ヨハネによる福音書

2016年 9月18日「限りある人生に永遠の命を」

9月18日 主日礼拝説教要旨
「限りある人生に永遠の命を」山本一牧師
ヨハネによる福音書10章22~30節

●聖書に出てくる「永遠の命」を山浦玄嗣さんは決して死なない命ではなく「いつでも生き生きと生きる力」と訳し変えました。そのような命を人はどうやったら得られるのでしょうか?健康・富や名誉を得ることによるのでしょうか?
「死の谷をすぎて」という本を読みました。太平洋戦争中日本軍の捕虜となりタイの収容所で過酷な労働を強いられたイギリス人の捕虜のアーネスト・ゴートンさんの手記です。
日本軍の泰緬鉄道を建設のために16,000人の連合軍捕虜が犠牲となりました。著者もまた死の寸前まで追いやられます。この収容所には当初人間の本性がむき出しになる地獄のような光景が支配していました。彼もまた『神などいるものか』と人生を呪いながら命が終わる日を待っていました。
しかし、そんな彼を献身的に看護する二人のキリスト者があらわれ、無神論者だった彼も聖書を読み始めるのです。そして彼も自己中心的な人間の限界を打ち破り、「人を愛して生きること」へと導かれていくのです。彼らは聖書のイエスの愛と自分を看護した友や身代わりとなって死んでいった仲間の愛を重ねました。そしてこの死の収容所の中に神が生きて働いて奇跡を起こしていると感じたのです。彼らは極限状態の戦場にあって生き生きと人を愛して生きていたと記されているのです。  
●今日の聖書箇所で、イエス様は自分を羊飼いだといい、それに従う羊に永遠の命を与えると言われました。 羊は目の前の者を追って右往左往して、導き手がいないと幸せになれません。そのような羊の姿は、 本当の幸せあると思って、全く見当違いのほうへ行こうとする私たちと似ています。自分の事ばかりを追い求めると不満や絶望が待っていて、逆に苦難の中、イエスの愛を求め、人を愛し人に支えようとするときに、「永遠の命」本当に自由な生き生きとした命が得られるのだと聖書は告げているのです。
●あの厳しい収容所とは違いますが今も人間の本性がむき出しになるような、厳しい時代にあると感じる事があります。人との繋がりが薄く自己中心に陥りがちです。今も「神は一体どこにおられるんだ?」と問うような状況があります。けれども、そのような現実に神さまは必ず「愛」をもって臨んでおられるのだと聖書は告げるのです。そして、イエス様が持っていた、永遠の命、本当に生き生きと生きる命へと人々を導いておられると信じたいのです。
●本の中で「神などいない」という著者に友人が一つの詩を紹介しました。
「私は私の魂を探し求めた、しかし、
私はそれを見つけることができなかった
私は私の神を探し求めた、しかし、
私の神は私から隠れておられる
私は私の兄弟を探し求めた。するとその
三者の全て、私の魂、わたしの神、
すべての人びとを見出したのです」
この魂という言葉を「永遠の命」と言い換えても良いと思います。
●あの過酷な戦地で、人を愛して生きようとした時に、人々はイエス・キリストと神を知り、生き生きと生きる命に出会いました。私たちも、今週、兄弟を探し求めたいと思います。誰かに小さな愛を届けたいと思います。その時に私も本当に大切なものを見つける事ができると信じて。

2016年 8月7日「悪人にも善人にも」

8月7日 主日礼拝説教要旨
「悪人にも善人にも」 山本一牧師
ヨハネによる福音書9章1~7節


●今年の夏の修養会では日々「自己中心、エゴ」を意識化し、愛に満ちたイエス様の力を求めていく事が大切だと学びました。 「平和」の実現にも「不断の努力」とイエスさまの助けが必要だと感じます。
米国がイスラム国への空爆を開始してから丸2年が経ちます。果たして空爆で本当に平和が来るのでしょうか?
●今日のマタイによる福音書5章には「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」と言う言葉がありました。しかし、この「悪人にも善人にも恵みを与える神さま」は躓きにもなり得ます。悪には悪、善には善という因果応報こそが公平で正義だと考えてしまうからです。
聖書には大昔からの法律として「目を傷つけられたら相手の目を、歯を失ったら相手の歯をもって賠償としなさい」という復讐法がありました。往々にして過剰な報復が行われたからです。それを禁止する意味で損害には同じものをもって償うべきだとされたのです。イエス様もこの法律を知っていました。しかし、ここで全く新しい教えを述べられました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
あなたに悪を働く者に対して、報復ぜず、善を返しなさいと仰ったのです。なぜなら天の神が、善人にも悪人にも恵みを注がれる方だからだ、というのです。
●目には目を歯には歯を、つまり-1を相手から受けたから相手にも-1を返すとすると、一見平等に見えて、この世の中に-2が残るだけです。子どもの喧嘩を見ていてもそうです。互いに同じ数ずつ叩きあったところで、怒りも痛みもおさまりません。ますます怒りは燃え上がります。それと同じように、報復による負の連鎖は止まり ません。それは私たちの世界の戦争の歴史を見ても明らかです。
イエス様はこの世のマイナスを愛というプラスで補うことの大切さを示されました。そして、自らが十字架にかかり身を持ってそれを示されたのです。自分を迫害する者、頑なな心に、徹底して愛を示す事によって、人間の「闇の部分」を作り変えようとされたのです。
●過激派のテロよって、中東からの移民の受け入れに難色をしめす国が増えています。しかし一度テロリストの人質になったジャーナリストのニコラス・エナンさんはこう言います。
「テロリスト達の世界観の中心はムスリムとその他のコミュニティーは共存できないというものだ。そして日々アンテナを張り巡らせて、その考えを正当化しようとしている。
そんな彼らにとって、難民排除で殺伐としている欧米の動きは、彼らを大いに興奮させている」というのです。しかし、そんなテロリストたちを悩ませたものがあったと彼は言います。
「ドイツの人々が移民を歓迎している写真は彼らを大いに悩ませた。連帯、寛容・・・それは彼らが見たいものではない。」つまり、「愛や寛容」こそが空爆に勝る彼らの脅威なのだと語られたのです。
●「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」とパウロも言います。
自分だけが正しい、自分は誰とも共存できないと決め付け、人を裁き傷つけるような「悪」が私たちの社会にあります。いや、私たちの自身の中にもあります。むしろそのような頑なさ、悪にこそイエス様の温かい太陽の光のような愛が必要で、神様は悪人にも善人にもイエス様を、その愛をお与えになり、全てを愛の光で包んでこの世を変えようとしておられるのです。
その神様の愛をしっかりと受け止めて、共にこの世に神の愛と平和を作りだす人になりたいと願います。
 

2016年 7月31日「まだまだこれから」

7月31日 主日礼拝説教要旨
「まだまだこれから」 山本一牧師
ヨハネによる福音書9章1~7節


●先日この度日本に帰られる内藤政枝さんの日本のご家族と初めてお会いしました。笑顔で語り合う内藤さんのお姿を見て、素敵な家族の待つ家に帰られる事がわかり、安心すると同時に、今まで知らなかったお姿に触れた気がいたしました。
普段近くにいても人は他の人の事を完全には知る事はできないのだと思いました。そもそも人だけでない、様々なこの世の事柄を私達は完全には理解できないのです。
「何かを知っていると思う人は、知らなければならないほどの事すらまだ知っていない」とパウロは語ります。人は皆完全ではない、と知ることが大切なのだと教えているのです。
●イエス様はある時、生まれつき目の見えない人と出会いました。弟子たちは「彼がそのように生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか」とイエス様に尋ねました。これは当時のユダヤ人の中に、病気や不幸と、本人が犯した罪には深い因果関係があると信じる人たちがいたからです。そしてそれが「生れつきの病や障がい」の場合になると、一体なぜその様になったのかを説明するのは困難でした。ある人はその両親に原因があるとし、他の人は胎児も罪を犯すのだと考えていたようです。
しかし、イエス様はそのようには考えられませんでした。イエスさまがここで仰ったのは「神のわざがこの人に現われるため」という言葉でした。そして、その人を通して神の素晴らしい業が示されたのです。
イエス様はこの人の障害の原因(過去)ではなく、その目的(未来)について語られたのです。人間にはこの世の全ての事柄についての意味や原因はわかりません。イエス様はそのような世の中にあって、後ろを向きがちな私たち人間に、いつも新しい前向きの視点を与え、人を生かしたのです。 そして、私は今でもそのイエス・キリストと出会い前向きに生かされるのだと信じているのです。
●私は神学部時代、様々な事を思い悩み、自分の未熟さを受け止めることができない、弱く、後向きな学生でした。しかしそんな私をある先輩がよく励ましてくれました。
彼は仕事が大変順調だった時期に中途失明をしました。そのため仕事仲間にも冷たくされ、婚約も破棄され、会社もやめることになったそうです。
「なぜ自分がこんな目に」と嘆き絶望の淵に立たされました。しかし、その苦しい日々の中で目の見えない彼にキリストが現れて「私に従いなさい」と言ったというのです。彼は言いました。「今思うとあれは幻覚だったのかもしれない、けれどもその出来事によって「全てを神にゆだねよう」と思い、洗礼を受けたのは紛れもない事実。まだこの先不安もあるが、それでも神に望みを置くことが唯一私の生きる道なんだ」
私は、彼が前向きなのは彼の性格からではなく、キリストとの出会い、神への信仰によるものだったんだと気づいたのです。
彼は後ろ向きな私にいつも「なに言っていんの、まだまだこれからやでー」と口癖のように言ってくれました。
●私たち人間は様々な事柄を、自分勝手に判断してしまいます。自分の人生について、他人やこの世の中について、諦めようとしたり、嘆き絶望してしまいます。弱いですから。けれどもイエス様は苦しみを覚え、絶望の淵にある人のそばに寄り添い、「私がいるから大丈夫、私に従いなさい」と揺るがない未来への希望を示してくださるのです。そのイエス様の故に私たちは前を向けるのです。日本に行かれる内藤さん(当教会で55年以上活躍され、日本への帰国を決められた)の人生も、また多くの人を他の土地に、また天にも送り、寂しさを覚えているウェスレー教会日語部も主イエスキリストの故に「まだまだこれから」です!
 

2016年 6月12日「愛するということ」

6月12日 主日礼拝説教要旨
「愛するということ」 山本一牧師
ヨハネによる福音書21章15~19節


●陶芸家Steven Young Leeさんは壊れたりにじんだりしているような一風変わった作品ばかりを作っておられます。「不完全さ」に芸術的価値を見ておられるのです。
人間もまた同じ。誰一人として完全な人はいません。しかし、だからこそ配慮や愛が生まれ、感動が生まれるのです。昔から今に至るまで教会の良さもまた、欠点だらけの存在がそれでも希望をもって生きている所にあるのです。そして、この欠陥品の私たちをとことん愛して、何かの役に用いようとしておられる事を私たちは毎週の礼拝で感謝とともに覚えるのです。
●キリスト教が最も大切にする事は「愛」ですが、この愛についても、人間の愛は不完全です。旧約聖書のホセア書には神様が人間の愛は「朝の霧 すぐに消えうせる露」だと嘆き、逆に神の愛は背く人間をも愛し続けるような際限ない愛である事が告げられています。
新約の時代、古代ギリシャの人たちは三つの「愛」という言葉を使いました。価値のある者を愛する「エロース」、兄弟愛、友達の愛などを表す「フィリア」そして、価値のないものをも愛するような、無条件の愛「アガペー」です。最後の「アガペー」こそが人間にはなかなか持ち得ない神の愛だと考えられてきたのです。今日の聖書ヨハネによる福音書にもそれらの「愛」という言葉がでてきます。
●復活のイエスさまがペトロという弟子に言います。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」。それに対して、ペトロは答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。不思議なのは同じようなやり取りが三度も繰り返されている点です。 実はイエス様の最初の二度の問いかけには「アガペー」が使われ、後の「愛」には「フィリア」が使われているのです。そして、ペトロは三度共「フィリア」で応えているのです。
ある人はこう訳し分けています。
イエス「ペトロよ私を愛しているか?」
ペトロ「はい私はイエスさまが大好きです。
それは あなたもよくご存じでしょう。」
イエス「私を愛しているかと聞いているんだ。」
ペトロ「わたしがはあなたの事が大好きなのは知っておられるでしょう」
イエス「あくまで愛しているとは言わないんだな。
 あなたは私を大好きだとしか言えないんだな。」
ペトロ「そうです。私があなたを大好きだとしか言えない、その程度の人間だとい
うことをあなたはお見通しです。」


自らを献げて全き愛を示されたイエス様に対し、イエスを裏切ったペトロは限界のある愛しか示せない。そこにペトロの限界と悲しみがあります。
イエスさまの2度の「アガペー」での問いかけには「あなたはどうであれ、私はどんな時にもあなたを愛している」というイエス様の心が込められ、最後に「フィリア」でイエス様が尋ねられたのは、不完全さを自覚しつつ「あなたなりの愛で愛しなさい」と言うメッセージに読み取れます。
●人間の愛は「限界のある愛」です。しかし、その事が私たちの胸に悲しみと共に刻まれるとき、私たちは主の前で謙虚なものとされ、本当に人に仕え人に神様の温もりを伝える歩みへと押し出されて行くのだと聖書は教えているのです。
実際にこのペトロという弟子も18節以降に表されているように、後に教会の指導者として、人と神とに我が身を献げてくほどになっていったのです。欠け多い私たちですが、完全な主の愛を受けつつ、身近な愛の業に励んで参りましょう。
 

2016年 4月24日 「神の栄光」

4月24日 主日礼拝説教要旨
「神の栄光」 山本一牧師
ヨハネによる福音書13章 31~35節


●以前日本で柳田邦男さんの講演を聞きました。そこで「絵本の読み聞かせ」が子どもの教育に最も良いと聞き、これを毎晩続けています。しかし今思うと、子どもの教育のためというよりも、親子でケタケタと笑いながら親子で過ごすこの時間そのものに尊い価値があるように感じています。


●ヨハネ福音書には度々「栄光、Glory」という言葉が出てきます。誇るべき事・成功の絶頂・美しさという意味ですが、インターネットで検索すると一番に出てくるのが、中学受験の学習塾でした。これは今の世の中の情勢を良く表しています。通常、人が求める栄光とは学歴であったり、地位であり、名誉なのかもしれません。
けれども振り返って、それが本当に人の幸せ、誉れなだろうかと問わずにおれません。往々にして、この世の価値観ではないところに本当に大切なもの「私たち人の人生の栄光」があるのではないでしょうか。


●今日の聖書はイエス様が「栄光」を受けたと告げられています。イエスさまにとっての栄光とは何だったのでしょう?
今日の箇所は31節「さて、ユダが出ていくと」という言葉で始まっています。これはイエスを裏切るユダがその裏切りを開始したという事です。それを見てイエス様は「さあ今!人の子は栄光を受けた」と言われたのです。つまりイエス様にとっての栄光、輝かしい誉れとは裏切りに始まる受難、十字架の死の出来事をさしているのです。これは何とも受け止めがたい事です。
福音書は、イエスさまの素敵な奇跡や不思議な業の話を記しています。しかしその ような奇跡を行うイエスさまの姿よりも、あの虐げられ、十字架につけられた姿にイエスの栄光があったと言っているのです。
イエスの十字架は、神ご自身が、罪深い人間のために命を捧げて、その罪を贖う犠牲となった愛の出来事で、そこに神の栄光があったのだとヨハネは告げているのです。
このメッセージは、私達の「栄光」(本当に大切な事柄)とは何なのか、を問うているように思うのです。


●イエス様は続けて「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。
社会的地位を得る事や、大きな事業や、この世での成功、それも良いでしょう。けれども、本当に大切な事は、欠けや弱さを持ちながら生きている私たちがそれを補い合い祈り、愛し合う事にあり、そこにあの神様の栄光が立ち表れるんだということを述べているのです。


●「100万回生きた猫」という佐野洋子さんの書かれた絵本があります。100万回死んで生まれ変わった猫。王様の猫や船乗りの猫・・・何度生きても愛する事を決して知らなかった猫が最後に愛する者のために涙を流し、もう生まれ変わらなくなった。というお話です。 これは人の人生は、自らが人を愛する事がなければ空しい人生である事を教えているように思います。
私たちは何を求めて、何を「栄光」として生きているのでしょう。
聖書はその命を十字架で捧げるほどに、私たち人間をこの上なく愛してくださったそのイエス・キリストの姿に神の栄光があったと告げています。私たちもまた「神を愛し、人を愛する」その歩みを第一として励んでいきたい、と願います。
 

2016年 4月10日 「立ち返るところ」

4月10日 主日礼拝説教要旨
「立ち返るところ」 山本一牧師
ヨハネによる福音書21章:1-14節


●今年二月に天に召された佐藤初女さんは青森の「森のイスキア」で手作りのおにぎりやお味噌汁で多くの人を癒されました。その佐藤さんの姿勢は詩に現れています。
「もしも私がひとりの友の 心の痛みを癒せたら もしも私がひとりの友の 生きる苦痛を救えたら ひとりの人の憂い迷いを心の安らぎに導けたら 弱った小鳥をそっと両手に捧げてその巣に返した時のように私の生きる喜びとなる」
そのような思いで、一人の人に誠実に接する時、おにぎりにも人を立ち上がらせる力が宿るのだと知らされます。

●聖書の福音書にはイエスさまが蘇って人々に現れたと記されています。しかしその内容は4つの福音書で様々です。
もしも私たちが死んで復活したら大切な事を大切な人に伝えに行くでしょう。同じように各福音書が記す復活のイエスさまの姿や言葉には、後の教会が大切にすべき事「立ち返るべき所」が記されているのです。
マタイは山上で復活のイエス様が「教えを守るように」と言ったと記します。これはあの有名な山上の説教を思い起こさせ、イエス様の教えを守ることを強調しています。では、ヨハネの強調点はどこに?

●今日の箇所はイエス様の弟子達が故郷ガリラヤの湖で復活のイエス様と出会い、その言葉に従うと153匹もの魚がとれ、共に食事をしたという内容です。
伝統的にこの箇所は153匹の魚を全世界の人、「網」を教会と捉え、この「大漁の奇跡」 は「教会が世界に広がっていく」という事なのだと解釈しました。しかし、網で一度に沢山の人を捕らえるような宣教が本当に協調されているのでしょうか?
注目したいのは「大漁の奇跡」ではなくあくまでイエス様の姿です。イエス様は自ら夜通し働いた弟子たちのために食事と、冷え切った体を温めるための炭火を用意され、その手で一人一人の弟子たちに食べ物を配り、仕える者となられたのです。

●4節「それがイエスだとはわからなかった」という言葉を見ると、復活のイエス様は全く違う姿で現れたようです。姿は違うが、あのイエス様と全く同じ姿勢、一人一人を大切にし、率先して人に仕えられたイエス様の愛に弟子達は再び触れたのです。そしてその愛は、イエスを失って失望し、元の「さえない漁師」に戻っていた彼らを今一度立ち上がらせたのです。


●佐藤初女さんはこのように仰いました。「神様は、私たちの目には見えませんし、声も聞こえてこないのですが、生身の人間、肉体を通して、私たちに働きかけてくださいます」
今でも誰かを通して、私たちにイエス様は働きかけてくださっています。だからこそ人は時に誰かの些細な配慮に心打たれ、涙を流し、悲しみの中からまた再び立ち上がる力を得ていく事が出来るのです。
おにぎり一つであっても祈りをこめる時に、小さなお花一つ、挨拶一つ、声かけ一つに心をこめていくならば、そこにキリストの力が注がれて、弱った人が立ち上がるような奇跡がある事をご一緒に信じたいと思います。
 

2016年 2月28日 「死から命へ」

2月28日 主日礼拝説教要旨
「死から命へ」山本一牧師
ルカによる福音書15章11~24節

●スイスの作家、ヨハンナ・スピリの「アルプスのハイジ」の中で、若い頃放蕩の限りを尽くしたアルプスのおじいさんが「一度神さまに忘れられたら、もう遅い、永久に忘れられてしまうんだ」と言った時に、少女ハイジは「ちがうわ、神さまのところへは帰ってゆけるのよ」と言って、聖書の放蕩息子のお話の箇所を読みました。若い時に父親から財産をもらい、遊びほうけて落ちぶれた息子がどん底の生活を味わう。その中で父を思い起こし、謝り、雇い人の一人にしてもらおうと帰っていく。その時に父は怒らず、走りよって彼を抱きしめ「息子は死んでいたのに生きかえった」と喜び、迎え入れたというお話です。このハイジの素朴な信仰と言葉に触れたおじいさんは、その夜ハイジの寝ているベッドのそばで、大粒の涙を流して、神に立ち返るのです。そして、村の教会に行き、村人たちとの交わりに戻っていくのです。
●聖書には父親が帰って来た放蕩息子を抱きしめてこう言ったと記されています。「息子は死んでいたのに生きかえった」『アルプスの少女ハイジ』は、少女ハイジの信仰と成長のみならず、一度、神と人を捨てた一人の人間(おじいさん)の神さまと共同体への復帰を描いているのです。
●以前働いていた教会に元ホームレスのある男性がおられました。彼は仏教系宗教に出家するために全てを捨てて熊本から神戸にでてきましたが、後にその施設から追い出されてホームレスとなりました。幸い近隣のカトリック教会に拾われ、支援を受け、畳2畳の簡易宿泊所で生活を始めました。しかし、家と国からの支援は得たものの、家族・友人がいない彼は一人で家で酒を飲むようになりました。お酒だけが友達という状況でした。その様なケースは多いのです。
 そんな彼らの支援として、教会は近況を報告し合い、勉強や、コミュニケーションの練習をする場を提供していました。そこに彼も来るようになりました。
彼は何度もお酒で失敗しましたが、ある時、病院のICU一月に入って依頼、教会とアルコール依存から脱するための集会に自分から行き始めました。
そして、ある時彼は「私は主を信じる。だから洗礼を受けたい」と言いだしました。しかしそう言いながらも、数珠や龍を縁起がいいと求めたりしていました。そんな彼も「主を信じる」と洗礼を受けました。
洗礼を受けてからも彼は自分勝手にふるまっていました。しかしある時、彼は教会の重たい荷物を運ぶ重労働を進んでしました。彼が進んで誰かのために何かをすることは殆どありませんでした。丁度彼が教会に来だして1年が立った時でした。私は、「人は変わるんだなぁ」と感動しました。その数日後、彼は突然天に召されました。
彼の葬儀はとても印象的でした。もちろん家族は一人もいない。けれども地域の人たち、教会員が総勢30名以上集りました。そこである牧師が言いました「彼は人生の最期に人の交わりに戻ってきたんだ」。
本当にその通りだと思いました。
●「人の交わりに戻ってくる」という事、それには大きな勇気が入ります。努力もいります。何より神への信仰がなくては戻ってこれない。私はそう思いました。
彼は「人は神と人との交わりに、戻ってこれる」という事をその身をもって教えてくれたのです。
人は教会の交わりの中で、キリストの愛を受け、育まれ「死」から「命」へ、という程に変わる事ができるのです。遅いことなんてないのです。それを信じ共に歩んでまいりましょう。また今、この世にあって神にも人にも絶望している方々に寄り添い、歩んでいきたいと願います。

 

2015年11月22日 「愛と感謝の連鎖」 山本 一牧師

11月22日 主日礼拝説教要旨
「愛と感謝の連鎖」山本一牧師
ヨハネによる福音書15章11−17節


●メキシコのミッショントリップでは行く側も、受け入れる側も互いに感謝をもって仕え合う良い関係が育まれていました。現地のリーダーが「私たちの感謝のサークル(連鎖)は決して終わりません」。と述べられました。「感謝の連鎖」とは良い言葉です。
しかし同時期にフランスで大きなテロが発生し、それに伴う報復の空爆が始まった事を知りました。そこにあるのは「憎しみの連鎖」です。ある報道によると、テロリストの中には貧しさと恨みからメンバーに入ってい人も多いといいます。「貧しさと社会への恨み」それは世界中でこのテロ組織に加入しようとする人が絶えない要因です。それを思うともはや単に一部の過激な宗教集団の問題だけではなく「極度の貧困や、行き過ぎた資本主義、愛に欠けたこの世の社会システム」の問題とも言えるのです。
身近なところにも「憎しみの連鎖」はあります。往々にして相手の表面的な苛立ちの言葉に反応し、みずからも苛立ち悪の思いを返す。そうしてまた相手が悪を、という悪の連鎖反応を私たちも多く経験します。なぜなら今のこの社会で私たち人間は皆、弱く、愛に飢え、人々の無理解と誤解に囲まれているからです。そして「悪」に負け、本当の幸せや自由を得ることができないのです。
●このような悪への連鎖を断ち切り、善を持って悪に勝ち抜いた人がイエス・キリストだと聖書はつげています。イエスさまは、当時の権力者たちの妬みを買い、恨みを抱かれ、十字架にかけられました。本当なら、全く理不尽な仕打ちに対して、怒りと憎しみで返しても良いところを徹底して悪に対して、愛で答えられたのです。神様がこの世にくださった最も良いものはイエスさまを通して示された「愛」なのです。

 ●ヨハネ福音書15章の前半には、イエスさまが私に(私の愛に)繋がっていなさい。そうすればあなた方は良い実を豊かに結ぶ。と繰り返して言われたと記されています。そして今日の11節には「これらのことを話したのは・・・あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と語られました。イエス様は、人間がこの世で本当に幸せになるための掟とは「愛し合うこと」であり、それをわが身を捧げて示してくださり、あなたがたも行ってその愛の実りを実らせなさい。 と、そのように仰ったのです。
ただ、今の現実社会で「愛」が何の力をもつのか、愛でテロに勝つことはできないという声もあります。しかし、私たちは今一度この「愛」というものの持つ力を信じたいのです。
●この度のテロで愛する妻を亡くされた仏人ジャーナリストのアントワーヌ・レリスさんはこの度テロリストへのメッセージを述べられました。そこには「君たちを憎むつもりはない」と言うこと、また「私と一歳半の息子と共に憎しみに支配される事なく自由に幸せに生きる。きみたちは憎しみを勝ち取る事はできない。君たちの負けだ」。とつづられていました。
この中にはテロリストを「愛する」という言葉こそ出てきませんが、私はここに「憎しみの連鎖を止める愛」見ました。そして報復の空爆ではなく、本当の自由と勝利がここにあることを感じ、またイエスキリストがこの世で示された愛を感じたのです。 今、たった一人のわずかなこのメッセージが、愛が、多くの人の心を温め、憎しみの連鎖を止めるその働きをしているのです。あの2千年前に、十字架上で殺されても人を愛しぬいたイエスキリストの命、その愛が全世界に広がったように。
●イエス様はおっしゃいました「私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行ってみを結びその実が残るようにと」。愛の冷えた世の中に、愛の実を実らせるために、ここ、教会に集うあなたを私は選んだんだとイエス様はおっしゃいます。ここ教会でイエスキリストの愛を確かに受けたなら、私たちがそれぞれに、愛の種を蒔くために使わされるのです。それは、決して大きな愛の業でなくても良いのだと思います。
●わたしはメキシコの小さな村で朝散歩していました。皆顔見知りのような町です。私一人、見慣れない顔なので、皆がじろじろと、怪訝そうな顔で見てこられました。
元気よくこちらから「ブエナスディアス!」と挨拶すると、向こうも笑顔になり、挨拶をしてくださり、朝の市場のスープや食べ物を食べなさいと差し出してくださいました。小さな挨拶からも、愛と感謝の交わりが始まるのだと感じました。私たち、それぞれに出来る愛の業にはげんでまいりましょう。そして今の社会に互いに愛し合い、感謝し会う関係を取り戻したいと思います。

2015年 8月9日「私たちの飢えを満たすもの」 

8月9日 主日礼拝説教要旨
「私たちの飢えを満たすもの」山本一牧師
ヨハネによる福音書6章22−35節

●私たちは今「たった一切れのパンに飢えている」という事はまずありません。St.jamesパークのホームレスの方であっても多くはそうかもしれません。しかしマザーテレサが「人は一切れのパンではなく、愛に飢えている」と言ったように、誰からも愛されていないという心の貧しさ、愛への飢えを皆、持っているように思うのです。また、逆に言うと、もしも愛に満たされれば人はこの世で苦難や飢えがあっても、生きていく事ができるという事なのです。
●使徒パウロという人物はユダヤ人として冷酷に人を裁き、キリスト者を迫害していまたが、ある時目には見えないイエスキリストの声を聞き、その愛に触れ、変えられました。そんな彼がこう記しています。
「わたしは確信しています。死も、命も・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。実際に彼はキリストの愛を胸にいだきつつ、苦難の中を生き、また殉教したと言われています。
●今日の福音書もまた、イエスが、私たちの本当の飢え、愛への飢えを満たす存在であるということを告げています。
イエス様は5000人以上もの群衆を、5つのパンと2匹の魚で満腹させるという奇跡を行い、それに魅せられた群衆は、イエス様の後を追いかけて来ました。その彼らにイエス様はこのように言っています。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい・・・私は命のパンである」と。一度食べたらなくならない食べ物とか、永遠の命とは一体どういうことなのでしょう。
この「永遠の命」とは「決して死なない命」ということではありません。「永遠で限りない神の愛の中に常に置かれている命」ということです。ある人はこういいました「永 遠の命を得る」ということ、それは「自分がどんな状態であっても、その自分のことを愛し、許し、理解し、関わりを持ってくれる存在を得るとういう事だ。」
けれどもそんな存在にますます出会いにくくなっているのが現代ではないでしょうか?
●以前、日本で「遥学園」という児童養護施設にボランティアに行きました。そこには様々な事情で親と暮らせない子どもがたくさん生活しており、その子どもたちと丸1日遊ぶことが私の役割でした。中にとても口が悪く、私を大変困らせる女の子がいました。当時私はまだ若く、その子の一つ一つの言葉に傷つき、また腹が立ち、ただただ忍耐して一日が終わりました。けれども、いよいよ帰る時が来た時に、その子が言いました。「えーもうかえるん?今度はいつ来んの?」耳を疑いました。この子は私が本当に愛してくれるかどうかを試していたんだということに私は気づきました。自分を本当に愛してくれる存在を彼女は求めていたのです。何かできたから愛するとかではない「理屈を越えた愛」です。それを彼女はそれまで、十分受けられなかったのではないかと思いました。家庭の複雑な事情、社会や学校の環境もあったでしょう。皆が忙しくなり、物が溢れ、人と人との関係が希薄になる現代です。無理もありません。
だからこそ、聖書は言うのです「私たちの命を本当に生かし、私たちの心の飢えを本当に満たしてくれるイエス・キリストに何とかして出会いなさい。そこに繋がりなさい。私たちの心が乾ききってしまう前に」。そして、その愛を知ったなら、あなたがその愛をもって愛に飢えた人たちのもとに出て行くのですよと。聖書は勧めているのです。
●イーグルスと言うバンドのデスペラードと言う歌は、この世に対して心を固く閉ざしてしまっている、そんな人に向かって語りかけているような歌です。「君も誰かに愛されて生きていくべきだ(You better let somebody love you)。手遅れになってしまう前に(Before it's too late)」
 

2015年 8月2日 「信じる心の大胆さ」 深田未来生牧師

82日主日礼拝説教要旨

「信じる心の大胆さ」深田未来生

ヨハネによる福音書4115

強い太陽の日差しがすべてをからからに乾かしてしまうようなパレスチナの気候はカルフォルニアの気候に合い通じるものがあるといわれている。湿度の高い京都の夏の暑さに半世紀にわたって耐えてきた人間にとってパレスチナの天候はきっと一種の快適さを与えてくれるものだろう。そのような環境では異常と思えるほど喉が渇くことがある。ひたすら喉を潤す水を喘ぎ求める気持ちを持つ。その水が私たちが当たり前のように思っている日本の水道の水のように「上等」でなくても私たちは改めて水を有難く思う。

イエスは弟子たちを連れて歩いておられた。散歩ではない。イエスに使命を与えた神の働きを一番必要としている人々に、その働きを明らかにするための歩みであった。人間は変えられる、善が悪を征して神の愛が人々の冷たい心を熱くする日は来るとアッピールする歩みであった。

時はお昼時。すでに温度は高く、日差しが強くなり始めていたころにイエスと一行は由緒ある「ヤコブの井戸」のあたりに到着していた。弟子たちが食料を仕入れに近くのシカル村に出かけている間、イエスは井戸端で休んでおられた。そこに現れたのは地元の女性、サマリアの女であった。歴史の不幸はユダヤ人とサマリア人を長く引き裂いてきただけに井戸端には何か冷ややかな空気が流れたに違いない。緊張は女性の方が強かったであろう。彼女は通常女性たちが水を汲みに来る時間帯から外れてやってきたのである。女性を目にしてイエスが声をかける。「水を汲んで下さいませんか」と。女性は戸惑ったであろう。身を翻して村へ帰るか、黙って水がめを満たして去って行っても良かったであろう。しかし、彼女はイエスに答える。「あなたはユダヤ人なのにこのサマリアの女に水を欲しいと頼むのですか」。少々突っかかるようにも聞こえる。しかし聖書を読み進めるとこの女性の言葉から2人に間には深い会話が成り立ってゆくのが分かる。そして彼女の発言は唐突にすら聞こえながらも大胆に聞こえ始めるのである。2人の対話はお互いに単刀直入、まっすぐに心の奥底に触れながら進展して行く。女性は自らのうちに戸惑いが薄れ、イエスの言葉が魂の奥底にしみ込んで行き、自分が清められてゆく感動を体験したに違いない。からからに渇いた喉を冷たい水が通る時の半分痛いような、半分心地よい気持ちを抱いたのであろう。

イエスは命の水について語る。井戸の水では癒すことの出来ない渇きを取り除き、魂を洗い清め、傷を癒し、新しい活力を与える水についてであった。その水は飲んだ人のうちで泉となりこんこんと湧き続ける永遠の命の水だとイエスは言う。

井戸端の女性はもうじっとしていられない変革が自分のうちに起こっているのを体験する。彼女を更に大胆にしたのはこの魂が揺さぶられる体験であった。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」あつかましいお願いでありながら、心からの真実な願いであった。魂の目覚めの瞬間の言葉だったといってよい。彼女は水がめを置いたまま、飛ぶように町へ帰ってゆく。日常的に人々の冷たい眼差しにさらされていたこの女性は、大胆な行動に出る。「私が出会ったユダヤの男性は私の過去を見通していた。この人はメシヤかもしれません」と語るのである。魂の目覚めと変革はこの彼女の大胆な言葉から町の人々が直接イエスの言葉を聞こうと井戸端へと出かけてゆくときに始まりかけていたのである。