使徒言行録

2016年 5月15日「違いが大切」ペンテコステ礼拝

5月15日 ペンテコステ礼拝説教要旨
「違いが大事」 山本一牧師
使徒言行録2章1-12節


●京都の庭師であり、サクラの木を守る「桜守」でもある16代佐野藤右衛門さんは先代より「桜ばかり植えるな。必ず楓も植えとけ。桜だけ植えても、うまく育たんのや。やっぱり、他のものから刺激を受けんとあかんのです」と教えられたそうです。
桜は楓や紅葉が秋に素晴らしく色づくのを隣で見ていて大いに刺激され自分の美にさらに磨きをかけようとするのだ、というのです。木は同じ種類の木同士が互いに呼応し、気を放つとも言われます。しかしそれ以上に時に他の木からの刺激が必要だという、藤右衛門さんのような説もあるそうです。人も植物も宗教も「違い」に出会う事によってそれぞれが成長させられていく。これは真理だと思います。
●今日の聖書はペンテコステ(五旬祭というユダヤのお祭りの日)にイエスの弟子達に目に見えない神様の力「聖霊」が下ったと聖書は伝えています。そうすると、様々な国の言葉で弟子たちが話し始めたというのです。「どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」なんとも不思議な話ですが、ここには大切な意味が込められていると思います。
この不思議な出来事は、住む場所、言葉、生活習慣などに、大きな違いをもった全世界の人々に神さまの福音(キリストによる希望のメッセージ)が伝わるように、神様が一人ひとりに「違い」を与えられたということなのです。
今日の箇所から「聖霊」を受けるとは、人が同じ考えや同じ言葉になるのではなく、むしろ、個々に与えられた個別、固有の賜物が生き生きと生かされるという事だ知らされます。 
人と違っていてもいいのです。いや、違いにこそ神さまの力が働いていると、今日のペンテコステの出来事は告げているのです。
●神様は時に人と違った性格をあたえ、人生をあたえ、出会いや出来事を与えられます。何故でしょうか?それは全ての人が、この世で人としてより良く成長、成熟するためだと思うのです。佐野籐右衛門さんの言葉を思い起こすのです。
「桜だけ植えても、うまく育たんのや。やっぱり、他のものから刺激を受けんとあかんのです」
ユダヤ人だけじゃだめなんだ。ギリシャ人も、いやアフリカ人も、白人も、日本人も、日系アメリカ人もいないと神の国は育たない。皆違いをもって存在し、互いに影響し合う。そこに本当の人間の成熟と成長があるのだ、と神様は教えているのではないでしょうか。
違いを裁きあうのではなく、同じ神様から与えられた命の豊かさとして、認め合い、互いに影響し合うところに本当の幸せ、神の国が築かれるのです。
●神様は、本当に豊かなお方です。日本には日本のキリスト教、アメリカにはアメリカの、韓国には韓国のスタイルと・・・実にそれぞれの風土、個性、価値観に合った形で働かれ、彩り豊かに、主の証人が咲き誇っている。そのように感じるのです。
このアメリカにいる日本語を話す私たちは私たちにしか咲かし得ないキリストの花を咲かせ、その香りをただよわせましょう。そのために、違った霊性(スピリチュアリティ)をもった教会とキリスト者、また違う宗教の方々を神様が備えておられるという事を思い起こし、違いを認めあって歩んで参りましょう。そこに神の国が実現することを信じて。
 

2015年 5月24日ペンテコステ礼拝「神様の働きのわだち(足跡)」

5月24日 ペンテコステ礼拝説教要旨
「神の働きのわだち(足跡)」山本一牧師
使徒言行録 2章1−13節


●先週、野生動物保護区のショアラインを歩きました。丁度、干潮で泥の上に点々と続く水鳥たちの足跡に風情を感じました。生き物が通った後の足跡、車が通った後のわだちなどに風情を感じるのは万国共通なのではないかと思います。
ユダヤ教のラビ、ハロルド・クシュナーが「神様の働きのわだち」という事柄を「ユダヤ人の生き方」という本の中に記しておられます。出エジプト記33章で神はモーセに「あなたは私の顔は見ることができないが後ろ姿を見るだろう」と言われたとあります。ここを取り上げ、「神の実際の後姿を私たちは直接見ることはできなが、神の力が働かれたわだち、つまり足跡を見ることができる。」そのように語っておられます。では私たちは現実社会働かれた神の力の跡をどのように見つけるのでしょうか。


●本日は「聖霊降臨日」です。弟子たちに与えられた「聖霊」とは一体どのようなものだったのでしょうか。使徒言行録2章2節には「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」とあります。そもそも「聖霊」という言葉は聖書の言葉では「風」や「息」という意味の言葉が使われています。風はいつ吹くかわからない、見えないけれども確かにそこにあって、物を吹き動かします。古来よりイスラエル人は神さまの力をそのような風のようなものだと理解してきたのです。その神の風が、突然キリストの弟子たちに臨んだというのです。人々は「一同が一つになって集まっていた」とあります。これはエルサレムの片隅でイエスさまが居なくなった後、力を落とし、部屋にこもって、ただ祈るしかなかった弟子たちの姿を示しています。悲しみ、途方にくれ、希望を失いかけていたその小さな群れに、神の力が注がれた。これがペンテコステの出来事なのです。

    また、聖霊を受けた弟子たちが当時の周辺世界の様々な言葉を語りだしたとありますが、これは弟子たちが聖霊を受けて、神が望むままに全世界へと遣わされて行ったという事を示しています。そのように弟子たちが人が変わったように勇気を持って生き始めた。その姿に当時多くの人が驚きを覚え、神の力が確かに働いたその轍、足跡を強く感じたのです。
今を生きる私たちは、神の力を受けて突然外国語を話し出すということはありません。けれどもやはり同じように自分自身に、また周りの人や社会や教会に働く「神様のわだち」を見ることができるように思います。


●この度3週間、日本から来られたご夫婦が礼拝にお集いくださいました。娘さんの急な召天のためでした。今月初め、ご友人を通して急に連絡を受け、司式をする事ができました。聞けば、実は日本での教派が一緒であったり、共通の知人がある事がわかりました。そして、共に日本語での告別式を沢山のご友人と共にこの米国で持つことができました。これら全ての人の繋がりや働きを振り返った時に、私はここにも神様の慰め深い働きがあった事を強く感じたのです。神様は確かにこの悲しみの出来事の中に働かれてその足跡を残してくださった、と感じ、同時に「神様は悲しむもの、弱り、途方に暮れる者を決して見捨てられないんだ」と改めて信じる想いを熱くさせていただきました。
「私たちは神を直接見ることはできないけれど、神の力が働かれたわだち、つまり足跡を見ることができる」。苦しみの只中にある時には神の力が働いているかどうかわからない事もあります。後から、ああそうだったのかと気づかせられることもあるのだと思います。それが、神の働きのわだち(足跡)をみるという事なのです。


●「あしあと」(マーガレット・F・パワーズ)という詩があります。これは、望みを持って生きている人を決して主なる神は見捨てない。見えない力「聖霊」を送り支え助けてくださるという事を伝えています。この事に望みをもって共に歩んで参りましょう。また聖霊の力にゆり動かされてイエス様のように、私たちもまた隣人に手を差し伸べていきましょう。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
 



2015年 5月17日「その時を待つ」

5月17日 主日礼拝説教要旨
「その時を待つ」山本一牧師
使徒言行録 1章3−26節


●先日フィラデルフィアで発生した悲惨な脱線事故は2005年に日本の尼崎で起こったJRの脱線事故を私に思い起こさせました。あの時、やはり速度オーバーした運転手が非難され、JRが指導や安全設備の不備を責められました。確かにそこに責任もありました。ただ一方でこれは電車が少しでも遅れれば苛立ってしまうような「待つこと」ができない私たち現代人が生み出した事故だとも思ったのです。今回事故を起こしたアムトレインも米国有数の過密路線でした。スピード社会の引き起こした事故という側面はなかったのでしょうか。
「待つ力」は何かを「信頼する力」でもあります。私たちは神に祈り求めます。祈りがすぐにきかれたと思う時もあれば、そうでない時もあります。実は「きかれない祈り」にこそ大切な事が含まれているのです。何故なら「祈りがすぐにきかれない」という事を通して本当の意味で「神を信頼して待つ力」というものが養われからのです。この「信じて待つ力」こそが、現代の私たちにとって、最も必要で大切なものではないかと思うのです。
●来週は「聖霊降臨日」を迎えます。キリストの弟子達が見えない神の力(聖霊)を受け、力強く宣教に出ていった事を記念する日です。その前に彼らがしたことは「待つこと」だったと今日の聖書は告げています。
復活したイエスが天にあげられる前にこのように言ったと記されています。「エルサレムを離れず前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい、あなたがたには間もなく聖霊が授けられるからだ」(4節)。父なる神が約束されたもの、すなわちイエスの代わりに送られる神様の力、聖霊を待ちなさいと告げられるのです。続く7節でもやはり聖霊がくだるという約束が記されています。
自分たちが救い主だと信じ、愛したイエスさまを失った弟子たちには悲しみや心細さも あったでしょう。彼らは途方に暮れるように「いつまでも、イエスがあげられた天を見つめていた」といいます。しかし、彼らはすぐに厳しい現実と向き合い、イエスの約束の言葉を信じて、歩み出すのです。彼らは、どのようにその約束の時を待っていたのでしょうか。
●まず「皆が一つに集まり祈っていた」のだと記されています。最初は小さなあつまりだったのが、後に120人となったようです。そして次に彼らは聖書に基づいて、欠けた弟子の補充をする事を決めます。その時に「くじで選んだ」とありますが、これは適当に決めたというのではありません。当時の「くじ」は神の意志を問うための大切な方法の一つでした。つまり彼らは、神に祈り、聖書を読み、神に尋ねながら、今自分たちにできることを、彼らなりに考え実行していったのです。そんなささやかな「待つ時」を経て、驚くべき神の力「聖霊」が彼らに宿ったのだと聖書は告げているのです。
聖書はこのような使徒たちの姿を描くことによって、私たちもまた神の言葉を信じて集り、祈り、自分たちなりにできる事をしたら良いのだと教えているのです。たとえ私たちに力が無く勇気が持てないという現実や悲しみに暮れる状況があっても、私達を生き生きと、生かす神の霊は、今も必ず「信じて待つ」私たちに注がれる、そう告げているのです。
●アメリカの絵本に「にんじんのたね」という絵本があります。小さな種に宿った命を素朴に信じて世話を続け実りに預かった男の子の姿に「信仰者」の姿を見る思いがします。
今私たちの世はこのような力を必要としています。人に対して、子どもに対して、物事にたいして、そして神さまに対して。この「信じて待つ」姿勢を共に育みたいと思います。
何より、神様こそが私達を信じ忍耐強く育んでくださっているという事を思います。その神の眼差しを信じつつ、私達も共に集い、祈り、今できることをなしながら、神の奇跡を待ちたいと思います。
 

2014年 10月26日 「お金ではないのです!」 リチャード コルソン牧師

 

 説教題「お金ではないのです」

リチャード コルソン

2014年10月26日

※英文を日本語訳しております。(山本一)

 キース牧師とスチュアードシップ委員会から今週の特別な日曜日に説教をしてほしいと頼まれた時、私はためらいました。スペインとポルトガルでほぼ3週間を過ごした後のことなので、どれくらい時差ぼけしているか、あるいは混乱しているかわからなかったからです。

 しかしながら、彼らはそのリスクを引き受けることを厭いませんでした。それで私がここにいるのです。

 幸いここにいて、説教、クラス、人々の証を含めた、極めて包括的なスチュアードシップのシリーズに微力ながら貢献できる機会を与えられたことに感謝しています。皆さんはこの一連の学びを通して、スチュアードシップとは、ただ単に金銭的なことを示すのではないことに気づかされていることと思います。実にそれは、その人がどのように生きるかということなのです!

 ある暑い夏の日のことでした。6歳半の孫娘アシュリーと近所に住む友だち2人が売店を建ててレモネードを売ることに決めました。

彼女たちはすぐにでも売り始めたかったのですが、私の娘は、仕事から戻って来る人や近くの公園に遊ぶために来る人々で人の行き来が最大になる夕方5時くらいまで待つように提案しました。彼女の意見を受け入れ、3人の少女は、その後の2時間をレモネードを準備して、看板をつくり、販売にふさわしい衣装を見つけることに費やしました。

とうとう5時のちょっと前にお店をスタートしました。レモネード 一杯5ドル いやそれ以下でも」と看板には書いてありました。

彼女たちは、可能性のあるお客さんには「1セントでもいいし、ただでもいいわ」と言ったことでしょう。

そのようなうさんくさいマーケティング戦略で、結局のところこれに携わった人たちは、少女たちが57ドルを儲けたのを知って驚きました。

娘が彼女たちに商売の大成功ついてお祝いのことばをかけた時、幼いアシュリーは忘れられない言葉で応えました。

「でもね、ママ(大切なのは)お金じやないのよ。それは、私たちのお客さんたちよ!   ( “Mommy, it’s not about the money.  It’s about our customers!”)

「お客さんを大切にするのよ」と、アシュリーは言います。サービスを受ける人、近所に住む人、同じ教会に通う人々、子どもたちや青年、ホームレスや名前も知らない人々、失われたものと、見出だされたものを大切にしてください。そうすればあなたは成功するでしょう。必要が満たされる時、心に触れられるとき、人生が変わる時に人々は応えるでしょう。そして、その事が起こる時に、お金は心から、そして財布からついて来るのです。

「ママ、お金じやないのよ。お客さんたちよ!」

例をあげましょう。 ギルバートと彼の兄弟たちは、テキサス、アリゾナ、カリフォルニアの畑や果樹園で出稼ぎ労働をしていましたが、その仕事を解雇されてしまいました。

貧しさがいつもついてまわっていました。タンブルウィード(塊となった枯れ草)をクリスマスツリーにするしかないほどでした。

 しかし、ある程度教育を受けることが出来たのと、兵役の期間もあって、結局、チャベス家の全員がベーカーズフィールドに定住しました。そこで彼らは私が6年間働いた教会の活発なメンバーになりました。彼らは牧師館の近くに住んだので、私もしばしば彼らの家に立ち寄りました。

ある午後のこと、私は兄弟の中で一番年下であるギルバートが妻アルビサとキッチンに座っているのを見つけたのを覚えています。彼はちょうど仕事から帰ったところで、私たちは一緒にテーブルにつき、コーン・トルティーヤ、米と豆をいただきながら、しばらくの間過ごしまし

 そして最後に、私たちがちょうど与えるということに重点を置いている時期だったということもあり、彼らの惜しみない教会への支援について感謝の言葉を述べた後、若くていい言い回しを知らなかった私は単刀直入に尋ねました。彼らがどのように一人の稼ぎ手で5人の子どもを育てながら郵政事業の決して多くない収入で住宅ローンも含めて上手くやりくりしているのか。

ギルバートは少しの間、静かに座っていましたが、やがてこう言いました。「私は自分たちがどのようにやりくり(hermano)しているのか、正直説明することができません。確かに時々難しいこともあります。そして月末にはArroz、インゲン豆、トルティーヤしか残っていません。神さまが信仰的な一家の主であるので私たちはいつでもやっていけると信じています。ときには大変で、月の終わりにかろうじて残った食料が米と豆、トルティーヤだけどいうこともあります。けれどもなんとかやっていけます。今でもそうであったし、これからもやっていけると信じています。神様は約束を守られる私たちの養い手だからです。

 そして私たちは、主が約束なさったことを成し遂げらえるのだということを確信し始めて以来ずっと、月の最初の日に家族でこのテーブルに座り、感謝の祈りをし、教会へのチェックを書くことに決めたのです。聖書が伝える通りに何よりも先にそれをするのです。そして、そうしている限り、私たちは祝福されています。

私たちは主を愛しています。私たちは教会を愛しています。私たちはあなたとボビーを愛しています。だから私たちはそれを優先し、そこに価値を置いているのです。」

ボビーと私が、長年にわたって、結婚前のまたはリレーションシップ・カウンセリングをしていた時に私たちはいつも価値感について話をしました。そして人々が何に価値を置いているのかわからず苦労している時に、きまってこう言って促しました。「そうですか。それなら、あなたの小切手帳とカレンダーを見せてください。そうしたら私はあなたにあなたが価値を置いているものをおしらせしましょう」

私は、ギルバートとアルビサが何に価値を置いたか、そして、それはなぜなのかがわかっています。

私はまた彼らが時間と宝を使って何をしたのかも知っています。あなたはどうですか?

「あなたの小切手帳とカレンダーを見せてください。そうしたら私があなたが価値を置いているものをおしらせしましょう」

これが私が今朝皆さんに考えてもらいたい事の一つ目です。

 

二つ目はこれです。

あなたが小切手帳とカレンダーを調べるとき、その人のもっている価値感だけでなく、その人の持つ信仰についても多くを教えられるといことを発見するのです。なぜなら、私たちが自分の時間や能力そして富についてどう捉え、どのように管理するかということは、私たちが賛美や祈り、説教の中で宣言している神さま、いつもこの世界と私たちの人生において驚きと共感と寛大さを示して働かれる神さまへの信仰や理解、その神様と自分との関係を表すことなのです。 このことを、それを理解しがたい時でも私は信じています。あなたはどうですか?

数年前、私の友人が、「欠乏の世界にあって寛大さを実行すること」という題で説教をしました。それは良い説教でした、あらゆる点で素晴らしいものでした。そのタイトル以外はです。その時に私はタイトルに文句をつけました、そして今もです。理由は、私は欠乏の世界に住んでいると思っていないからです。 私たちは確実に満ち足りた世界に住んでいると思っています。そして不足していると決めつける事が危険であり、コミュニティ、そして、人間の精神を破壊することになると私は思っています。

なぜなら、私たちが不足の世界に住んでいるという決めつけは、私たちを不安で満たし、個人主義的、競争的に振る舞うように促し、また分かち合うことに反して貯め込み、そしてまた逆に原油、水、パンなど、供給されるすべてのものはなんでも、分かち合う前になくなってしまうかのように、節約することに反して浪費することに人を駆り立てるからです。

そして、それは危険です。また、悪い神学でもあります

今私は、ここにいる皆さんと同じく気づいていると思っています。宇宙のその言い表せない豊かさー食物、水、富、土地は公平な仕方で共有されていません。紛争多発地帯で、疫病蔓延地域、飢饉に荒らされた土地、貪欲な世界において。しかし、それはいったい誰の責任なのでしょう?

大きな分裂が私たちの間にあります。先進国と第3世界の間に、守衛とコンピュータープログラマー、中間管理職とCEOに線がひかれ、市場でも女性と男性に線をひきます。

これは神さまの責任でしょうか、それとも私たちの責任でしょうか

 私は聖書を読んで、神は終始一貫して憐れみと寛大さで私たちを助け導いてくださる方であることを見出します。

皆さんが大好きな詩篇23篇について考えてください。そこでは詩人は神さまは私たちに必要とするものを与えたいと望んでおられるのだと私たちに保証しています。傷のための油、渇きのための水、飢えのためのパン、良いもの、慈悲、交わりと豊かな命。

   主は我が牧者なり、我乏しきことあらじ

それでもしばしば、天と地球をこんなに見事に創り、こんなに深く私たちを愛してくださる神さまも、しばしば我々に与えることができません。なぜなら私たちの手と心が他のもので一杯だからです:沢山の物を持っていますが、それだけでなく、恐れと失敗、疑いと悲しみ、古い心の傷、古ぼけた秘密、悪意、妬みと貪欲も。

その結果、天の恵みのためのほとんど場所が、ありません。どうしたら良いのでしょう?

あなたが何に価値を置くか明確にしてください。どのくらいが充分なのかを自分で知ってください。そして、あなたがコミュニティ、教会と神の国のような永遠のものに投資することができるように、いくらかの物を手放してください。

豊かな世界で、寛大さを実行してください!この世は不足してはいないのです。

豊かな世界なのです!

私は先ほど読まれた今朝の聖書箇所が大好きです。その中で、私たちは初代教会がどのようにして、聖書の影響のもとで、カメロット・モーメント(その輝かしい最高潮の時)の間、全員が持つもの全てをそのコミュニティに捧げるという徹底的な施しのような事を実践していたのかを聞きました。世界を完全にひっくり返すことを目指して努力する、注目すべき最初のステップが、任意の割合ではなく、全てを捧げることなのです。

 現代はどんな動機であれ地方自治主義は長続きしません。しかしいまだそのメッセージの妥当性はばかにできません。人々は恵まれて自由に、そして、喜んで分かち合う時に-物事は変わり、人生が変わり、そして世界が変わります。これがみなさんに覚えていただきたい3つ目の事柄です。

私たちのような人間が寛大に振る舞う時に物事は変わり、人は変わります、そして、世界は変わります。

憐れみと寛大さが記録され本となり続けて同じタイトル「The Blind Side」(しあわせの隠れ場所)で映画化されたテューイファミリーのことを覚えています。

物語を知らない方のために紹介しましょう。

 リー・アン・テューイ(オスカーを獲得したサンドラ・ブロックが演じた)は、マイケル(ビッグマイケルと呼ばれる)大きな、簡素な服装の、成績の悪い、孤独な男の子に学校から家までの送迎申し出ます、しかしマイケルは本当の家を持っていないのです。

実際、彼は、麻薬におぼれている母の13人の子どもたちのうちの1人でした。彼は、本当の名前、父親、誕生日、そして読み書きを知りませんでした。

ですので、送迎だけの申し出はいつしかテューイ家のソファーで夜を過ごすようにとの誘いに変わりました。そして徐々にテューイ家の家族は彼をかくまい、食事を与え、服を与え、家族の一員として援助をし、助けるようになったのです。

6年後、マイケルは、ミシシッピ大学において群を抜く大きさと速さと機敏さをそなえた全米で活躍するレフトタックルとなり、ボルチモア・レイブンスによってドラフト1位で1300万ドルの契約で引き抜かれました、そして彼はスターティングオフェンシブラインとしてマイケルを用いたのです。

マイケル・オーラ-はかなり控え目で、彼の驚くべき成功と幸運にもかかわらず気取らなくて、、彼のコミュニティの中で、自分のように困った子供を助けることでお返しをしている幸せな青年です。

福音的なクリスチャン家族のテューイ家は、「ためらわず:喜んで与える力をシェアすること」というタイトルの本を書きました

彼らは何か新しい事を言ったわけではありません、けれども彼はそうしたがために、そのメッセージは本当らしく聞こえるのです。

気前がよく与えることは、彼らにとって生きる道でした。そして、それはあなたとわたしにとってもそうなり得るのです。

彼らが本の中で書いた最初の一歩は自分の心を見て、「私は、助けたいです。」と言うことでした。あなたのすることが、あなたの心を打つ何かとなるということが鍵なのです。

もしあなたが地元の学校に行って成績の悪い子供と週に一度共に本を読もうと思うのならば、それをしに行ってください。あなたが本をファミリーシェルターまたは聖心に寄付したいならば、そうしてください。

それは、大きい何かである必要はないのです。しばしば笑顔は奇跡をもたらすことができるのです。子どもたちの教師への感謝を記すこと、地元の消防署にパイを届けること、列に並んでいる次の人の為に支払うこと、高齢者の芝生を刈るためにティーンの手配をすること,道に迷った人に道案内をすること、

孤独に見える誰かと話をすること、仕事仲間にスナックを残すこと、公共トイレをあなたが使った後に掃除すること、ショッピングの変わりに余分のセーターまたはジャケットまたは靴の一組を渡す「非ショッピング」。

必要なのはあなたがあたりを見まわして、想像力を使うということだけです。あなたは、小さなことがもう一方でどんなことを意味することになるかということは誰も分からないのです。 あなたがたいした事ないと思っているその行為は、あなたの人生、また他の人の人生を何か別の物に変えることができるのです!

クリスティーナ・チェスターマンは彼女が十分な年齢に達したとき、献血を始め、18歳で臓器提供者となる登録をしました。理由は、彼女が母親に「そうすることがいいことだからよ(して当然のことをしているのよ)」と説明したとおりです。

彼女はまだ高校生だった時、注目に値するバケツ・リスト(死ぬまでにすることのリスト)を書きあげました。

飛行機を飛ばすことは、そのリストの中の一つでした。ラクダに乗ることや、ポピーの野原を駆け抜けること、彼女に好意を持っている2人の男の子の間でのけんかを止めさせるというのもありました。また、彼女は人の命を救うことも望んでいました。

しかし、彼女の看護婦になりたいという切なる願いは、いまから年前の9月に打ち砕かれました。彼女は、自分が通っていたチコ州立大学の近くで飲酒運転のドライバーによって殺されてしまったのです。

21歳のクリスティーナは彼女のリストをほとんどを達成できませんでしたが、彼女の早すぎる死で成し遂げられたことが一つだけありました。彼女は、一人の命だけではなく、彼女が想像さえし得ないほどの人の命を生かすことができたのです。臓器提供を希望した彼女の決意の結果として、そしてそれが正しい行為であったので、5人の北カリフォルニアの住民はより長く幸せに生きられるようになったのです。

クリスティーナ・チェスターマンの肝臓の一部を受けなかったならば、フリーモントに住むジェイデンカービーは生後一年以内に死を迎えていたかもしれません。

 彼女はもう一人のフリーモントの住人「ザック」パパチャンも救いました。彼は、彼女のおかげで腎不全を克服しています。

他の 3人も彼女の他の臓器提供を受けました42歳の北カリフォルニアの男性は、彼女の腎臓と膵臓を受けました。残りの彼女の肝臓はサンフランシスコの男性に与えられました。そして、彼女の心臓はサンタクララ.カウンティの保健婦をリタイアし、今はキャンベルに在住するスーザン ヴィーラの身体で打ち続けています。

クリスティーナの両親は娘の臓器と共に生きる「移植患者」の家族と共に、臓器提供の雄弁なスポークスマンとなりました。

 それだけなく、チコ州立大学のクリスティーナ・チェスターマン・記念ナーシング・奨学金は、すでに30年の資金提供の備えが出来ています。

そして、いつか「国境なき医師団」という評判の高い組織団体に加わり働きたいと願っていたクリスティーナの願望に触発されて、彼女の友人や家族、そして他の臓器提供者たちが、クリスティーナの名にちなんだ病院建設の資金集めをしています。すでに9月には建築が始まり、来年の夏までにはナイジェリアにその病院が建てられ運営される予定です。

全ては、一人の、惜しみない施し、思いやりがあり、想像力に富んだ若い女性が、生前も死んだ後でさえも、明らかに「正しいことをする」ことに献身的であったことによるのです。

さて、このような惜しみなく差し出すという行為は、常に報いと満足を伴うものでしょうか?もちろん、そんなことはありません。でも、時に驚くべきことが起こるのです。私たちは、自分がする気前のいい施しや、親切な言葉、あわれみに満ちた行いが最終的に何を達成するのかを前もって知ることはできません。しかし、もし、その結果が初めからわかっていたら、本当に人に対して惜しみなくいられないのではないでしょうか?契約を交わすか、取引をし始めるだけでしょう。

ステュワードシップは、取引ではありません。どのように生きるかということです!

 この時期、教会は、私たちに、その伝道と宣教奉仕に投資するように呼びかけています。私たちが与える必要があるほど、教会が資金を必要としているわけではないのです!与えることは、私たちが味わう、あふれるばかりの祝福にたいして感謝の意を示す方法だからです。また、与えることは、私たちが信用している何か、例えば私たちの教会に集う信仰の家族などを、私たちが支え、強めて、活気づけるための方法だからです。

また、与えることは、私たちが自分たちの価値観や神学を表現する方法でもあります。与えることは、私たちが人々の人生や世界を変えていったり、形作るための助けとなる手段なのです。

そして最後に、与えることは、本当の喜びと幸せ、そして心の平安への道なのです!幸せな人生、満ち足りて本当に自由な生き方というのは、私の経験から言うと、惜しみなく捧げる生活、人のために生き、人と分かち合う人生なのです!

ですから、皆さんが、心のうちに惜しみなく与える思いを見いだすことを願っています。

見返りを求めるのではなく、それが正しいことがからするのです。

「ママ、お金のためじゃないのよ…」      アーメン