マルコによる福音書

2016年 11月20日「蒔かれた種が実る時」 収穫感謝日礼拝

11月20日 主日礼拝説教要旨
「蒔かれた種が実る時」   山本一牧師
マルコによる福音書14章1節~11節

●農業では、種を蒔いても全てが順調に育つのではありません。収穫には困難もつきものです。私達の人生も同じようなものです。夢や目標のために努力し、それがすぐ達成される事もあればそうでない事もあります。今日は「長い時を経てみのる実りもある」ということを味わいましょう。
●江戸時代に日本の屋久島に上陸したシドッチ神父はイタリア人宣教師でした。彼はローマ法王庁より日本に派遣されるにあたって、少ない資料から3年間必死で勉強しました。しかし、それが実ったかというと決してそうではありませんでした。
上陸した時、彼は異様なちょんまげを結い、刀を差して武士の姿に変装していたというのです。その異様な姿はさすがに目立ち即日役人に捕らえられ、江戸へと送られてしまいます。そして牢獄で生涯を終えたというのです。これだけ見ると彼の宣教は失敗ですが、後に全く予想しない実りが実ることになったのです。
●シドッチ神父を江戸で取り調べたのは当時の知識人新井白石。彼は誠実なシドッチ神父の人柄に惹かれ、彼の言葉を書き残します。そして有名な書物『西洋紀聞』を書き上げるのです。そこには「地球は丸い事、5つの大陸があること等の知識が記されていました。彼は1714年46歳にして獄中で無くなりましたが、その貴重な世界の情報は幕府の指導者達の間で受け継がれ、19世紀半ば、日本が開国を迫られた危機的状況にその本が、日本の方向を決定づける大切な判断材料の1つになり、日本が世界に開かれていく一つの大きなきっかけとなったのです。シドッチ神父の計画と夢は本人が全く意図しない形で160年かけて大きな実りを実らせたのです。 ●今日の聖書はイエスに香油を塗った女性のお話です。ある食事の時、彼女はイエスに約300万円相当の香油を注ぎかけました。周りの弟子たちは、もったいないと言って激しくこの女性を非難しました。けれども、イエスはその女性に対して「この人はできる限りのことをした。」と言い、これは自分の埋葬の準備となると言われました。
自分のことしか見えていないように見える彼女の行動ですが、ただ主イエスを思い、最高の愛をもって精一杯主イエスに仕えようとしたこの女性の業は、最終的に神のご計画の中に入れられていくのです。
●私達は自分に自身が持てない事も多く、何かと気にして行動できなくなる時もあります。また時にこの女性のように、良かれと思ってしたことが周りから見るとそうではなく非難されてしまうと言うことも多々あります。
けれどもイエス様は「それでいいんだ」と言ってくださるのです。私達人間が与えられた環境においてイエス様の喜ばれることを!と思い最高の愛を込めてできる事をなしていく。それを神様は喜んでくださるのです。すぐには評価をされない事もあります。けれども時を経て神さまの業の一端を担っていることがあるんだというのです。そのように時を経て実る実りがあるのです。
●たった一度しかない、かけがえのない人生をイエス様を信じて思い切って生きましょう。それが、かならず時をえて、実を結びます。また私たちが出会う人、職場や教会にもに違いがあります。自分が望む実りがすぐに実る事もあるでしょう。けれども、長い年月を経て実るものもあります。その事を覚えて、実りを信じつづけるキリスト者となりましょう。私たちのつたない歩みから「豊かな実り」を生み出してくださる神さまの力を信じて。

 

2016年 5月22日「信仰のない私でも」

5月22日 主日礼拝説教要旨
「信仰の無い私でも」 山本一牧師
マルコによる福音書9章14節~29節


●「つもりちがい10箇条」は人間の思い違いを良くあらわしています。
高いつもりで低いのが教養 低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのが知恵 浅いつもりで深いのが欲望 厚いつもりで薄いのが人情 薄いつもりで厚いのが面皮
強いつもりで弱いのが根性 弱いつもりで強いのが自我 多いつもりで少ないのが分別 少ないつもりで多いのが無駄
その「つもり」でがんばりましょう。
使徒パウロもまた「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と述べて誇り高ぶるコリント教会の人たちに苦言を呈しています。聖書を読むにつれ、私達は「信仰」においても、つもり違いをしているのではないかと思うことがあります。
●今日の福音書はイエス様がある人の息子を癒されたという記事です。ここには少し厳しいイエス様の言葉が記されています。
イエス様の弟子達が悪霊につかれた少年を癒そうとしたができなかった。そこで当時の宗教家達との議論が始まったようです。
イエスさまはこれを見て「何と信仰の無い時代なのか。いつまで私はあなた方と共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。
「なんと信仰のない時代なのか」の「時代」という言葉は「世」と訳せます。何か良い時代が他にあったわけではなく、そもそも「この世には信仰がない」と嘆かれたのです。とても厳しい言葉です。また、イエス様は、悪霊を追い出せなかった弟子たちに「こういう事は祈らなければ不可能だ」と言われました。恐らくその子を癒そうとして、祈っていたであろう弟子達にそう言われたのは、つまり「あなた方の祈りは祈りではない」と言われたのと同じです。 これら厳しい主の言葉には私たちもまた戸惑うかもしれません。なぜなら、私たちの内に信仰がある「つもり」になっているからで す。私たちが神様を前に信仰者の自負を少なからず持っているからです。その私たち人間の中にある「つもり違い」、「神様に対する自負」を打ち砕くような言葉が今日の言葉です。
そして本当に言いたいのは「自分の中に信仰が無い」と気づくところに本当に主イエスにすがる信仰が始まるのだという事なのです。

●このことを、この箇所に出てくる病む息子を持つ父親の言葉がよく表しているのです。
彼はイエス様に対して「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。自分の信仰ではなく、イエスの信仰に頼るしかないというこの祈りこそが、主イエス様が弟子たちに求めた祈りであり聖書が今の私たちにも勧めている祈りなのだと知らされるのです。
●私は牧師になる勉強をしていたころの話、父が病気になり、必死に祈りました。しかし祈れば祈るほど、「お前の祈りは聞かれない」という声が迫ってきました。日頃の自分の未熟さ、罪深さが迫ってきたのです。そこで、そこで初めて私は「イエス様にすがる」という思いにされたのです。今日の悪霊に取り付かれた少年の父のようにです。
●弟子達にも、往々にして私たちにも信仰はありません。しかしイエス様は「その子を私の所につれてきなさい」といわれました。罪もあり不信仰である私たちも打ち砕かれつつ、ただ全ての祈りをイエスさまのもとへと持っていく時に、イエス様は私達を憐れんでくださり、時に、驚くような奇跡を主イエス様ご自身が主ご自身の力信仰によって起こしてくださると信じていきたいのです。
今週も「イエス様!信仰のない私を助けて下さい」そのような叫びを祈りをもって、この世の苦しみ、悩みに共に立ち向かってまいりましょう。主による奇跡を信じて。
 

2016年 3月27日 「人間を超えた神の世界」

3月27日 イースター礼拝説教要旨
「人間を超えた神の世界」山本一牧師
マルコによる福音書16章1~8節


●マルコ福音書は女性たちがイエスの遺体に香油をぬり、最後のお別れをするためにお墓に行く場面を記しています。今を生きる私たちでも、多くの人が「お墓」が命の終わり、人生の終着点を意味すると考えています。しかし女性たちが墓につくと、墓は空っぽだったというのです。この出来事に婦人たちは「震え上がり逃げ去った」とあります。この女性たちが「驚き震え上がって逃げ去った」というのはそこに、「人間の理解できない世界」が広がっている。ということを示しており、ここに込められたメッセージは「死で終わらない、人間の考えを超えた神の世界がある」。という希望メッセージなのです。
●注目したいのは、このイエスの復活を告げた人物です。これは福音書によって違い、マタイ福音書は「主の天使」、ルカは「輝く衣を着た二人の人」、そしてマルコは「白い長い衣をきた若者」となっています。信じ難い「復活」という出来事を、天使や輝く二人の人ならまだしも「若者」に告げられたら「更に信じられない」と感じるのではないでしょうか。ここ込められたマルコのメッセージは何でしょう?
●若者とはどのような存在でしょうか?
熱意はあっても続かない、約束を守らない、良く言えばフレンドリーですが、悪く言うと礼儀をしらない、等々。若者特有の問題は沢山あります。聖書にも、イエスのもとから素っ裸で逃げ出した若者や、パウロ の話で眠りこけ3階の窓から落ちて死んでしまった若者。富に執着する「金持ちの青年」などの話があります。しかし私は同時に若者は「人間を超えた神の世界」を信じる力を感性を持っているとも感じます。
●この度、共愛学園の生徒さん16名が金曜日の受難日礼拝に出られた時、私の想像していなかった姿、真剣にメッセージを聞き、英語の賛美歌を歌い、涙を流す姿に触れました。私たち日語部でも高校生が次々とホームレスミニストリーに参加し、大人が頑固に持つ偏見や先入観をいとも簡単に壊して「ホームレスの方々も私たちと変わらない」と言います。マルコが「主の復活を告げたのは若者」だと記したのは、若者には問題もあるが「人間を超えた神の世界」を信じ未来を切り開く可能性を持っているというメッセージではないでしょうか。
●またレイチェル・カーソンという人は「人間を超えた存在を認識し、畏れ、驚嘆する感性(センスオブワンダー)を育み強めていくこと」が大切だと語ります。しかし、それは子ども時代だけではなく、大人になっても持ち続ける事ができるんだと述べています。
今日洗礼を受けられる米司さんはリタイアの後、教会に熱心に通い始められ、人間を超えた神の世界に目を開かれ、それを追い求め、これからの人生を豊かにしたいとお考えで、励ましを受けます。
全ての世代が集い、互いに刺激を与え合いつつ、これからも「私達の知らない神の世界がある」という事に心の目を開かれる素敵な感性を共に養って参りたいと願っています。
 

2016年 3月6日 「語り伝えるべき事」

3月6日 主日礼拝説教要旨
「語り伝えるべき事」 山本一牧師
詩編78章1~8節 マルコ14:50-52

●決して風化させてはいけない事、語り伝え続けなければならない事があります。太平洋戦争(原爆や日系人強制収容)や東日本大震災、原発事故などです。何故語り伝えるのか?それは人間が同じような差別や戦争事件や事故を繰りかえしてしまうからです。
津波被害の出た三陸には「津波てんでんこという言葉があるそうです。「津波が来たら、各自てんでんばらばらに高台へと逃げろ」という意味で、逃げ遅れて共倒れにならないため、また津波の時には、たとえ他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない。という暗黙の了解をも意味するそうです。この言い伝えを学んでいたおかげである中学校では、全員が助かったそうです。
●聖書も元もとは先祖の伝承を口頭で大切に語り伝えたものでした。今日の詩編78編には「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう・・・主が成し遂げられた驚くべき御業を」とあります。詩人は何を語継ごうと言うのでしょうか。
この詩編にはイスラエル民族の歴史が語られていますが、明確に2つの事柄が示されているのです。一つは「神の前で罪を犯す人間の姿」、そしてもう一つが、「その罪にもかかわらず、人間を赦し憐れまれる神さまの姿」なのです。「彼らの心は神に対して確かに定まらず、その契約に忠実ではなかった。しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる・・・」このこの2つの姿をこそ、この旧約聖書の詩人は、語り伝えようと言っているのです。聖書の素晴らしい点は、自らの民族の失敗や汚点を、隠さず後世に伝えているところです。 何故かというと、そこにこそ神の偉大さ、愛と憐れみが示されるからです。
●今日の福音書はイエス様が十字架につけられる前の出来事です。弟子達が皆逃げ出してしまい、ある若者は素敵な亜麻布の服を捨てて裸で逃げてしまったという話です。
聖書になぜこんな恥ずかしい事を書いたのかと思ってしまいそうですが、この数行が書かれた事がとても大切な意味を持つのです。
ある人は、この若者はこの福音書を書いた著者マルコの姿ではないかと言いました。「私はイエスさまが捕まった時に、なりふり構わず見捨て逃げ出してしまったんだ!」と伝えているのです。この青年がマルコであれ誰であれ、やはり人間というのは自己中心的で、いざというときに弱く、罪深い存在なのだという事を記したかったのだと思います。
しかしマルコが伝えているのも、やはりそれだけではない。その弱く罪深い私たちをも独り子であるイエス様を十字架に架けて神様は赦してくださったのだと告げているのです。
その恵みがあるからこそ、思い出したくもない辛い失敗も語ることができたのです。
●東北の被災地で中島みゆきさんの「時代」という歌がよく歌われているそうです。
「今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけど そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ」
未だ被災地には「悲しくて涙もかれ果ててもう二度と笑顔にはなれそうもない」という状況があります。また人生にはそのような状況が多々押し寄せてきます。けれども悲しみや後悔、絶望のある場所に必ず注がれる人の愛、主の愛で、いつか笑顔で語れる時が来る事を信じ、祈ってまいりたいと願います。

10月25日 「私を憐れんでください」 ジョン・ビジテーション先生

マルコによる福音書10:46-52

「わたしを憐れんでください」

ジョン・ビジテーション先生

この聖書の箇所が今週の聖書日課から与えられた時、私は、自分が牧師として聖職授任(オーディネーション)を受けるための準備もしていて、それは教区での面接を受ける前に仕上げる必要がある一連の書類、手紙Aから手紙Mといったものも含んでいます。

 また既に取り組んでいることや、人と話をすること、オフィスでの仕事や時には布団の中にまで持ち込んでの仕事など、沢山のことがあります。加えて妻のミカが必要とすることや、会衆の求めや、ミニストリーやその他の事など、次々と押し寄せてくる中で、私が今日のメッセージの準備を始めた時、最初に目をひきつけられたのはバルテマイの言った「私を憐れんでください」と言う言葉でした。

 私はこの「私を憐れんでください」という言葉から逃げられず、この言葉が頭から離れませんでした。私たちはいつも「愛と憐れみなる救い主」とか「憐れみ深い神さま」という言葉で「Mercy」という言葉を耳にしています。しかし、彼が言った「私を憐れんでください」という言葉にはいくらか違った力と理解があります。

そして、私たちがバルテマイの叫びを理解し始めるとき、神が与える憐れみとはどのような類のものかを私たちは見いだし始めるのです。

 さて、エリコはよく知られた貿易の街でした。沢山の人が物を売り買いするために行き来していました。もしも、あなたが働くことができなかったら、いわばあなたがバルテマイだったとしたら、あなたは他の人と共に外で物乞いをしなければならなかったでしょう。もう一日生き延びるために、誰かの目に止まろうと望むはずです。バルテマイは、イエス様の気を引くためにできる唯一のことは他の人よりも大きな声で叫ぶことだと考えました。だから、ここに「私を憐れんでください!ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と叫んでいる彼の姿があるのです。

 そして、それがイエス様の耳に届いたわけです。ダビデの子、と誰かが言ったことを聞き取られたのです。これはダビデの血を引く救い主というメシアの預言を指しています。そして、このことは当時の世界では良く知られていて、町の外にいた盲目の人であってもでした。そして、イエス様はバルテマイの叫びを聞いた時、「私を憐れんでください」という言葉ではなく「私はメシアであるイエスあなたを信じます!どうか私を憐れんで下さい!」という言葉を聞かれたのです。

私はあなたの奇跡を信じます。私はあなたの教えを信じ、あなたが預言者が告げた唯一のお方だと信じます!私を憐れんでください!

 バルテマイには生きる目的も無く、この瞬間イエスが彼に与えるかもしれないもの以外は何も持ちませんでした。彼を待っているものも他に何もありませんでした。他のビジョンや希望や未来に関しても何もありませんでした。しかしバルテマイはもし彼が目が見えるようになるという夢を抱くことができるならば、そして将来の展望、希望、未来を持ち続けていられるとしたら、それは、自分の近くを通りすがった救い主を信じる事で起こることだと知り、悟ったのです。彼の絶望と失望は助けを求める叫びに変わりました。

 私たちは皆、希望を失ったり、目の前が真っ暗になったり、未来がないように感じる事があると思います。きっと、そういう時は、ストレスを感じる時、働きすぎたり燃え尽きてしまったり、憤ったり人と衝突したり、悲しみに打ちひしがれ、不安になったり落ち込む時ではないでしょうか。

 この聖書箇所は私たちにキリストを信じる信仰にしっかりとしがみつく事を思い起こさせるものだと思います。それは、こういったストレスや嘆き、絶望にくれるといった状態の中で何とか耐えるのではなく、これらの絶望の瞬間から自分たちを立ち上げるための言葉なのだと思うのです。

 私は先に牧師になるプロセスに必要な書類を準備している事を話しました。そして、そのうちの一つは私の宣教への召命について記述することでした。英語部・日語部それぞれの礼拝で私の宣教への召命について話をしたのですが、今日は、そこまでの道のりのある部分に焦点を当てたいのです。

 2007年の夏、私は初めてのサマーキャンプを共同企画しました。そして、それは私が UJCC(フレズノ合同教会)でキース先生と一緒にインターンをさせていただいた同じ夏でもありました。

そして、この時すでにキース先生と先生の行うミニストリーにくっついて大部分の夏を過ごしていましたが、私はいつのまにか、自分が 日系人サマーキャンプ(略してエイジアン・キャンプ)を手伝っているのに気づきました。

 最後の晩は大抵、感動的なキャンプファイヤーの夜となります。そこで私達ディレクターは、このミニストリーの一部を担ってどれだけ祝福されたか、神とキャンパーとスタッフに感謝するのです。

 そして、キャンプファイヤーが終わった時、私は一人で祈るためにその場を離れました。

私は、自分の人生がどうなるのかわからず、その事を神に祈りました。

私に何が待ち構えているのか、コンピュータのエンジニアにとどまるか、ロサンゼルスにとどまるか、家に帰るか、大学院の卒業をあきらめるか・・・沢山のことについて、私には明確な答えが出せませんでした。かなりの間、迷ったような感覚を覚え、葛藤を覚え、また何が私を待ち構えているか先が見えない、そんな風に感じていました。

 しかし、私が神に祈った唯一確かだった事がありました。それは、宣教への道を進み教会に仕えることをどのように感じているかでした。そして、これが私が大変長いあいだ感じていた最も完全な感覚だと理解しました。

そして私は神にこれから後の人生で私を用い、導き、私を憐れんでくださいと祈ったのです

 皆さんもおわかりの通り、バルテマイの話は、暗闇の中、何も見えない状態で神に助けを求め、そして神が私たちの言うことを聞いてくださっているという確固たる信念を持っているという信仰の話なのです。

 でも、この話には、また別の現実を表す他の側面もあります。イエス様は、バルテマイの隣にいた人、それが弟子の一人だったのか、そこに群がっていた人の一人なのか、バルテマイに静かにするように怒鳴った人達か定かではありませんが、誰かに言われたということに気付

かれると思います。イエス様は誰かに、バルテマイと話をするように頼んだのです。そして、私は自分の人生においても、このことが本当だということに気がついたのです。

 自分の伝道への召命を受けた初めの段階では、自分が何をしているのかハッキリとは分かりませんでしたが、何人ものリーダーや牧師、そして教会のメンバーから自分にはその賜物があると後押しする言葉を聞きました。教会員の家や病院に誰かを訪問する時には、毎回、自分の話すことや祈りが、その部屋におられる神によって息を吹き込まれるように祈ります。私たちのスティーブン・ミニストリーでは、ミニスターの一人一人が、助けを必要としている方々と神とを結ぶパイプ・管となることが必要であると教え、その為に神に使っていただくよう祈っています。

 お分かりですか?神が最初に私たちに手を差し伸べるように頼むのは、私たちが名前も知らないような人たちなのです。どういうことかと言うと、神は、あなたの周りにいる全ての人を通してあなたに話しかけられ、同様に、あなたを周りの全ての人に語りかけるように使われておられるに違いないということです。ただ、私たちの周りにいる人の言うことに耳を傾け、そして神が私たちに何を言っておられるのかを聞くのには時間と忍耐が必要なのです。

 それはバルテマイがとった行動です。彼はイエス様に呼ばれたと聞くと、飛び上がってイエス様のところへ行きました。するとイエス様は彼のために何が出来るかを尋ねたのです。バルテマイはただ目が見えるようになりたいと言いました。イエス様は、行きなさい、あなたの信仰があなたを癒したのだと言われました。これがバルテマイの話の終わりですが、そこで私たちは、神がこれからもそこへ在られて、私たちの信仰に明確さや方向性を与えてくださるという認識することができるのです。

 神は私たちを暗闇から引き上げて、私たちにより良い明日、より良い未来のための視界を与えて下さるのです。エリコの町の外にいる乞食のようにその日、その日をただ何とか生き延びていくのではなく、私たちに命を与えてくださるのです。私たちに希望を、生きる目的と理解を与えてくださるのです。それがバルテマイに起こったことであり、私に起こったことなのです。そして、私は、皆さんの多くがこのバルテマイの話に似たようなストーリーをお持ちのことと確信するのです。

 プレイズバンドに演奏をお願いする前に、私は「神は、あなたがいる所どこでも、またどこへ行こうとも共にいてくださる」という言葉を告げてメッセージを閉じたいと思います。

 暗闇しか見えないという状況にあるような人生の時に「ダビデの子、イエスよ、私の主、私の神」と呼びかけることは無意味だと思う人もあるかもしれません。「私の視力を元に戻してください、もう一度見えるように助けてください」とただ神さまに呼びかけることも難しい場合もあるかもしれません。

 でも、他の感覚を使って神の方向へあなたの意識を向けてみてください。また、あなたを神へと導くあなたの周りの人々にあなたの心を向けてください。

 神は存在するだけではなく、他者との繋がりを作るために私たちを用います。

それは「私たちの教会に来てください。」とか「一緒に祈ってもいいですか?」または「それをするのを手伝わせて。」とか「力になりますよ。」というような姿かもしれません。

 神はいつも私たちと一緒にいてくださいます。共にいてくださる偉大な方(インマヌエル)です。神は私たちの人生の最も暗い闇の時、いつも憐れんでくださいます。そして、神は他者を支える手を差し伸べるために私たちを用いられるでしょう。また、神は常に私たちが信仰を通して物事を見るように助け、ただ一日一日を耐える事よりも、私たちのより良い明日のために希望を与えてくださるのです。

栄光と平和が皆さんと共にありますように。 アーメン。

 

2015年10月18日 「先頭にたって進まれる主」

10月11日 主日礼拝説教要旨
「救いはどこに?」山本一牧師
マルコによる福音書10章17−27節

●私たちは自然の四季を経験しますが、人の人生や社会においても四季があるように思います。今の私たちの社会ははたしてどの季節なのでしょうか?日米共に決して明るい季節ではないように思います。
「アメリカンウィンター」というドキュメンタリー映画(2013年)は今、最もリッチな国アメリカの国民6人に一人が貧困層で、内1610万人が子供だという事実を示し、アメリカは今冬の時代を迎えているという事を告げています。


「自分がまさか福祉サービスの世話になると思っていなかった」その声が全米に広がっています。私たちはどうやってこの冬の時代を生き延びていくのでしょうか?
●聖書のイエスさまにとっても人生の「冬」といえるような辛い出来事がありました。それが十字架の死で終わる受難の出来事です。今日の福音書はその不穏な空気を感じさせるイエス様の受難の予告の場面です。
しかしイエス様はその中を「先頭に立って進んでいかれた」というのです。今からご自身に苦しい受難(冬の時)が待っているにも関わらず、逃げ腰にならず、積極的に先頭に立っていかれたのは何故でしょうか?私は二つの事を思うのです。
●今日の受難の予告の最後にこうあります。「異邦人は人の子を侮辱し、つばをかけ・・・殺す。そして三日の後に復活する」。イエス様は最後に「復活する」と言われました。神を信じて歩むものには、苦しみは苦しみのまま終わらない、必ず良いものを神が与えてくださるだろう、という父なる神に対するイエスさまの信仰がここにあるのです。言ってみれば、イエスさまは冬の先に神様が用意される春がある、復活の出来事がある。それを見ておられたのです。
●イエス様が暗闇へと立ち向かっていかれたその力のもう一つの理由は「愛」です。
 45節には「わたしは多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」とあります。つまり、自分が十字架にかかるのは、全ての人の罪を贖い生かすためだというのです。その全ての人間への「愛」の故に困難に立ち向かっていかれたのです。
●先に紹介したドキュメンタリー映画を見ながら、このようなイエス様の姿を私は子どもたちの中に見出しました。
夫をなくしガレージに住む親子、その母親が取り乱し泣き出した時に、まだ小学生の子どもが「ママ、たいしたこと無いよ。世の終わりじゃあるまいしNot the end of the world.」と励ます姿。暗闇に下をむく母を抱きしめ、笑顔で「ママは私にとってスーパーウーマンだ」と言う男の子。失業した父に「あなたは最高の父だ」という娘。ある男性は貧困の生活の中でもいつも笑顔で笑っているダウン症の息子に励ましを受けていました。そしてある12歳の女の子は、いつか良い仕事について両親を助けたいと力強く語り、自分よりママが心配と言い、昼を抜く母親に「昼食を食べるのを忘れないで!」と、家に張り紙をはって学校に出かけていくのです。そして彼女は笑顔で言いいました。「ママが大好きだから」。
私はこの映画の子供たちの眼差しを見て私は衝撃を受けました。その眼差しは親以上にいつか来る春への希望をもっている、また親への愛をもって苦難を受け止めていこうとしている。そんな風に見えたのです。
●冬のような厳しい環境にあって往々にして、親のほうがプレッシャーや無力感に押しつぶされそうになります。私たち大人は現実を知りすぎ、愛に絶望しやすいのです。だからこそ「信仰」を持ちたいのです。今日の聖書の先頭にたって歩まれたイエスさまの姿を思い起こしたいのです。
神様は今苦しむ私に必ず「春」をくださる!と信じ、愛する者を守るために立ち上がり歩んでいきたいのです。

2015年10月11日 「救いはどこに?」

10月11日 主日礼拝説教要旨
「救いはどこに?」山本一牧師
マルコによる福音書10章17−27節


●昨今、日米問わず「健康」について皆高い関心を持っています。しかしそれは肉体的な健康であり、案外心や魂の健康については意識がされていないように思います。
八木誠一さんという神学者は「甘やかされた人間に本当に必要なことは、自分のことばかり考えずに他人の事を考え思い、他人の為に働くことなのだ。『人格の健康』は他者を愛し他者のために働くことで保たれるのである。」と言いました。
私自身、物が溢れ便利な時代に生まれ、自己中心的に育ちましたが、大震災の被災地でのボランティアを通して痛む人達に触れ、お仕えする事で心が変えられた思いをしました。人は他者への愛を抱く時、自分中心から解放され、幸せを得る。その事を今日の福音書もまた教えているように思います。


●ある時一人の男がイエス様に尋ねます「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼は「決して死なない命」について問うたわけではありません。聖書の「永遠の命」とは「救われた命」とも言えますが、つまりは神様に満たされた最高の幸せな人生です。彼はおそらくユダヤ教の家庭に生まれ育ち、家柄もよく、お金も持っていながら、何か満たされない思いを持ち、イエス様のもとに来たのでしょう。
その彼にイエス様はこのように答えられました。「神様の教えを守りなさい。殺すな、姦淫するな・・・」。ただ、この男性は、もうそんな事は幼いころから親に教えられて、守っていると答えました。そこで、イエス様は、21節その男性を見つめ、慈しんで、言われます。「あなたに欠けているものが一つある。
行ってもっているものを売り払い貧しい人々に施しなさい・・・それから、わたしに従いなさい」。ここでイエス様が仰った、たった一つ欠けていたものとな何でしょうか?

 ●それは「自分が永遠の命を得るために」とか「私の!自分の!」と願う自分中心な考えを捨てて人に仕え、人に捧げて生きる愛だったといえるでしょう。そして、イエス様は近くにある貧しい人たちに目を向けてみるようにと促されたのです。その時にあなたの内に本当の愛が与えられ、自分中心の思いから開放され、私に従う者「救われた者」とされていくだろう。そう告げておられるのです。
ただ、そんな事が本当に可能なのでしょうか。実際、この男性は自分には無理だと悲しみながら立ち去っています。イエスさまも「財産を持つ者が神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがましだ」と言われました。けれども同時にイエス様は「人にはできることではないが、神にはできる」とも言われたのです。
●先日ウェスレー教会のメンバーの一人が天に召されました。全身性強皮症という膠原病の一種で、7年も闘病ながらも、いつも笑顔で、周りの人を助け気遣っておられたお姿を思い起こします。
 教会にはこの様な姿が本当に沢山ある事を思います。教会は皆、健康な人が来るのではないのです。身体的にも、精神的にも、また人格的にも病み疲れた人が集っています。けれどもそのように「私の痛み、私の辛さ、弱さ、悲しみ」それを持ちつつも、他者に手を差し伸べ祈っていく、そういう姿と出会うのです。私はそのような人の姿を見るときに、それは本当に人間のできる事ではないと感じます。そして、そこに今も神さまの力、イエスキリストが生きている事を信じるのです。
 神様は、私たちに弱い者が集る教会をくださり、同時にイエスさまの愛を下さって、私たちを自己中心から解放し、永遠の命へと導いてくださっているのです。今週も周りの弱さに触れ、神様から愛を戴き、祈り支え合ってまいりましょう。
 

2015年10月4日「共感と愛のまなざし」

10月4日 主日礼拝説教要旨
「共感と愛のまなざし」山本一牧師
マルコによる福音書10章1−12節


●「痩せカエル、負けるな一茶ここにあり」や「我と来て遊べや親のない雀」という小林一茶の俳句は小さな存在への温かな眼差しを感じさせます。聖書を読むと、イエス様もまた、常に弱く小さな存在のへの温かな眼差しを持たれた方だったという事を知らされます。

●今日の聖書は一見するとイエス様が離婚を禁止されたという話になります。しかし本当に大切なメッセージはそこなのでしょうか?そうではないと思います。もう少し良く読んでみたいのです。
 熱心なユダヤ教徒、ファリサイ派のある人がイエスに尋ねました。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」。しかしこれは「イエスを試そうとした」質問でした。当時の宗教家たちは何度もイエス様を試すため難問を出しました。実に「離婚の問題」は当時大いに議論されていた問題だったのです。
旧約聖書(モーセの教え)の申命記24章1節に「人が妻をめとり・・・妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて・・・家を去らせる」という決まりがあり、当時この中の「恥ずべきこと」の内容をめぐって大論争がおこっていたのです。
ある一派はよほどの理由でなければ駄目だと言う一方、他の一派は拡大解釈をし「妻が料理を焦がした」など、実に取るに足らない理由、あるいは全く理由なしに離婚される事があったのだというのです。日本にも三行半の離別状で簡単に女性が離縁された時代がありました。世界中で女性たちが軽んぜられて来た(いまも)歴史があるのです。

●イエス様はここで「モーセのこの掟はあなたたち(男)が頑固なためだ」と言われました。つまり男性の心が固く無慈悲で、身勝手なため、せめて離縁状を書き、確かな理由がある時にしなさいと戒めたのだとイエス様は言われたのです。モーセも、イエス様の言葉も社会的に弱い女性の立場にたち、その女性たちへの憐れみの視点から語られたのです。 ですから今この箇所から離婚は何が何でもいけないというのは間違です。もしも、今イエス様がおられ、妻や夫の無慈悲、暴力、浪費など、様々真剣に離婚についての相談をしたなら、全く違った答えがあり、苦しむ者に深い同情を寄せられるに違いありません。
ある時イエス様は姦通を犯した女性でさえも聖書で裁く事はせず、深い憐れみをもって臨まれた、という話もあります。聖書で人を裁くような律法主義を超えた、イエス様の温かい眼差し、愛がそこに見えるのです。


●前回のホームレスミニストリーで一人の男性が自分の苦しい胸の内をお話くださいました。彼は自分がゲイで、教会でも公園でも「お前は罪人だ」と繰り返し言われ続けていると言われました。その無慈悲な言葉に本当に深い傷を負っておられるようでした。
私たちは彼に「今一番して欲しい事は何ですか?」と聞きました。すると即座に彼は「Compssion(共感)and Love(愛)」だと言われたのです。この言葉が胸を打ちました。


 そして、良く考えたら何も、彼だけじゃないと思ったのです。「Compssion(共感)and Love(愛)」、これは今の社会を生きる私たちが、本当に今、一番求めているものなのではないでしょうか。表面を見て「この人はこうだ」とレッテルを貼られる、裁かれ、排除される。そんな状況が身近にもないでしょうか?
「あなたが悪い」そんな言葉はもういい、「こうすればよい」そんなアドバイスが欲しいわけでもない。ましてや「聖書にこう書いてあるから」という律法主義の話しはもううんざり。

「今の自分を受け止め、話を聞いて欲しいんだ」とどこかで叫んでいないでしょうか?

●「弱さへの共感と、温かい眼差し」を私たちもまた求めているのです。なぜならそれこそが現代人と現代社会に最もかけているものだからです。
イエス様は今も、裁きではなく愛と共感の眼差しを持って、いつも私たちに臨んでくださっているのです。その眼差しを感じて歩んで参りましょう。

2015年9月27日「罪を知り、神の国を知る」

9月27日 主日礼拝説教要旨
「罪を知り、神の国を知る」山本一牧師
マルコによる福音書9章42−50節


●生まれつき手足のない乙武洋匡さんは自分の体について、よくユーモアを交えてお話をされます。それを聴くと乙武さんは自分の身体の限界を自分で良く受け止めておられるのだなぁという事を感じます。
聖書という書物もまた、自分はどれだけ頑張っても限界あり、どこか不満足で欠けがある存在だ、という事に気付くところに実は本当の幸せがあるんだ、と教えています。
●イエス様の12人の弟子達はある時、いったい誰が一番偉いかという議論を始めました。その弟子達に対して今日の箇所でイエス様は「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は・・・海に投げ込まれるほうがよい」と厳しい言葉を述べられました。
誰が偉いや、自分が一番正しいなどと言いあっているうちに、あなたたちは弱い人をさげすみ、軽んじてしまう。それは不幸な事なのだという警告なのです。そして43節以降、少し怖いような言葉が続きます。
「片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」同じように片足、また片目、と格言のような言葉が続いています。良く見ると最後の格言では「命に預かる」という言葉を、「神の国に入る」と言い換えています。つまりここで、イエス様は「神の国」と「地獄」について話しておられるのです。ただ、これは死後の世界としての天国や地獄と言う事を言っているのではないでしょう。私はこの箇所を読むときに一八世紀の禅の白隠和尚の話を思い起こします。

 

●ある日、一人の侍が白隠和尚を訪ね「地獄と極楽はどこにあるのかわからん」尋ねた。すると白隠は「見かけは立派な武士だが、その年でまだ地獄の有無がわからぬのか、この 腰抜け侍」と罵ったそうです。その言葉に怒った侍は、刀を抜いて白隠を追いかける。そしてついに本堂の隅で刀を振り下ろそうとしたその時、白隠は大声で叫んで、「そこが地獄だっ!」と言ったいうのです。この白隠のその一喝に、この侍は、怒りや憎しみ、自分を正しいとする思いあがりが自分も他人を傷つけ、ともに地獄に落ちるようなことに繋がる事に気づくと同時に、また地獄というのは遠い存在ではなく、現にいま自分自身の中にあることを思い知ったのです。
そして、この侍は髪や衣服の乱れを直し、恥じらいと喜びに面を赤らめ深々と頭を下げたのです。すると白隠は今度は穏やかに彼を指し「それ、そこが極楽よ。」と言いました。
この白隠の言葉に侍は明るさを取り戻すと同時に、極楽は、地獄とは反対方向にあるのではなく、地獄をつきぬけて、初めて観ることの出来る世界であることを知ったのです。

● 49節には「人は火で塩味をつけられる」という言葉もあります。火は神さまの裁きを意味し、塩とは、キリストを信じるクリスチャンの譬としてでてきます。私たち人間は、神さまと真剣に向かい合う時、実に欠けや罪の多い存在かを知らされます。それは「裁かれること」であり、辛いことですが、しかし、そこで私たちは初めて「このような私たちを愛し、救ってくださるイエスキリストに出会い、謙虚にされ、感謝と深い喜び、幸せを与えられるのだ」と聖書は注げているのです。神さまとの真剣な向かい合い、罪に震える地獄のような心持ちを通して私たちもイエス・キリストによる幸せ(神の国)に預かり、クリスチャンとなっていくのです。
使徒パウロは神を前にしたら皆不完全な存在だ。自分を良く見なさい、と語ります。誰が偉い、誰が上だ、下だというのではなく神の目から見たら欠け大き存在である事を覚え、支え合い、励ましあい、互いに平和に過ごすことができればと願います。
 

2015年9月20日「小さなものを愛される主」

8月30日 主日礼拝説教要旨
「小さなものを愛される主」山本一牧師
マルコによる福音書9章33−37節


●あなたは人生の価値をどこに見出しますか?

「働くこと」にのみ価値を置くある人に、フランクル医師は「働けない病人や弱くなった存在にも生きる権利と深い意味がある」と言いました。
また長谷川英祐さんは著作『働かないアリに意義がある』で「働きアリ」は実は7割が休んでいて1割は全く働かない。その働かないアリがいるからこそ、皆が疲れ果てず巣が保てるのだといいました。また同じルートを通らない「変わったアリ」こそが、餌への最短ルートを発見し、結果的には効率的に餌を集める事が出来るとのだと述べておられます。
私たち人間の社会でも、いかに沢山働けるかという価値判断に全ての人が支配される時に、実は落とし穴があり、そのような組織や社会は、結局は滅んでしまうという事があるように思います。今日の聖書のメッセージもまた私たちの価値感に疑問を投げかけます。
●今日の箇所はイエスさまの弟子達が「私たちの中でだれが、一番偉い(メガス=偉大な)のか」という議論していたというお話です。誰よりも低くなられたイエス様に従いながら、弟子たちは、どうしたら偉大な者になれるかと考えていたというのです。
この議論を聞いて、イエス様は近くにいた子どもの手を取って、彼ら12人の真ん中に立たせ、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は・・・つまり、父なる神を受け入れるのである。」と言われました。イエス様はこの言葉から何を教えようとされたのでしょうか?ここでイエス様は「素直な子どもこそが偉いのだ」と言ったのではありません。

この子どもは孤児として町の外で過ごしていたような子ども達だという説があります。当時様々な理由で親を失った子どもたちがい たと言われます。「子どもは素晴らしい」と言われますが、中には本当に大変な子もあります。愛に飢え、ストレスを溜め、問題を起こす子。今の社会に適応できない子。イエス様はここで、そういう存在を抱き上げて、弟子達の真ん中に置き「このような存在を受け入れなさい」とおっしゃったのです。「私の名のゆえに・・・受け入れなさい」という言葉はイエスさま、神様がこのような小さな問題だらけの存在も、またその様な存在こそ深く愛しておられるという事を意味しているのです。そして、このような小さな存在があなたがの中で受け入れられていく時に、本当にそこに私がいるんだよ、神様がおられるんだよ。そうして暖かな共同体になっていくんだよと、イエス様は教えられたのではないでしょうか?
●私が学生時代にお世話になった教会に知的なハンディキャップを持った女性がおられました。彼女は決して素行が良いわけではなく、困った事も沢山ありました。けれども、いつもその子は教会の中心にいました。そのためいつも皆、真剣に彼女の事で話合いをしていました。後から振り返ると、彼女が教会の中心にいてくれたからこそ、皆が配慮する空気が生まれていました。またなによりも、問題だらけの私自身もそこに、居られたのだと思いました。彼女は実に両親や沢山の人を教会に繋げてくれたのです。社会では周辺にいた彼女が教会の中心で輝くことによって、彼女自身も幸せに、そして教会が本当に暖かい教会になったのです。


●問題だらけの小さな存在をこそ中心にする時に温かい教会や社会ができる。それはとりもなおさず、私たち一人一人にも言えます。私たちの中にある弱さ、醜い部分こそが大切で、イエス様はそのような部分をこそ愛しておられるのです。私たちも自分の弱さや欠点から目を背けず、認めて中心にいつも覚えて歩む時に、本当に温かい人になる事ができるのです。今週も弱さをこそ中心に!