとすれば、私はこの一匹のハチドリの誠実な姿に感銘を受ける者が次々と現れ、繋がり、大きな力となっていったという話になるのではないかと私は考えます。
私たち一人一人は小さな力ですが、無力感やあきらめを吹き払い「できること」について考え、行動を積み重ねてゆけば、そこに賛同者が与えられ、燃えている森の「火」を消す力にだってなれるかもしれないと思います。実際にそのようにして、私たちは大きな災害に立ち向かってきたのです。そして、私は、そこに神さまの力が働いている事を信じているのです。

 ●今日の詩編23編「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言う言葉で始まる、この詩はイスラエル至上最高の王であったダビデ王の詩とされています。
神が羊飼いに譬えられていますが、旧約聖書では珍しいのです。聖書の神様は人間の思いをはるかに超えた存在ですから普通「王」や「救い主」など一般の人が軽々しく近寄る事ができない存在に譬えられます。それを「羊飼い」と表現することで、この詩人は、神さまを手の届かない存在としてではなく、常に自分のことを心配し、導き、守り、癒やし、助けてくれる身近な存在として描いているのです。
4節が大切です「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
神様は天から災いをそそいで知らん顔をしているのではない、一匹の見失った羊を追いかける羊飼いのように私たちを愛し、私たちと共にある。目には見えないけれども、私たちが災いに会うときにそこに必ず共にいてくださるんだ。だから私は災いを恐れない。そう告げているのです。

●神を信じても災いは起こります。この詩の作者とされているダビデ王もイエスさまもまた、この世では苦難に合いましたが、常に父なる神に目を注ぎ、自分に与えられた運命、苦難に立ち向かっていったのです。
そのイエスさまの力が今私たちにも注がれている。苦難の時に共にあると聖書は告げているのです。
復興支援ジャズカツには900名近い方が来られました。私たちがくじけずに集り立ち上がったところに神様の、イエス様の力が不思議と働き、人と人が結びつけられ、大きな力となっていった事に感謝します。
 

2015年 8月23日「後の世に残すものは」

8月23日 主日礼拝説教要旨
「後の世に残すものは」山本一牧師
詩編105編1−11節


●8月21日の朝、レイパーク教会の堀越比佐子さんが99歳で召天されました。1938年から夫である堀越牧師とともにアメリカに渡られ、戦時中には強制収容所も経験もされた日系一世の一人でした。最後までこのベイエリアの日語部の事を思い、人を励まし生きぬかれました。私たちは皆、何を彼女から受けたのでしょうか。また私たちは何を後世に残していけるのでしょうか?
●内村鑑三は「後世への最大の遺物」という書物の中でこんな事を語っています。
「人が後世に残せる、価値の高い物の第一はお金だ。(しかしお金の良い使い方を知っている人だけ)。次にお金を稼ぐ能力がない人は『事業』や『思想』(ものの考え方)を残す事ができる」。そして最後に、お金も、事業も、思想も残せない人はどうなのかと言ったときに、彼は人としての生き様「勇ましい高尚なる生涯」を残す事ができ、実にこれこそが「後世への最大の遺物」なのだと締めくくるのです。
彼はまた、勇ましい高尚なる生涯とは「この世は悪の世ではなく神の世界であると信じる事、失望の世でなく希望の世、悲嘆の世なくして歓喜の世であるという事を自分の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として世を去るということである。」と言いました。平たく言えば、この世には色んなことがあるが、それでもなおこの世には希望があると信じ生きるということなのです。
●今日の聖書、詩編105編は2500年以上前頃に書かれたものです。詩人は「驚くべき(神の)み業」を歌え、また心にとめよ、と繰り返し述べています。ユダヤ人である詩人にとって最も大きな事は、出エジプトの出来事でした。弱小の民族で奴隷であったイスラエルの民達が、あのモーセという指導者によって導かれ、数々の奇跡を経験し つつ、守られ救われていった出来事です。この詩編の後半には、そのような神さまの不思議な導きと様々な奇跡が書き綴られていますが、詩人が伝えたいのは「神は生きておられ、私たち人間を決して見捨てず愛しておられる。神に希望がある」と言う事なのです。この詩を書いた詩人は、幸せな中でこれを書いたのでしょうか、そうではないと思います。周囲に絶望がある中でそう叫んでいるのです。
●昨今、この社会の現実を見たときにもまた「絶望」の淵にある命が本当に多いことを思います。社会にも、家庭にも、教会にも問題があります。しかし聖書は言うのです、こんな世の中だからこそ信仰をもって、神への希望を捨てずに生きていく人、「勇ましい高尚なる生涯」を世に示すことができる人が必要なんだと。
教会に集う私たちはぜひ、自らに与えられた能力をフルに用いて、絶望の淵にある友のために大いに何かを残していくべきです。残せるなら「お金も、また事業も、そして思想も」。そして何よりも、自分が苦しみの中で実際に経験した「神さまの驚くべき愛と希望を伝えなければならないのです。
「驚くべきみ業をことごとく歌え」と詩人はいいました。この「歌う」とはそれは、この世に神さまが生きておられ、私たち人間を愛しておられるということを喜びつつ全身で伝えなさいという事なのです。
●振りかえって、堀越比佐子さんもまた、その小さなお体で、最後はガンに蝕まれた体で、なおも神さまの存在を、希望を愛を歌っておられたことを思い起こすのです。
そのように私たちの信仰の先輩達が、困難の中、目には見えない主にある希望を高らかに歌ってきたように、今、私たちもこの世の苦しみのただ中で、神さまの愛と希望を歌っていきたいのです。
「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、私は既に世に勝っている」そう言ってくださるイエスさまと共に。