ルカによる福音書

2019年 4月21日「キリストは生きておられる」 イースター礼拝

 4月21日 イースター礼拝説教要旨
「キリストは生きておられる」山本一牧師
ルカによる福音書24章1-12節


●興味深い事に今や日本でも、多くの人がイースターをお祝いをしています。いくつかのスーパーなどの広告を見ると共通しているキャッチコピーは「春の訪れを祝う」という言葉です。しかし、キリストの復活ということにはそれにも増して大きな喜びがあるのです。


●キリストの復活を喜ぶという事、それは「あのイエスさまが今も私たち一人一人と共に生きておられる」という実感を持つということです。仏教では「同行二人」という言葉があり、四国のお遍路(巡礼の旅)に弘法大師が一緒にいてくださる、また大師の思いと一つになって心を豊かにされて旅をしていくという信仰を表す言葉です。まさにキリストはそのような形で生きておられると感じるのです。


●キリストの復活という事自体はとても信じがたい事柄です。しかし、それは聖書の時代の人々も同じでした。復活の朝、遺体に香料を塗りに出かけた婦人達が墓が空なのを見つけ、そこで二人御使いによって主イエスが復活されたことを告げられます。しかし婦人達は信じられず、ただイエス様の言葉を「思い出した」とだけ記されています。またその婦人達がこの出来事を弟子たちに伝えた時「皆その話がたわ言のように思い、婦人達を信じなかった」、とはっきりと伝えています。
それは今を生きる私たちの状況と同じです。聖書にあるイエスの復活も他の希望の言葉も私たちは簡単には信じることができません。しかしそれでいいのだと告げているのです。
天の御使いであろうと思われる二人は告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。この言葉は、今生きている日常の只中に、復活のイエス様がおられる、という宣言です。
その言葉の通りに人々は、疑いつつも希望の言葉を胸に秘め歩む中で、何か特別な場所ではない普段の生活の中、不安や苦しみ、悩みを抱えるその只中で復活のイエスと出会い、主が共に生きておられるという事に目が開かれていくのです。そして、この言葉は今の私達にも告げられた神の言葉でもあるのです。 

●私は昨日まで突然の体調不良のため休暇を頂いていました。原因不明の心身の苦しみに加え、私にとって最も大きな苦しみは、スピリチュアルペイン(霊的な苦しみ)で、神様・イエス様が共にいて、愛しておられると思えないという事でした。なぜこんな状況にと一人で空を見上げては考えていました。今イエス様が目の前に現れてどうして声をかけてくださらないのかと問い続けていました。
そうしてしばらくして、日本では母が原因不明の圧迫骨折をし長期入院になるという知らせを受けました。そこで日本に帰る事にしました。私も両親も希望が見えないような状況でしたが、日曜日に母の病室で共に小さな礼拝を持つことにしました。日本は丁度桜が満開の時でしたが、私達家族は冬の真っ只中という状況でした。母も共に雪深い新潟で生活しましたが、その厳しい新潟の冬を思い起こしつつ、また私達にも春が来ることを祈りました。痛みで集中力もない母でしたが、涙を流して言いました「神様は生きておられるなぁ、アメリカから息子が帰って来てこんな場所で礼拝できるなんて」。その言葉を聞き、私もこの苦しみ弱っている私達とイエス様がいてくださるという事を感じる事ができたのです。未だ、母も私も完全とは言えません。けれどもその小さな礼拝で感じる事のできた「イエス様は共にいてくださる」という思いは、何にも代えがたい私たちの力となりました。


●「足跡」という誌があります。これは今の私に与えられた詩だと感じます。それは苦しみの時にイエスさまが私を見捨てたのではなく、背負って歩いてくださっている、ということを思い起こさせてくれる詩でした。
 イースター、キリストの復活の出来事、その喜びは、復活されたイエス様が、私達の理解を超えた姿でいつも共にいてくださるという事です。しかし、苦難の中にあって私達はなかなかそれを信じることができません。しかし、それでも誰かと共に祈る時に、私達は決して私達を見捨てないキリストに出会うのです。このイースターの朝、また共にここアメリカでその歩みを続けることのできる恵みと喜びに本当に感謝いたします。

「足跡」

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

2019年 3月17日「澄んだ目に映るものは」 主日礼拝

  3月17日 主日礼拝説教要旨
「澄んだ目に映るものは」 山本一牧師
ルカによる福音書11章33-36節


●あの第二次世界大戦の時、過酷な地上戦の舞台となった沖縄にある佐喜眞美術館には悲惨な集団自決をテーマとして描かれた「沖縄戦の図」(丸木位里・俊作)があります。

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その絵で最も印象的なのは描かれた人の「目」です。皆、瞳が描かれていないのです。戦時中、死の極限まで追いつめられた人間は、極度の恐怖や悲しみから自らの精神を保つために感情をマヒさせていきました。その現実を直視する事から逃げざるを得ない人間に「空白の瞳」を見たからです。また一方で丸木さんはこの絵の中央に3人の子どもを描き、彼らにだけ瞳を書入れました。それは、何物にもとらわれず、真実を見通す子ども達の瞳に未来への希望を託したという事なのです。
時に私たちもこの世で困難に遭遇します。その中で、私たちの心もまた、悲しみや恐怖、不安を感じ、そこから逃れたいと願い、呆然とし「空白の瞳」を得てしまいます。そのような中、それでもなお真実を直視し、希望をもって生きれるとするならば、私はあの過酷な受難の人生を歩まれたイエス・キリストにすがるしか他ないと感じるのです。


●今日の箇所でキリストは告げました。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い」。これはどういう意味なのでしょう。
今日の聖書箇所のすぐ後で、イエス様は当時の宗教家たちが「表面を取り繕い、清く美しく見せているが、その内面は強欲と悪意で満ちていた」事を指摘されています。イエス様は、自分自身の内にある悪を直視できていない当時の宗教家たちの姿を見て、自分の全てを神さまの光に照らしてみなさい、そうすれば、本当の輝きを、神さまの愛と赦しと救いを得ることができるんだと教えられたのです。
つまり、「澄んだ目」とは、私たちが自分自身やこの世の現実の良い部分も悪い部分もそのまま受け止めて見る目という事なのです。その「澄んだ目」を持つ時に、神様の前に自 分の全てが明るみに出される。そこで自己嫌悪にもなり涙も流す、けれどもその涙ながらに自分の全てを見つめる「目」からは同時に全ての罪を赦すキリストの光が温かく差し込んでくるのだ、という事を告げているのです。
「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、灯火がその輝きで貴方を照らすときのように、全身は輝いている」この言葉は、自分の全てをキリストの光に照らされた者こそが、この世で、温かなそして優しいキリストの愛と赦しの輝きを持つようになるんだ。ということを告げているのです。


●イエス様はまたこの世の闇にも目を背けずそれを直視されました。そしてそこに飛び込み生きられ、ご自身も迫害と受難の歩みを歩まれました。けれども中にあっても、イエス様は決して「空白の瞳」になる事なく、父なる神に希望を持って人を愛して、生き抜かれました。それは「誠実に今できることをなしていくならば、神さまが必ず応えてくださる」という信仰によってでした。そして、そのイエス様の姿に、当時絶望し「空白の瞳」を持って死んだように生きていた人々が立ち上がり、厳しい現実を直視しながらもそれを受け止め、希望を持ってイエス様と共に歩み始めたのです。厳しい現実と共に神の希望を見る「澄んだ目」を人々はイエス様から受けていったのです。


●東日本大震災の被害にあった三陸に「眼は臆病だが、手は鬼になる」という格言があります。これは、人の目はすぐに恐怖に脅えるけれども、どんな困難に遭遇しても、できることをしていけば、不可能が可能になる、という意味です。この格言の通り、あの東北の方々は悲惨な現実にあって、それと向き合い、復興に励んでこられました。その姿に私達も励ましを受けた事を思い起こします。
 今、ここにいる私たちにも現実を直視する「目」が与えられますように。そして、あのイエス様がいつも私達と共におられ、愛し赦してくださっているという希望に目が開かれていきますように。そして、困難の多いこの世にあって、今できることを、それぞれに少しずつなしていきたい。そう願います。

2019年 3月10日「神を信じ忍耐して」 主日礼拝

「神を信じ忍耐して」 山本一牧師

ルカによる福音書4章1-13節

●「人生、思い通りにならない」と感じる事の多い私にある牧師が次の言葉をくださいました。
「思い通りに行かぬことばかり。思い通りになら なくてよかった。思い通りになっていたら大変 だった。 神様の御心が一番」
そして「行き詰まりと、失敗ばかりの人生だが、そのつど、神様の方に目を向けられてきた」とその牧師は話してくださいました。思い通りに行かないその事を通してこそ本当の意味で神を知るのだと教えてくださったのです。
●本日受難節第一節に与えられた聖書は、イエス様を悪魔が誘惑したという箇所です。
「悪魔」がイエス様を3度誘惑しますが、その内容は「神の子なら石をパンに変えてみてはどうか」。そして次に「もし私に跪くなら、この国の一切の権力と繁栄を与えよう」。そして、最後に、「神殿の屋根から飛び下りて見よ。神が助けてくれるはずだから」。というものでした。 
もしもそのような力が与えられたら、恐らく人生全て思い通りに事が運び、ストレスも無く、苦しまなくてすむというような内容です。しかし、聖書はそれらすべての事が「悪魔」の誘いなんだと告げているのです。そして、イエス様はそれを退けられたのです。
この話は、何でもすぐに思い通りになる人はこの世にはいないという事、そして、そこに必ずしも、神のみ心や神の恵みがあるわけでは無いという事を教えているのです。そして何よりも大切なメッセージは、そのように、不自由さや限界、不安や困難を避けられない私たち人間と共に忍耐強く生きる決意をイエス様がされたのだということです。実際に、イエス様は身をもってその十字架の死にいたるまで思い通りにならない人生を生きられ、同時に父なる神に希望を置き、父なる神のみ旨を信じて歩み抜く事を示されたのです。
今日の箇所の最後に「誘惑する悪魔は離れ去った」とありますが、悪魔は後に戻って来ます。それはイエス様が十字架につかれる前、ゲツセマネというところで祈っていた時です。

イエス様に十字架の死が迫ってきました。逃げ出す事もできたでしょう。しかし祈りの果に裏切り者のユダが向かってきた時、イエス様はここにも神のみ旨があるに違いないと立ち上がり、その運命へと向かっていかれたのです。このイエスさまの姿は「自分の望む道が開かれない事はある、けれども、信じて歩むなら、そこに必ず神の「御旨」がある。だから共に忍耐して歩みましょう」という励ましのメッセージを伝えているのです。そして復活という出来事によって、そのことを立証されたのです。
私たちの思い通りにならない歩み、そこにイエス様が共におられ、そこに深い恵みがある事を聖書は証しているのです。
●来週日本に本帰国される石井さんご家族との交わりを思う時にも、苦労の多い異国の地で助け合い祈り合う素晴らしい時が与えられました。深い感謝や決して忘れる事のない心温まるような思い出といった何にも代えがたい恵みは、すぐに解決されない問題や困難な課題がある只中で、助け合い祈り合う事を通して神様から備えられたのだと感じるのです。思い通りにならない時「神はいない」のではなく、思い通りにならない時、人を通して、神を、キリストを知る事ができる、それが「信仰者の交わり」教会の素晴らしさです。
●私は「教会」を思う時に、日本のある土地を思い起こします。日本の屋久島です。
日本の屋久島で数千年生きている屋久杉は、置かれた厳しい環境の故、他の木々と繋がりゆっくりと成長し、丈夫な木とされます。人もまた様々な環境的制約や人間の限界、弱さを持っています。しかし、そのような中で共に忍耐し、神に希望を持って育まれる命は、美しく、また強くされるのだと信じたいのです。ご帰国される石井さんご家族の歩みがそのような神にあって豊かに成熟される歩みとなりますように。また、これまで100年以上もこの土地で生き抜いてきた日語部は、ゆっくりかもしれませんが、これからも成長し、人に希望を示し続ける素晴らしい群れとなっていく事を信じています。共に忍耐しつつ、希望をもって歩んでまいりましょう。

2019年 3月3日「春を待つ信仰」 主日礼拝

「春を待つ信仰」 山本一牧師

ルカによる福音書 9:28-37

●この度の冬季休暇、雪深いシャスタ山に行く道すがらアーモンドの花が美しく咲き始めているのを見、寒い日が続く中にも春の到来を感じました。厳しい冬も必ず終わり春が来る、この事は私たちの大きな希望です。
●先日私たちの教団「合同メソジスト教会」の特別な会議が開かれました。世界中のUMCのリーダーたちが集まり決議した事柄はLGBTQの方々に開かれた私たちの教会にとって厳しいもので、同性愛を禁じる文言が、私たちの教団の規則に残され、実質LGBTQの方々を教会から排除するような決定となってしまったのです。今や、この教団の歩みは冬に入ったと言わざるをえません。そのような中にあって、今最も必要なのは「希望を持って歩む一人一人」です。それは寒さの厳しい冬を生き抜いていくような歩みかもしれません。しかしイエス様がまさにそのような歩みを先頭に立って歩まれた事を思い起こしたいのです。
●イエス様の人生にもそれぞれの季節がありました。田舎町ガリラヤで慕われる仲間たちと共に豊かに活動した「ガリラヤの春」と呼ばれる時代。寝る暇もないほど忙しく人を愛し、癒やして働かれた充実の夏、そして、当時の権力者から命を狙われるような不穏な空気が流れる秋を駆け抜け、さらには十字架に示される辛く厳しい冬を迎えられたのです。
聖書はイエス様がその冬(受難)の歩みを先頭を立って進んでいかれたと記しています。なぜイエス様はそのように受難の時を力強く生きることができたのでしょう。今日の聖書はそのヒントを教えています。
●ある時、イエス様は一番近い弟子達を連れて祈るために山に登られました。そしてそこで「モーセとエリヤと共にイエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後について語り合っていた」といいます。つまりイエス様は、過去の神を信じ生きた代表とも言える二人の生き様に触れ、励ましを受け「信じ生きる者を神は見捨てない」というメッセージを信仰の先達から受けておられたのだと思います。そして、直前の箇所でイエス様が「たとえ十字架の死を迎えても復活する」と予告されたように、厳しい冬の後に必ず春が来る、という信仰がイエス様の受難の歩みを支えていたのだということを私たちは知らされるのです。
●弟子の一人のペトロはその山の上に仮小屋を建てて、皆で住む事を提案をしました。しかし、イエス様は山から降りて、危険と困難が渦巻くこの世に飛び込んでいかれたと記されています。これは、仲間だけの安全な場所から全く違う価値観の人々と共に生き、痛み、苦しみを甘んじて受け、忍耐しながらも対話していく場所へ出ていく事がキリストの道であり、キリストに従う私たちの道でもあるのだと教えているのではないでしょうか。
そして、ペトロが聞いた神の声「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」は、この厳しい冬を思わせる世の中にあって、イエス様はいつも私たちの苦しみを理解し、寄り添ってくださるという約束の言葉なのです。人の無理解と虐げの中で「私もそうだったよ、でも神を信じ、愛を信じ、謙って希望を持って歩む時に、父なる神は絶対に私を見捨てない、最善の道が開かれるんだよ」と言ってくださるイエス様がいてくださる事を共に信じていきたいのです。
●先にお話した教団会議の厳しい決議を受けて、すぐに私たちの地域のビショップ達がビデオで、メッセージを発信されました。そこに困難な時にあっても、希望を持って歩むあのキリストの姿を見る思いがしました。
 季節は春を迎えますが、これからの世の中はますます生きにくい時代に入っていくかも知れません、しかし苦しみを知って下さる主がいつも私たちには与えられており、また、希望を持って歩もうとする信仰の友が与えられているその事を信じ、私たちは連体し、共に神さまが必ず備えられる「春」を待望み、冬を思わせる様々な状況にあっても、先頭に立って歩む群れとなりたいと願います。


2016年 11月6日「生きている者の神」

11月 6日 主日礼拝説教要旨
「生きている者の神」   山本一牧師
テモテへの手紙一1章12~17節
ルカによる福音書20章37節~38節

●人間が造ったのではない「豊かな自然」は人に感動を与えます。しかし、科学技術の発展は人間に快適な生活を人にもたらす一方、私たちの環境を「命あるもの」ではなく「命の無い」無機質なもので埋め尽くそうとしています。そして人は「生きた物」との関係を奪われ、本当に大切な何かを失っているように感じます。
●スペインの建築家ガウディは「自然界には直線はない。直線は人間が作り出したもの、神の創った自然なものは曲がっているのだ」と言いました。「命あるもの」は曲がっているのです。私たち人間も同じです。人は素直になれなかったり、上手に生きられなかったりする存在なのです。だからこそ忍耐や愛や感動やドラマがそこに生まれるのです。教会に色んな人が集っている事は何と素晴らしい事でしょう!
●聖書にでてくる人物も一人残らず、完璧ではなく、性格も人生も曲がりくねっています。テモテへの手紙は使徒パウロの人生について語られています。使徒パウロの自身「わたしは、迫害した者で、罪人の中で最たるものです。」と延べ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と言っています。
正しい人、真っ直ぐな人ばかりだったら、イエス様は必要ないのです。実際に、私たちは生きている以上、誰一人、完全に真っ直ぐには、なりえないのです。そんな私を憐れみ、私を救うためにイエス様が十字架にかかってくださったのです。そんなパウロの信仰、感謝がここに溢れています。 神さまはそのようにして不完全な私たちに憐れみと恵みを与えて、神さまの御用に用いようとされるのです。
●後から読みました福音書ルカによる福音書にはこのような言葉がありました。
「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神である」また「神は死んだものの神ではなく、生きている者の神だ」というイエス様のこれらの言葉に心を打たれます。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ユダヤ人にとっての偉大な先祖とされていますが、旧約聖書を読むと度々失敗して、ひどい事もしています。彼らも私たちと同じく罪も犯し、また同時に神さまに従いたいと思う気持ちもある。そんな生きた人間だったのです。しかし神さまは、そんな決して真っ直ぐではない、「生きた人間」の神であり続ける、と宣言されたのです。
私たち人間は速さや快適さを求めます。真っ直ぐさを求め、従順で無機質な者を愛します。けれども、神さまは違うのです。生きている者、不完全で曲がっているものを愛されるのです。
生きたクリスチャンとは、完全な人になる事をめざすのではなく、不完全な私たちである事を日々覚え、感謝のうちにあのイエス様の愛をもって互いに祈りあい、励ましあって歩んでいくのです。
●吉野弘さんの詩『祝婚歌』はそんな生き方をよく表しています。「完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい」「立派でありたいとか 正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わずゆったり豊かに 光を浴びているほうがいい」「生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい」不完全な、そのままの私達と共に生きる主に感謝します。

2016年 10月30日「主の信頼を受けて」

10月30日 主日礼拝説教要旨
「主の信頼を受けて」 山本一牧師
ルカによる福音書19章1~10節

●ひと月の間、日本で両親と共に沢山の時を過ごす事ができ感謝でした。未熟な私を誰よりも私を信頼し、根気強く支え導いてくれたのは両親でした。
父はお米の研究者で、小さなお米の一粒の中に込められた無限の可能性を信じ、研究に取り組んでいました。父は本当に頼りない私という存在に対しても、その内なる可能性を信じてくれていたように思います。そしてその「信頼」こそが、有り難かったと、今、心から感謝しています。
●使徒パウロは自らが生み出したコリントの教会に何度も手紙をおくります。派閥争いなど様々な問題があった教会と信徒に対してパウロは、繰り返し「あなたたちには神の霊、命が宿っている」と語りかけているのです。あなたがたは「神の神殿」「神の実りを生み出す畑」や「尊い恵みを内に入れる神の器だ」という言葉です。
初代教会を支え、成長させたのはこのパウロの「信頼」だったのです。そして福音書は、イエスさまこそが愛と信頼をもって人と出会われたのだと告げているのです。
●今日の福音書はザアカイのお話でした。
ザアカイは人々から税金を取り立て、ローマ帝国にそれを治める徴税人で、当時のユダヤの民たちからは、裏切り者で私服を肥やす罪深い人だと考えられていました。
そんなザアカイですが、彼の心はどこかで神を求めていました。イエス様が近くを通られると聴き、背が低いザアカイはいちじく桑の木の上にまでのぼってイエスを見ようとしたとあります。そんな彼にイエスさまは目をとめられました。そして、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられたのです。
 イエス様は表面的な部分をみてザアカイを責めず、その彼の心の奥底に微かに、けれども確かにある神への信仰を見て、私はこういう人の内に宿り「内なる信仰」を燃え上がらせるために来たのだと言わんばかりに、声をかけられたのです。
9節の「この人もアブラハムの子だ」と言う言葉はこのザアカイも偉大な先祖と同じく神への信仰をもった一人だ、という信頼と愛に満ちた言葉です。実にそのようなイエス様の信頼がザアカイの人生を変えさせました。彼は「財産の半分を貧しい人に施す」と言いました。ザアカイは信頼された喜びと共に変えられたのです。
●表面的な部分を見て、すぐに罪人だと判断がくだされるようなユダヤ社会の中にあって彼を信頼する者はなかったのでしょう。今の時代も同じです。少し変わった行動や、言葉でその人の全てが図られ、否定さがちです。私たちは人や物事の悪い一面だけを見て過剰に不平を言い、あきらめてしまいます。しかし今もイエス様だけは全ての人を信じる事によって「溢れる喜びと共に」人を変えていっておられるのです。
●私自身この度、日本でお世話になった教会を再び訪ねてみて、本当に未熟な私が教会の牧師や人を通して、この主の信頼と愛を受けて、喜びと共に変えられてきたのだという事に気づきました。「教会は人を育むことのできる最高の土壌」です。信じがたきを信じる神の愛があり、人を豊か成長させて頂く事ができる場所です。
ぜひ教会に繋がり続けて下さい。どれだけ自分が小さく思えようともイエス様は「そんなあなたの心に宿りたい」と私たちの小さな信仰を力づけ、励まし、そして本当に幸せに生きる道へと導いてくださるのです。そして、私たちも互いに心の奥そこにある信仰の輝き、可能性信じあい、歩んで参りましょう。

2016年 9月25日「門前のラザロ」

9月25日 主日礼拝説教要旨
「門前のラザロ」 山本一牧師
ルカによる福音書16章19~31節

●人には決して自由に動かせないものがあります。それが人間の心です。自分の心であれ他人の心であれ、それは神さまの領域だと感じます。
●今日の聖書は「金持ちとラザロ」のお話です。生前貧しく、苦しんでいたラザロと贅沢をして暮らしていた金持ちの立場が死後、逆転してしまうというお話です。このイエス様のたとえ話のポイントはどこにあるのでしょう。
今日の直前の箇所を見ると、ファリサイ派の人々に対してイエスさまは「あなた達は人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である」と言われました。つまりイエス様は表面的な行いよりも「心」が大切だという事を教えるためにこの譬え話を話されたのです。当時のファリサイ派の人々は神の戒めを守る事には必死でしたが、その心に愛や同情が無くなっていたのです。それはこの譬話の金持ちのユダヤ人に重ね合わされます。
このお話の中で面白いのは、犬が登場するところです。時に人間よりもよっぽど動物たちのほうが私たちを慰めてくれると感じます。「犬が彼に寄って来てそのできものをなめた」とあります。この言葉には、犬でさえ彼を慰めたのだと皮肉を込めて言っているのです。
●ここにでてくる、金持ちとアブラハムのやり取りは全て「心」の事を問題にしています。なかなか聖書を読んでも変わらないような、自分中心な、律法主義的な心は人には変えられないのだと言っているのです。
金持ちは「こっちにラザロをよこせ」とか「わたしの兄弟のためにラザロを送れ」と言いますが。この言葉にもラザロに対する労わりや、彼を無視してきたことへの後悔の念が感じられません。彼が考えているの は自分とせいぜい身内のことばかりに見えます。しかし、私たちもまたこの人を無視にする事ができません。
●ではそんな自己中心的で貧しい人に同情できない人は死んだら地獄いきだといっているのかというと、そうではありません。
これは陰府の話だと記されていますが、ここにはイエス様は登場していません、先に死んだアブラハムだけです。そこで金持ちは苦しんでいるのですが、まだそこで悔い改める機会が残されているのです。この後で、その誰にも渡ることのできない陰府の大きな淵をイエス様が十字架にかかり死んで超えられて、その陰府にいる全ての人をも救われることを示されたのです。この金持ちも心動かされて悔い改め、イエスキリストによって救いと平安に入れられていくと言う可能性が残されているのです。
●イエス様は今日の例え話を通して、私達には「裁きの時」が与えられるのだと語られたのです。「裁きの時」というのは、いわば、「全てに気づくとき」です。「自分はこんなに愛されていたんだ」「赦されてきたんだ」など、振り返ってみて本当に何と自分は自己中心的だったんだと気づかせられる時がくる。それが聖書が教える「裁きの時」です。それは言い換えると「悔い改めの時です」それは今与えられるかもしれないし、明日かもしれない。死んでイエス様と出会い、初めて気づかせられるのかもしれないのです。そして低められて、大きな神恵みに気づかせられていくのです。
●私たちには自分で心を変えることはできませんが、必ずやそのような「気付きの時」が神によってもたらされるのだと聖書は告げているのです。これまではなんとも思わなかった「門前のラザロ」を思い、涙を流して、自らを神様の前にへりくだらせていく時が来る。そして、実はそこに神の本当の平安と救いがあるのだと聖書は、イエスさまは告げておられるのです。

2016年 8月28日「お返しできないほどの恵み」

8月28日 主日礼拝説教要旨
「お返し出来ないほどの恵み」山本一牧師
ルカによる福音書14章7~14節

●熊本の被災地を支援するジャズカツがJAMsjで開催されました。中心スタッフのお一人は一週間前にお姉さまを交通事故で亡くされました。しかし、終始明るくこの支援活動をリードしてくださいました。皆もハグをし、声をかけ祈りました。あらためてコミュニティの中で人はケアをされ、愛と慰めを受けていくんだという事を感じました。
人生には「まさか」と思う出来事があります。震災も不慮の事故もです。そんな時に私達は言葉を失います。しかしそのような絶望の淵にあってこそ人は尊い愛や配慮を神様から与えられ、互いにそれを示していくのだと思います。
●イエス・キリストが告げ広められた「神の国」とは、痛みも悲しみも無い国ではないのです。当時、イエス様の周りには痛みや迫害、孤独や差別が渦巻いていました。イエス様はその土地を巡り、悲しむ者と共に涙し、祈り、それでも天には神が生きておられると希望もって励ましあい歩んでいくそんな交わりを造り、示されたのです。
●本日の聖書はイエス様がある宗教指導者の家に食事に招かれた時のお話でした。
食事の招待を受けた客たちが上席を選んで座ろうとしていたのをイエス様が御覧になり、「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。・・・むしろ末席に座りなさい」と言われました。これは古くは箴言25章にもでてくる教えです。また、12節以降は招く側の人たちに対して「食事会をするときには、貧しい人、お返しができない人を招きなさい」といわれました。これまた当時、イエス様でなくても一般的な倫理行動として勧められていた事柄だと言える でしょう。しかし、ここはそんな倫理的教えが中心ではないのです。
●イエス様は「婚宴の譬え話」をされました。「婚宴」は、通常「神の国」を表すキーワードです。つまり神の国とは何なのかが語られているのです。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる」という言葉にあるように、小さくされ、悲しみ、痛んでいる者たちが顧みられるのが神の国なのだと告げられているのです。
後半部分のお勧めでは「食事会には友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちもよんではならない」とあります。これもまた、普通の食事の会のルールを言ってるのではなく、神さまのみ心を教えているのです。つまり、神さまと言うお方は、この世で家族を失い、コミュニティから阻害されて、人間関係が断たれた孤独な人たちがいないかと気にかけ、どこまでも捜し求められるという事を告げているのです。
そして、その神様の思いがイエス様と言うお方の生涯に表されていたのです。お返しのできない私たち、罪も弱さも欠けもある私たちを真っ先に探し、招いてくだり、この私たちのためにイエス様が十字架にかかり、命を献げて下さたのです。
●この箇所にあるお返しのできない人とは誰のことでしょう。これは時に私たちの姿ではないかと思います。大切なものを失い、病にあい、災害にあい。急な不幸に見舞われ、ただ立ち尽くす時があります。そのような時に私たちは時に、お返しも出来ないほどの温かな恵みを、周りの人々から、私達のコミュニティから受ける事があります。それはきっとその時に、絶望の淵にある者に手を差し伸べられるイエスさまが私たちのコミュニティにいてくださるからでしょう。そのようなコミュニティ(神の国)こそが私たちの希望なのです。

2016年 7月17日「イエスの方を向いて」 馬越直子姉信徒奨励

7月17日 主日礼拝信徒奨励要旨
「イエスの方を向いて」 馬越直子さん
ルカによる福音書10章38~42節


●牧師の子どもは「PK(Pastor’s Kids)」と呼ばれますが、私もその一人です。私は看護専門学校を卒業し東京の国立小児病院で働きました。子どもの頃は「教会の子」と一個人「府上直子」との葛藤の中で常に振り回されてきたように思います。
父は京都御所の真横の教会で、新会堂建設、地域へのアウトリーチ、社会の問題への取り組みなど、神の声に聴き従い地域に開かれた教会を祈り求め、働き続けました。
母もよく働いていました。早天祈祷会後に朝食を作り、神学生やスタッフへの週に一度の夕食会、ホームレス支援、新年の牧師館オープンハウスでは百人分のごちそうを一人で作り、葬儀や結婚式のお世話、新会堂の管理など・・・。 ある日、一晩だけ母が行方不明になりました。後に分かったのですが、教会の塔の上から飛び降りようかと真剣に考えていたそうです。母の心身の疲労は極限まで達しており、ついに入院となりました。入院に際して付き添わない父への憤りと母のやせ細った体、枯れ果てた心の疲れに愕然とした覚えがあります。
両親の生き方は良くも悪くも私にとってお手本であり反面教師でもあります。私は教会で育ち、人の為に生き、神の為に仕える、という生き方を徹底的に叩き込まれてきました。そういう生き方しか知らないというか、他の生き方が全く分からず、できないのです。
●今日の福音書の箇所マルタとマリアの話が私はずっと好きではありませんでした。
自分の行いが否定されているように感じるからです。放蕩息子の例えもそうですが、兄や姉は一所懸命、実直に、我慢強く神様と親との約束を守り、仕えています。妹や弟は、好きな事を好きな時に存分にし、しかも放蕩息子の場合は父親に、マリアの場合はイエスによってあるがままを認めてもらっています。対するマルタは40節「マルタは、色々のもてなしのためにせわしく立ち働いていた」 とあり、さらに「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」とマルタ自身がイエスに訴えています。これはマルタが自分自身に焦点を当てた主観的な訴えです。なぜなら人は誰もが忙しい時にこそマルタのように「なぜ、私ばかりが」と、どす黒い感情が胸に渦巻くからです。周りの人も一杯一杯で誰にも頼れない、それでも「もてなすこと」をやめません。そうする事でしか、自分の信仰が表せないと思っているからです。
それに対するイエスの答えは客観的なマルタの姿を示しています。「あなたは多くの事に悩み、心を乱している。」はっとさせられる言葉です。そして「必要なことはただ一つ。それを取り上げてはならない」とイエスさまは仰いました。
●Mrs.堀越の以前、Mrs.堀越が証の中で祈りの姿勢について「心の目を開き、神様の方を向いて祈る」大切さを話されました。何か対象があり、そちらを向くという事は自分ではない、全く別のベクトルの方向性を持つという事です。では、心の目を開き、神様の方を向いて祈る事、イエスに聞き入る事とはどういう事なのでしょう?
●身体が動かなくなる先天性の神経難病にかかったワシントン州のジュリアナ・スノーちゃんの両親は彼女が4歳の時に医師から「今度呼吸困難が起きた時にどうするか、考えておいて下さい」と言われたそうです。そこで両親はジュリアナちゃんに、聞きました。
「あなたの病気が今度悪化したら、また病院へ行きたい?」という問いに、「心配しないで。私のことは神様が引き受けて下さるから。」と家に居る事を望んだそうです。そして一年半後、自宅のプリンセス・ルームでお母さんに抱かれてこの6月息を引き取られました。
ジュリアナちゃんの心は真っすぐ神様の方を向いています。自分の体すら思うように何一つ動かせないたった5歳の女の子が「私は何のために生まれてきたの!?」とは問わずに「神様は私の心の中にいる」と言い切るのです。この真っすぐな信仰こそを「取り上げてはならない」と強く感じました。
 

2016年 7月10日「隣人は誰でしょう?」

7月10日 主日礼拝説教要旨
「隣人は誰でしょう?」 山本一牧師
ルカによる福音書10章25~37節


●ウェスレー教会のモットーは「愛神愛隣」神を愛し、隣人を愛するという事です。しかしそれは決して私たちがそれを常にできるとか、また完全に出来る事がクリスチャンの証だというのでもないのです。今日の福音書「良いサマリア人」のたとえ話もまたその事を教えています。
●ある時、律法(旧約聖書)の専門家がイエス様に「何をしたら、永遠の命(神に喜ばれる本当に幸せな人生)を受け継ぐことができるか」と問いました。それに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか」と問い返され、すかさずこの「愛神愛隣」の教えを口にしたのです。イエス様はそれを聞いて満足されました。しかし、話はそこで終わらずこの律法学者は「自分を正当化しようとして」こう言うのです。「それではわたしの隣人とは誰ですか?」
愛すべき隣人の範囲を明らかにして欲しいといったのです。もちろんこの律法学者は同じ神を信じるイスラエル人だけだという答えを既に持っていたのでしょう。彼の心には「違う信仰の人は愛したくない」また「全ての人を愛することはできない」という思いが見えるのです。ただ、これを批難はできません。私たちの身の周りにも良くある考えだと思います。ただ、そのような問いに対してイエス様は「良いサマリア人」の話をされたのです。
●あるところに傷ついて倒れている旅人がいました。そこを通りかかった祭司とレビ人(神の神殿に仕える者たち)は旅人を避けて通り過ぎました。これには理由があり、祭司などは血や瀕死になった人に触れる事によって自らを汚す事は許されていなかったからです。彼らは自分は神殿の祭司だから仕方ないと考えたことでしょう。 しかし最後の一人は全く違い、手厚く世話 をしたというのです。そして、その親切な人は「サマリア人」だったと記されているのです。何故イエス様はここであえて「サマリア人」と言われたのでしょうか?そこに大切な意味があります。
●一般に言われる「善いサマリア人」という言葉に私は疑問を抱きます。このサマリア人が素晴らしい聖人のような印象を受けるからです。けれども、聖書の本文には「善いサマリア人」なんて文字は全く出てこないのです。むしろ当時のサマリア人の多くは、民族主義者で、排他的・・・プライドを持ってユダヤ人を批難するような限界や問題を抱えた存在だったのです。
イエス様が、このたとえで律法学者に本当に言いたかった事の一つは「自分を正当化するあなたもサマリア人と同じ、だれも完全な人はいないんだ」ということです。
そして、しかしそんな問題ありのサマリア人でも、自分の限界を超えて時に目の前に苦しむ人がいるなら心動かされ手を差し伸べる事があるんだということを強調されたのです。
イエス様は、私たちは完全な人間はなれないが、そのあなたのままで出で行き、今のあなたにとって本当に大切な隣人を見つけ、それを愛しなさい。その時に、サマリア人であろうが、律法学者であろうが、誰であっても「永遠の命」本当の幸せがみつかるんだと、私たちを愛の業へと押し出してくださっているのです。
●「私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にある」。クリスチャンであろうがなかろうが、信仰暦が浅かろうが深かろうが、様々な隔たりを超えて、弱りを覚えた身近な隣人を互いに覚え、愛し祈りあう時、私たちは喜びを覚え、幸せを感じます。なぜならそのような時にあのイエス様の愛が私たちに宿り働いて下さるからなのです。
私の隣人とは誰か?今日も尋ねつつ、身近なところに出て行きたいと願います。