創世記

2015年 2月22日 「虹の契約」

2月22日 主日礼拝説教要旨
「契約の虹」山本一牧師
創世記 9章8~17節

戦争の続く中東でジャーナリストとして活動し、命を奪われた後藤健二さんはこのような言葉を残されました。「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」。彼は「アラブの兄弟」つまりイスラム世界に生きる人たちの中に「平和の教え」を発見したのです。イスラム教は本来「平等と平和を求める宗教」です。人も自分も傷つけてはいけない。ジハード(聖戦)という言葉も、不可避な防衛の戦争のみで、非戦闘員への攻撃は禁止、捕虜の人道的扱いも規定されているというのです。
けれども歴史を振り返れば、多くの宗教が平和の教えを持ちながら血で血を洗うような争いを生み出してきました。何故でしょうか?それは、先の言葉に反して人は「神に代わって私が悪を懲らしめなければ」と強く思ってしまうからではないでしょうか。しかし、本当にそのような方法で世界が変わるのでしょうか?神様の本当の思いは一体・・・?

●今日の聖書は創世記の「ノアの箱舟」の物語の一部です。神が洪水で堕落した世を洗い流され、ノアとその家族、また動物を箱船に入れて救われたという有名なお話しですが、この物語の最後の場面で、神様は自分のされた事を思い直され、人間とまた全ての生き物と契約を立てられるのです。「私は、あなたたちと・・・契約を立てる。私があなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされる事はなく・・・」

 神様はこの契約の徴として「虹」を用意したとあります。虹という言葉はヘブライ語で「弓」です(英語でもrainbow=雨弓)。虹の丸くなった半円を古くから人は神の弓「ケシェト」と呼んだのです。


「神が雲の中に虹(弓)を置かれた」という言葉の意味は、神さまが地上の全ての存在に対して、自らが持つその武器を放棄したという事を表しているといえるでしょう。人間が悪いからといって暴力的に滅ぼすようなことを「わたし」神はしないという宣言なのです。そして神はその代わりに独り子であるイエス・キリストを世に遣わしたのだと告げるのが新約聖書です。

●新約ヨハネ福音書3章には神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためだ、とあります。
神様なら、悪い心を持っている私たち人間を裁くために天の武力、軍隊を天から派遣できたかもしれない、けれども「虹の契約」をされた聖書の神様はそんな事はされず、ただイエスをこの世に示されたのです。イエスさまは神の子でありながら受難、苦しみに会われたと聖書は告げます。イエスさまというお方は「私が神に変わって裁かなければ」といきり立つ人間の中で、静かに、優しく愛と赦しを持って十字架の苦難の道を歩まれたのです。冒頭で「目を閉じて、じっと我慢・・・」というアラブの方々の言葉を紹介しましたが、まさにそれはイエスの歩みだったのではないでしょうか。

●神さまは武器や暴力、憎しみではこの世も人も変わらない。「愛」や「優しさ」でしか変わらない事をご存知で、イエスさまというお方を示されたのでしょう。

怒りや憎しみ、妬みを興さない人はいません。そんな私たちに神様は言われるのです「そんな弱いあなたを、私はわかっている。でも、そんなあなたを私は決して、滅ぼさないですよ」ただ、私の遣わしたイエスさまにすがっていったらいいんですよ。「深い愛をもったイエスさまを思って、あなたもまた祈っていくなら、忍耐していくなら、必ずや心の底から変えられて、イエスさまの愛と共にこの世で生まれ変わった命を私たちは生きることができる。そして、この世もまた変わるだろう」。そう神様は約束して下っているのです。共にこのことに希望をもってまいりましょう。

2014年 12月14日 「闇の中の光」

12月14日 主日礼拝説教要旨
「闇の中の光」山本一牧師
創世記1章1~5節


●サンノゼは旱魃から一転して連日の雨模様となっています。私はこの天気の中、以前住んでいた新潟の地を思い起こしました。新潟の冬は厳しくこの時期はいつも曇りか雨か雪、日照時間も少ない。けれども不思議と振り返ってみると温かな印象を思い起こすのです。

「雪ふかく、寒さ暗さは厳しかれど人の心のぬくもり知るなり」

私たちが寒い中で温もりを知り、暗い中で光知るように、この世の闇の只中で私達は神さまの光と出会うのだと聖書は告げています
●聖書の創世記にある天地創造のおはなしは次のように始まります。「はじめに神は天と地を作られた、この地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。「混沌」という言葉は、ヘブライ語で「トーフー(形がない)・ワ・ボーフー(空しい)」という二つの言葉からなる熟語で書かれています。形なく、むなしく、秩序もない。聖書はこの世界の初めの状態を、そのような言葉をもって表現しているのです。
しかし、そのような混沌と闇の世界に神が語りかけます。『光あれ』。すると光があった。
この天地創造のお話は聖書の民イスラエルに古くから伝えられていたのだと考えられますが、実際に書き記されたのは紀元前6世紀頃だと言われています。そしてその時期は、イスラエル史上最悪の暗黒の時代、バビロニアという強力な国によって滅ぼされた「バビロニア補囚」と呼ばれる時代だったのです。
祖国は荒れ果て、空虚が支配している。まさに混沌(トーフーワーボーフ)の状態。そのような中にある人々に対してこの天地創造物語は、天地万物を作られた私たちの神は、生きて今も「光あれ」と力強く語りかけ、暗闇に希望の光を照らしてくださる。そのような希望を告げてきたのです。

 ●さて、それでは今はどうでしょうか?犯罪や事件の不安に脅かされる社会。身近には老い・病・死という暗闇がある。自分の至らなさや弱さ冷たさに震えることもある。このいつも日が差し、温暖で素晴らしい気候のサンノゼにあっても、私たち人間を取り巻く暗闇は確実にあると思うのです。けれども、そこに神様は「光あれ」と語られる。その闇の只中に光はあるんだと聖書は告げているのです。

●新約聖書の時代に至り、その光とは「イエス・キリスト」であったのだという事を知らせています。ヨハネ福音書は「光は暗闇の中で輝いている」、「その光は、まことの光で世に来てすべての人を照らすのである」と告げ、イエスさまという光もまた、世界がいかに混沌とした闇に見えようとも消えない、いやむしろ社会が混沌として闇が濃くなればなるほど光り輝く存在だと告げられているのです。
逆にいうと、力があり、若さもあり、この世のスポットライトに包まれているような時にはなかなか、イエスキリストの光は見えないのかもしれません。けれども挫折もし、弱さを自覚していく時に、そんな自分の全てを赦し愛し、受け止めてくれる「イエスキリスト」の存在が大きくなっていくのです。
ヘンリ・ナーウェンというカトリックの司祭は「年を重ねる」ということは、確かに一歩一歩闇へ向かうとではあるが、同時にそれは全てを委ねる事のできる「光」へと向かう道なのだと言っています。

●私たちはアドヴェントの期間、「悔い改め」を意味する紫のろうそくに火を灯しつつ、自らを振り返り、自分の弱さを見つめます。そうして深く深く、主の救いの光に与るのです。

「我が内の闇の深さを知るる時、きらめくばかりの御救いをぞ見ん」


イエス・キリストはこんな私たちを罪から救うために、この世に来て下さった、というクリスマスの光り輝くメッセージ受け止めるために、今しばらく、自分自身の闇、世の闇を見つめて歩んでまいりましょう。