マタイによる福音書

2016年 11月13日「仕え合う幸せ」

11月13日 主日礼拝説教要旨
「仕え合う幸せ」 山本一牧師
マタイによる福音書5章1~12節

●先日の大統領選挙以来、多くの方が不安を覚えています。私は今のアメリカが、事業家であり不動産王である候補者を選んだところに、この国が経済の発展を第一に望んでいる事を強く感じ、少し経済偏重が行き過ぎではないかと感じました。今は、むしろ人の本当の幸せはどこにあるのか問う時ではないかと思うのです。
●時々、漢字というのは面白いなぁと思います。「幸せ」という漢字は「土」という字と「¥」という字にわけられます。土地と、お金があれば幸せだと言う風に読めます。その通りに、90年台は土地と日本円があれば幸せが得られるという幻想に人々は狂いました。しかし実際はバブルに過ぎず、お金や土地を追い求めた結果、幸せになれたかというと、そうではなかったのです。
●聖書は幸せについてどのように語っているのでしょうか?今日の福音書は有名なイエス様の山上の説教の始まりで「幸せ」について語っています。しかし一見するとあまり幸せそうではない事ばかりです。
「心の貧しい者は幸いである」これはギリシャ語では「プネウマ(霊・息)が貧しい」と書かれていまして「霊的に貧しい」(元気のないような人)とか、「息も絶え絶えな、弱っている人」という風にとれるのです。「柔和な人」も英語ではMeekで、「意気地がない人」と訳したほうが良いでしょう。また「悲しむ人」、や「正義のために迫害されるもの」も到底幸せそうには見えません。実に、これらの人は皆、この社会で少数者であったり、抑圧されていたりするものたちを示しているのです。
そして英語ではこの「幸せだ」という言葉はHappyではなくBlessing(祝福)です。神さまからの祝福があなた方にある。という うことなのです。言い換えると迫害されて、おびえ、悲しんでいるような、あなた達には私、神の子イエス・キリストがいるということなのです。
●私は、この度、本当にそうだと感じました。この度の選挙以来、誰が一番不安の中にあるだろうと考えた時に、ハッと、先日隣の教会のミニストリーで出会った近隣のヒスパニック・ラティーノ系のご家族のお顔が浮かびました。様々な事情で不法滞在になっており、公的支援をうけられない家族でした。
私は、そのご家族の事が思い浮かんだとたん、心臓がドキドキ、息苦しくなる思いでした。そして丁度祈祷会をしておられたので駆けつけるとその家族のご主人が日雇いの仕事を求めて行った店の前で取り囲まれて不法移民である事を責められたそうです。また、子どもたちは親と離れ離れになるのではないかと恐怖を抱いていました。
私たちは皆で手を繋いで祈りました。
私は「息の絶え絶えな人は幸いだ」「悲しむものは幸いだ」そのような言葉の意味が本当にわかっていませんでした。でもこの時、あぁここにイエス様が目には見えないけれどもいてくださるんだ、と感じたのです。そしてこのご家族を思うと、不思議と力が湧いてくるように感じたのです。
●幸せという漢字の話をしましたが、昔、幸せとは「仕合せ」とも書いたそうです。互いに仕え合う間柄に幸せがあるんだという風にとれます。
誰が国のリーダーであっても、厳しさや悲しみ、苦しみはこの世からなくなりません。大きな権力のうねりの中で、私たち教会にできることは、今一番弱り悲しんでいる人に寄り添っていくことです。そこにイエス様の慰めと励ましと支えが感じられるのです。そのような、互いに仕え合う中で与えられる本当の幸せを教会は求めていきたいと思います。

2016年 8月21日「あなた方は価値あるもの」

8月21日 主日礼拝説教要旨
「あなた方は価値あるもの」 山本一牧師
マタイによる福音書6章25~34節

●先日読書会をした東田直樹さんの本「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」は自閉症の方の心に触れる事ができて感銘を受けます。その中で東田さんは「物は全て美しさを持っています。僕たちはその美しさを自分の事のように喜ぶことができるのです」と言われました。彼の眼差しの純粋さに心打たれます。同時にそれはイエス様の眼差しを思い起こさせます。
●今日の箇所は「思い悩むな」と表題がつけられた箇所ですが、「空の鳥をみなさい、野の花を見なさい」という有名なイエス様の言葉がここにあります。
この「空の鳥」は可愛い小鳥を思い浮かべるかもしれません。しかしルカ福音書の平行箇所ではこれを「カラス」と記しています。カラスは聖書では多くの場合汚れた鳥として忌み嫌われています。カラスを見よと言われて、恐らく皆、戸惑ったことでしょう。しかしその人々にイエス様はすぐさまそのカラスがどんなに神に愛され、自由に生かされているかを教えたのです。
さらに「野の花」について言えば、ユリの花と訳されてきたこの「クリノン」(ギリシャ語)という言葉も実のところは不明で、「野アザミ」の説もあるのです。棘があり、はびこると厄介ないわば雑草です。「今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる」という表現を見ても、野アザミ説は有力です。ただ、野アザミも嫌われがちな雑草ですが、よく見ればとても美しい花であり、その美しさをイエス様は強調されるのです。 ●つまりこの聖書の箇所が最も伝えたかったことは「天地万物を創られた神様がこの世の全てをごらんになるその眼差し」に他ならないのです。忌み嫌われるカラスや野アザミを見なさいというこの言葉のうちには全ての物に価値と美しさを見いだし、それを喜ばれる神様の眼差しが示されてます。そして、その眼差しはイエス様を通して、当時の人たちに向けられたのです。
イエス様の周りには社会から敬遠されたり、不器用な人、一癖も二癖もあるような人たちが集まっていました。しかし主に希望を置き、必死で生きようとしている、そんな人々に対して、尊さを見出し「あなた方は価値あるものだ」と言われたのです。
●今の時代もこの主の眼差しと言葉を求めています。この世では能力、学歴に価値が置かれます。ここベイエリアでは良い大学に入れず自殺する人も多く、10代の自殺率は全米平均の5倍です。もちろん良い能力や賜物、仕事を追い求める事は良い事です。しかし同時に能力主義の社会の価値観、人々の眼差しに晒されている中で、私達は、存在の深みまで見つめてくれるような温かな眼差しに出会えず苦しんでいます。
●今日の聖書の箇所はイエス様こそが、どこまでも深く人を見つめ、その人の存在自体の美しさと価値を見いだし、それを我が事として喜んでくださる方であることを告げています。その眼差しを覚えていたいのです。今もイエス様は、カラスのようなアザミのような存在の私たちと共にあり、今も「あなたは価値あるものだ」と言ってくださるのです。

2016年 8月14日「重荷を担い、担われること」金澤友幸神学生

8月14日 主日礼拝説教要旨
「重荷を担い、担われること」 金澤友幸神学生
ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
マタイによる福音書11章25~30節

●牧師になるためのインターンシップでここに来て、平日の牧師や信徒の皆さんの活動やお働きに驚きを覚えています。中でも日本に引っ越す内藤さんの引越しをされたお話にそこまでされるとは、と感心しました。
●人生には様々な重荷がありますが、パウロはガラテヤの信徒に「互いの重荷を担いなさい。そうしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」と言いました。キリストの律法とは何か。それは「愛神愛隣」、神と人に対して愛を持って行動する事です。また強制されてでなく心に湧き上がる喜びを持って愛し合う事です。パウロはそのキリストの愛の実践として、互いの重荷を担い合う事を勧めたのです。
しかし、いつも喜びと愛に満たされて行動する事はできません。時に自分の重荷に精一杯で、他の人の重荷まで担えない時があります。そのような人はそれでいいのです。事実、自分の重荷で精一杯の人が他人の重荷を担うことは出来ません。自分の負担が軽い時に、他の人の重荷を担ったらいいのです。
●パウロは5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とも言います。自分の重荷を他人に委ねなさいといいつつ、自分の重荷は自分自身で担うべきであるとは、矛盾しているように思えます。
実は、この二節と五節の“重荷”は原文では違う単語で表され、「互いに~担う」では“バロス”(ギリシャ語)ですごく重く、他者と一緒に運ぶ事が出来るような重荷です。 一方「自分の~担う」に使用されているのは“フォルティオン”で、自分で負うしかない、誰にも代わってもらえない重荷を表すのです。時に、その二つの重荷が同時に私たちを襲うことがあります。
●私は米国に来る前、レポートに追われていました。誰にも代わってもらう事はできません。出発前日にも、まだ課題が出来ず、それに加えて、荷造りもまだでした。そこで、荷造りは家族が助けてくれて、何とかこちらに来る事ができたのです。本当は自分で全てするのが理想ですが・・・。
自分にのしかかる重荷を素直に他の人に伝えること、担ってくださいという事は難しいことです。ただ私の場合のように「家族に」ならお願いできるかもしれません。
ここで皆さんに考えて欲しいのです。教会の人たちはどうでしょうか?パウロは言います「互いに重荷を担いなさい」と。キリストによって神の家族となった私たちだからこそ、担い合える互いの重荷を負い、キリストの愛を実践する者となりたいものです。
●では他方にある、自分で担うしかない重荷はどうか?むしろ、このような重荷にこそ人々は悩まされます。しかし主は言いました。「疲れた者、重荷(フォルティオン)を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストは、自分自身で担うしかない重荷を負い、疲れている者を招かれます。他の人が一緒に担えない重荷であっても、イエス・キリストなら担うことが出来るのです。そのイエスを信じて、重荷の多い人生を共に生きていきましょう。

2016年 5月8日 「I was born」

5月8日 主日礼拝説教要旨
「I was born」 山本一牧師
イザヤ書49章:マタイ12章46-50節


●本日は「母の日」ですが、時に人は「自分を産んでくれてありがとう」と素直に母に言えないような家族環境に置かれる事もあるように思います。幼児虐待や育児ストレスの話も深刻です。自分も時に母と喧嘩し「なんで自分を産んだんや」と心ない、言葉を投げてしまったこともあります。
●吉野弘さんという詩人が「I was born」という詩を書いておられます。
「I Was Born」というのは受身形。つまり人間は皆「生まれさせられるのだ」というのです。確かに母が子を生むのですが、その時期も性別も選べない「出産」という営み自体が人間の意志を超えているという事をこの言葉は示しているのです。
聖書という書物は人は「神によって」生まれさせられるのだと告げています。そこにこそ大きな意味と希望がある事を今日の箇所は告げているのです。
●「主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」と始まる今日のイザヤ書には、神様から特別な使命を受けて生まれた「神の僕」について語られています。これはキリストを預言したものだと言われますが、同時に、この世に生み出される私達もまた、神様を知る時に生きる意味や使命というものを得るのだと教えているように思うのです。
「あなたは私の僕、イスラエル あなたによって私の輝きは現れる」ともあります。イスラエルの民達に、あなたがたは、ただこの世に生みだされるのでもない、尊い神の意志によって、神の輝きをこの世に表すために生み出された存在なんだ、と聖書は告げているのです。これは今の私たち一人一人にも向けられた言葉だと信じたいのです。 ●今日の福音書はマタイによる福音書12章です。イエス様は弟子達を指差し、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われました。イエス様は血のつながりの家族も大切だが、神のみ心を行う、つまり深い愛の輝きを互いに示す、その「愛の関係」こそが家族として大切なのだと示されたのです。
●「おかあさんになるってどんなこと」
(内田麟太郎文,中村悦子絵)という絵本があります。
「母になるとは名前を呼び、手をつなぎ、心配して、涙を流して、抱きしめる事」。可愛いウサギがそれを示しています。
私はここにイエスキリストが示された「愛」が描かれていると思いました。この絵本を読み、私たちの神様がこのように私たちの事を愛してくださっているという事に思いを馳せると同時に、私もこのような愛を持ちつづけたいと願いました。
●今日のイザヤ書にこのような言葉もあります。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」
ここでは神様が母に例えられ、その愛の深さを伝えています。そして「たとえ女達がわすれようとも、わたしはあなたをわすれない」と告げられています。
これは、たとえゆがんだ社会の中で周りの人間にそのような輝きが見られない時があろうと、その神の愛の輝きは直接、神様からあなたがたに臨むのだという希望が語られているのです。
この母の日、何よりも私達を生み出しどんな時にも愛し、またこの愛に欠けた世に神の愛の輝きを示すために用いてくださる神さまをご一緒に覚えたいのです。
 

2016年 4月3日 「思いがけない場所に」 

4月3日 主日礼拝説教要旨
「思いがけない場所に」 山本一牧師
マタイによる福音書15章:21-28節


●今年も東日本復興支援「ジャズカツ」を開催します。私は前回、地域のコミュニティのスタッフの皆さんの熱意に驚きと感動を覚えました。教会の外にこんなにも誠実に、楽しみつつ人に支えようとする方々がおられるんだと、良い刺激を受けたのです。
●福島第一原発事故の責任を問う告訴団の団長の武藤類子さんは、原発事故を省み、こう述べられました。「人類は地球に生きる、ただ1種類の生き物にすぎません。自らの種族の未来を奪う生き物が 他にいるでしょうか。私はこの地球という美しい星と調和した、まっとうな生き物として生きたいです。ささやかでも、エネルギーを大事に使い、工夫に満ちた、豊かで想像的な暮らしを紡いでいきたいです。」
武藤さんは、原発事故以前から森で、なるべく電気に依存しない生活を続けておられました。彼女の言葉「まっとうな生き物として生きたいのです」は、どんな宗教的な言葉よりも、私たちの生きる現実社会に根ざした誠実な叫びだと感じたのです。
聖書の「信仰」という言葉は元々「ひたむきさ、誠実さ」とも訳せる言葉です。時に、教会の外に本当にそういう生き方をしている人たちがある事を知らされます。 実はイエス様もその様な事を経験されました。今日の聖書「カナンの女のお話」です。
●「カナン」とはイスラエル民族がエジプトからモーセに導かれて脱出し、目指したという神さまから与えられる約束の土地です。イスラエル人は原住民であるカナン人たちの後から入植し、これが今なお泥沼化して いるイスラエルとパレスチナとの争いに繋がっています。新約聖書の時代でも、やはりイスラエル(ユダヤ人)とカナン人とはお互いに敵対関係にあったのです。
●一人のカナン人女性が「主よ、私を憐れみ、悪霊に苦しむ娘を助けて欲しい」と叫びながらイエスのもとに出てきました。それに対してイエス様は冷たい言葉を述べます。「子ども達のパンをとって子犬にやってはいけない」(子ども達=神を信じるイスラエル人。子犬=異教の土地にすむカナン人女性)。この言葉はイエス様がこの土地の人に信仰を全く期待していなかったという事を表しています。しかし、その女性が「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言った時にイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」と言われるのです。この日本語訳は少し固く、原文には「おお!」という感嘆詞がついています。「おお!おっかさん、あなたのそのひたむきさはホンマに見上げたもんや!」というところでしょう。この言葉にはイエス様の驚きと感動が現れているのです。
「信仰」は神を信じるユダヤ人の中にだけあると思っていた。しかしそうではなかった。これは、イエス様にとっては嬉しい驚きだったに違いありません。このような驚きが実際にこの福音書が書かれた1世紀の教会にもあり、また今もあるのです。
●教会の宣教は、宝探しです。教会の外に既に本当に誠実に真実を求めて生きようとしている人たち、イエスさまが驚くような人たちが沢山おられるのです。その方々と出会い、連帯し、更に共に良いコミュニティを作っていく教会になりたいと思います。
 

2016年 1月24日 「弱さが必要なのです」

1月24日 主日礼拝説教要旨
「弱さが必要なのです」山本一牧師
マタイによる福音書18章10~14節


●合同メソジスト教会のDonna牧師は事故で脳に障害を負われ、話す事や集中する事などが困難になりましたが、後に絵を描くことを通して言葉にできない呻きや祈りを表現する事を始め、同じく苦難の中にある人に癒しを与える活動を続けておられます。
彼女はDancing with Pain「痛みと共に踊る」という言葉を用い、痛みや弱さ、悲しみを隠すのではなく、素直に表現できる時に最も良い作品が生まれ、自分自身が癒されるという事を仰いました。痛みや弱さをもった自分もを認めていく時に、本当の強さが生まれ、また人を感動させたり、癒したりする事に繋がるのだと知らされます。

●小林富次郎という明治期のクリスチャンは事業に失敗し自殺を決意しました。しかし教会で「全ての重荷を神に委ねよ」という言葉に出会い、心の中の思いを全て神様に向かって吐き出し、自分の無力さ、弱さを認める事で心がスーっと軽くなったと言います。その後、彼は深い信仰と精神を与えられ「ライオン歯磨き」の会社を始め、成功を遂げていくのです。失敗の中、自らの弱さを認める事がへりくだり、委ねる姿勢をもたらし、それが最終的に人の人生を豊かにする事になると彼は証したのです。
キリスト教信仰というのは成功ばかりを尊ぶ姿勢や、強さや力だけを追い求め「強くなければならない!」と気張って生きる事から私達を解放してくれるのです。弱さを持ちながらも、活き活きと生きる事ができる。また逆に強さにおぼれずに謙虚に生き る事へと導かれる。これがキリスト教信仰の神髄です。

●使徒パウロは、私たちはそれぞれ一つのからだのパーツであり、違う働きをしているが「体の中で、ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要だ」と言いました。弱さを通して人と人とが結び合わされ、あのイエスキリストの愛と恵みに触れる事ができるのだと教えているのです。
先日教会で開いた介護についてのセミナーも予想をはるかに超える参加者となり、良い学びと出会いの時となりました。私達人間が持つ弱さや不安、それに寄り添おうとする愛が沢山の人を結びつけたのです。
弱さのないところに、イエス様は必要ないのです。愛も、慰めも、癒しも赦しも起こってこないのです。弱さと共にあのイエス様の愛が生き生きと溢れてくるのです。

●今日の福音書は有名な99匹と1匹の羊の例え話でした。イエス様が仰いました。「飼っている100匹の羊のうち1匹が迷い出たら探しに行かないだろうか」
効率からいうと勝手に迷い出た一匹を探しに行くことは間違いかもしれません。しかし、神様は問題のある迷いでた一匹を愛し、そのために天からイエスさまを送られたのだと教えているのです。
私たち全ての人の中に迷い出るような1匹の羊があるということを思います。自分の中で見たくない部分、闇の部分、誰もがそれを持っているのです。けれども、それが決定的に大切なのだと聖書は告げるのです。なぜならそこに、特別なイエス様の愛が注がれるからです

●わたしは自分が悪い事をした時に親に起こられるという体験も沢山しましたが、ある日、どうしようもない自分を親が抱きしめてくれた経験をしました。その時の事を忘れる事ができません。私たちの信じる神様は本当に駄目な、賭け多い私たちをそのように愛してくださるのです。私たちの中の迷い出た一匹をその弱さを愛し受け止めてくれる神様がある。その事を覚え、私たちもまた自らの弱さを、人の弱さを受け止める事ができればと願います。

 

2016年1月3日 「回り道に主の恵み」

1月3日新年礼拝説教要旨
マタイによる福音書2章1~12
「回り道にも主の恵み」山本一牧師


●日本一長い川「信濃川」は千曲川とも呼ばれます。その名の通り何度も曲がりくねって約230マイルを流れ、多くの土地を潤し、最後に海へと注いでいるのです。この川の長い旅路を思う時に、私たち人間の歩みも同じように思うのです。人生、色んなハプニングが起こり、あっちに曲がり、こっちに曲げられているように思います。しかし、信濃川が曲がり曲がってその土地を潤すように、私たちもまた回り道や失敗を経験する事で成熟した人間となるのです。
●旧約聖書は弱小の遊牧民族アラム人たちが神に導かれ強い国となったことを告げています。ただその後、イスラエルの国は神を忘れ、自らの豊かさに溺れ、国の亡びを招きます。しかしその亡国という最悪の出来事を通して、民はまた変えられたのです。彼らにも曲がりくねった歴史があるのです。彼らが神の民と呼ばれているのは罪がないからではなく、失敗しながらも神様を求めて生きたからに他ならないのです。

●今日の福音書は東方の占星術の学者たち(マギ)が誕生したイエスに会うために旅をし、宝物を捧げ礼拝したという話です。彼らの旅路はどのようなものだったのか?
学者たちは星を頼りに旅をしました。夜にだけ見える星、曇っている日は見えません。もどかしさや、見間違うこともあったでしょう。また、共に旅をする学者の間で議論もあったことでしょう。実際、彼らは道を誤り、一度はヘロデの王宮にたどり着いてしまい、王に「新しい王、救い主が生まれる」と告げたことで、王の不安と怒りを引き起こし、赤ちゃんの大虐殺につながる大惨事を招きました。そのような大失敗もしながら、苦労したからこそ最終的にイエスのいる場所を見つけた時、彼らは 「喜びにあふれた」のでしょう(聖書原文は至上の喜びを表しています)。
彼らは厳しい旅路で自らが限界のある人間である事に気づいたからこそ、憐れみ、赦し、救ってくれる神の子イエスキリストを礼拝したのです。高価な宝を捧げたその姿は、謙虚に神の前で謙り、感謝して、キリストに従う生き方を示しています。そこに、本当に深い喜びと平安があるのだと聖書は告げているのです。この占星術の学者たちもまた、紆余曲折を経てそのような本当の喜び、平安に出会っていったのです。

●新潟の敬和高校の校長であった榎本栄次牧師がこのような言葉を教えてくださいました”川は曲がりながらも”
私は曲がっているのが好きだ 曲がっているほうがいい
そこにはやさしさがあるから 川は曲がりながら大海に入る
あの里この村を潤しながら まっすぐだったら洪水になる
真理だってまっすぐじゃない 曲がりくねって一つのでき事になるのだ

物事がストレート行かないからこそ私たちは祈ることを覚えます。大きな失敗をしてしまうからこそ謙虚にされ、病を負うから弱い人の気持ちが分かり、苦悩して生きる隣人の心がわかるようになるのです。
キリスト教に真理という事があるとするならば、それは決して罪を犯さない完璧な人間になるということではなく、不完全でひねくれて、罪深い、けれども神にすがって生きていくそのような姿を、自分で確かに受け止め、弱い他者をも受け止める事なのです。そこに本当の平安があるのです。

●広隆寺の仏像「弥勒菩薩半跏思惟像」について、カール・ヤスパースという哲学者は「この菩薩の姿こそ人間が達し得る最高の姿」だと絶賛し「しかし、罪ある人でなければ、このような最高の姿、顔にはなれない」と言ったといいます。自らの罪や限界、過ちを深く知る者の美しさがあるのです。それに導くのが聖書です。今年も共に私たちを導く聖書に触れて参りましょう。


2015年11月8日「疑いつつイエスに従う」デビッド・コウ牧師

11月8日 主日礼拝説教要旨
「疑いつつもイエスに従う」デビッドコウ牧師
マタイによる福音書11章2−6節


●私たちは時に、教会学校で学んだ信仰が大人になってもはや機能しないという事に直面する事があります。神さまは良い人にはご褒美をくれ、悪い人を罰すると習いました。しかし大人になるにつれ、良い人々が苦労の人生を歩み、悪いことをしている人々が成功し快適な生活を楽しんでいるように思われるのです。また神さまは祈りを聞き、人々を癒されるとも教わりました。でも私たちの祈りが たとえ心からの祈りであったとしても応えられないことがあるのを私たちは経験します。また、私たちは人生の良いこと全てが神のされる業のおかげだと感謝します。しかし、私たちの人生において起こる悪いことになると、神はなんの咎めもなく、責任をも問われないのでしょうか。こういった全ての質問について思い悩むようになると、おそらく神に祈ることが難しくなるでしょう。
●それらの疑問に対して聖書を読むことで解決を得る事はできないでしょう。聖書を読めば読むほど、より多くの疑問が出てくるかもしれません。「聖書がこう言っている」という方法では、私たちは信仰の再出発をすることはできないのです。そうではなく、イエス様というお方がどういうお方でどのように生きておられるか、そこから私たちの信仰の再出発を始めるべきだと思うのです。往々にして信仰と疑いとは2つの対極にあるものとして考えられます。でも、疑いは信仰の要素なのです。私たちは信じたいから疑うのです。
●今日の聖書箇所では、バプテスマのヨハネがイエス様に自分の弟子を送り、イエス様が自分たちが待ち望んでいる救い主であるかを尋ねました。ヨハネはイエス様が自分たちの宗教の伝統を破るような事をしているので理解に苦しみました。またヨハネに とって「救い主」は世界の支配者であって、人々に罪の悔い改めを求め、悪であるローマ帝国を倒す方だと信じていました。しかし、イエス様はそのどれをも為されませんでした。だから疑問を持ったのです。
しかしイエス様は彼らを叱りつけたわけでも、また「聖書にはこう書いてある」と説得したのでもありませんでした。代わりに、彼らに対しご自身が何をしているのか証人になるように勧められました。そして彼らが見たことをヨハネに報告するように命じられたのです。イエス様は、どのようにしてご自分を通して神が働かれるかを、示されたのです。「もし私を信じられないのならば、私を理解しようとするのではなく、どうやって私を通して神の愛が表されているのかを見なさい」と言われたのでした。イエス様に従うということは、神に関する正しい教義を信じることではなく、イエス様を通して新しい命へと人が変えられていったことを証しする事なのです。
●神は遠い天国におられるのではなく、私たちと共にこの場に生きておられます。空腹の子供たちに食べ物を与えてください。その時あなたは貧しい子供達の目に神の存在をみるでしょう。施設に年老いた方々を訪ねてください。あなたは彼らの孤独な肩に神を見るでしょう。妊娠した10代の女性の話に耳を傾けてください。すると彼女の恐れの中に神の声を聞くでしょう。私たちは今だ、来世あるいは天国というようなことに関して疑いを持っているでしょう。ですがそれらはもはや私たちにとって大して重要なことではないのです。神は、私たちにとって触れて目に見える現実となられたからです。私たちはもう、教義の中ではなく、人の内に存在する神を知っているのです。私たちの周りで困っている隣人に仕えながら、キリストの後をついていきましょう。祝福は、沢山の疑いを持ちながらも信仰の旅を続けていく人に望むのです。
 

2015年 7月26日「神の国はパン種のようなものである」ディビッド・コウ牧師

「神の国はパン種のようなものである」

ディビッド・コウ牧師

マタイによる福音書13:44

先週私たちは、「神の国はパン種のようなものである」ということについて学びました。説教の中で私は、神の国とは「この世が、神の国として造りかえられる」という、イエスのこの世への展望そのものだと指摘しました。神の国とは、神の愛と恵を、私たちが具体的なものとして経験するその時、その場所で存在しているのです。

先週のパン種のたとえ話では、ある女性が台所で、裸足で、パンを焼いていたとき、神の国が存在したということを、私たちは知りました。そして神の国は、誰もがパンを分かち合うことが出来た小さなガリラヤの村の共同キッチンに、存在したのです。 本日は、イエスが話した神の国のたとえ話の続きを読み進めたいと思います。

今日の聖書では、神の国が畑に隠された宝のようであると語られています。重要なことは、「宝」が畑にある点です。それは一般的に理解しやすい事柄だからなのです。毎日人々は、その畑のそばを通り過ぎていきます。幾人かの人々はおそらくすでに宝を目にしていたことでしょう! なぜなら宝はその畑にあったのですから。

この人が、誰かの所有地に宝が埋められるのを発見したか、あるいは価値ある何かを見つけるために金属探知機を持ってきたかなどと想像しない限り、宝が常にその畑の上にあったと想像することの方が合理的です。しかし、人々はそれに気がつかなかったか、それが宝であることを認識しなかったのです。

このように、それが地面の下に、または、茂みの後にあったのではなく、宝は畑に隠されていました。それは、隠されていたのです。なぜなら人々はその宝の価値を知らなかったからであり、人々はその宝に注意を払わなかったからです。

もし私が市場でこの絵を見つけたらどうでしょうか。

 

誰かが通りでこの絵を私に売ろうとするならば、私はこの絵にびた一文も払わないでしょう。しかし、もし私がこの絵の本当の価値を知っていたならば、私はATMに走っていき、すべてのお金を預金口座から引き出して、この絵を買うでしょう。なぜならこの絵は、1億4000万ドル以上の価値があるジャクソン・ポラックの有名な絵の1つだからです!

また、この野球のカードを、礼拝堂で偶然に発見したとするならば、私はおそらくそれをゴミ箱に捨てるでしょう。

 

なぜならわたしはこのカードが、実は2006年に210万ドルもの高価な値で売られたということを知らなかったのですから!このたとえ話において重要なことは、隠された宝は、私たちの日常生活で誰でも目にすることが出来た場所にあったということです。しかし、ただ一人、その価値を知っていた人だけが、それを宝として得ることが出来たのです。

このたとえ話の中で、宝がどこにあったのか、またはその人が宝をどうやって見つけたのかという事柄が大切なのではありません。イエスは、この人がどこで、またはどうやってこの宝を見つけたのかということに全く興味を示していません。そしてイエスは、この人がこの宝を投資して幾らの利益を得ることになったのかということにも興味を持っていません。イエスが賢い投資方法について話を集中させたかったのであれば、イエスは、その人がどうやって投資から利益を得たのかということに言及しなければなりませんでした。

このたとえ話の焦点は、宝が隠されていた畑にもおかれていません。

このたとえ話の焦点は、宝を偶然に見つけたこの人のとった行動であると私は思うのです。この人は、この畑に何か価値あるものがあると分かったときに、それがその人の人生にとって、最高のものであると認識したのです。その宝を手にするために、その人は所有するすべてのものを売って、その畑全部を購入するために全財産を投資したのです。

わたしたちは、予想外に宝を見つける人になり得ます。けれども、全ての人がこの人のように、彼だけに見えていたその宝のために全てを投げ打つ人にはなれないでしょう。

私にとって、グラント・エレメンタリー・スクールとセント・ジェームズパークで行うcom(e)passion ミニストリーは同じです。予想していなかった宝を畑で見つけるようなものなのです。

昨年11月11日に、山本一牧師、Atonと私は、オフィスに座り、私たちの熱い思い(passion)について討議しました。

私たちの会話の間に3人は相通じる一つの事柄を見つけました。私たちは皆コミュニティへと手を伸ばし、困っている人々の援助したいと思っているという事でした。

私たちは、教会の周囲に生きる人々がこの地域共同体(コミュニティ)で私たちの教会によって、幸せと喜びを見いだす、そんな姿を見たいと願っているのです。

その時からどのようにして私たちは私たちの持っているものを分かち合いながらコミュニティを一緒に築いていけるかについて考えてきました。そうして私たちはコミュニティの人口統計を調べました。そして、それは教会の周辺およそ2マイルに制限しました。また私たちは、地域コミュニティで社会的活動に活発に参与していた他の組織を訪問しました。

 研究の結果は私たちを驚かせました。私たちの当初の想定ではウェスレーの近くにはたくさんのアジア系アメリカ人と年配の方々が居るだろういうものでした、なぜならそれらの方々と教会で最もよくお出会いするからです。しかし、驚くべきことにたった20%のアジア系アメリカ人、そして11%の60歳を超えた方々がウェスレーの近くに住んでいるだけだったのです。そして教会から2マイルの範囲に住んでいる66%はヒスパニック・ラテン系アメリカ人だったのです。その多くは若い移住者そして、彼らの中には、低所得で複数の仕事をもつシングルペアレンツもおられるのです。

しかし、問題はこの地域の大部分のソーシャルサービス団体がヒスパニック・ラテン系アメリカ人ではなく、彼ら自身の特定の人種や集団、(日本人、中国人、イタリア人、アフリカ系アメリカ人を含む)に彼らのミッションを集中させているということです。そして、彼らのプログラムの恩恵を受けているのは主にシニアとホームレスなのです。私たちはリサーチの後、若い低所得のヒスパニック・ラテン系アメリカ人と一般的なホームレスの人々のお手伝いをする事に私たちは決めました。そのようにして、グラントスクールのリーディング・プログラムとセント・ジェームズパークのピクニックミニストリーが始まったのです。

グラント・エレメンタリースクールはウェスレー教会からほんの4ブロック離れているだけです。84%の生徒がヒスパニック系という学校です。創立は104年前、ちなみにウェスレーは117年前です。実に、この1世紀の間、これらの2つの組織は並んで日本町の中に存在したのです。しかしグラントとウェスレーは関係を持ちませんでした。この100年の間、教会の誰もグラントスクールが私たちの宣教の範囲でありえると思いませんでした。宝はフィールド(畑)に文字通り隠されていたのです。

今年の2月に私はAtonさんとRoyさんと共に初めて校長のPaulette Zades先生に彼女のオフィスでお会いしました。この最初のミーティングで私たちは彼女の生徒に対する情熱を感じ、またウェスレーからの援助の申し出好意的である事を知りました。私たちの当初の計画は文具を提供するか、学校にクリスマス・ギフト・バッグを送るという事でした、しかし、校長は1歩先を望み、放課後のリーディングプログラムのボランティアができないかと尋ねられました。それは私たちにとって少し背伸びをするような事でしたが、しかし、私たちは信仰をもって飛び込むことに決めました。

 そして、後の話はご存じでしょう、3月から私たちは毎週月、水、木曜日の放課後に本を読むプログラムを担うボランティアを派遣しています。また月に一度の彼らのコミュニティイベントも手伝っています。この夏の間、グラントスクールは私たちの援助を受けて、初めて毎週月曜と水曜日に20〜30人の生徒の夏のリーディングプログラムを提供することができました。今までに、ウェスレー教会からリーディングプログラムに24名、コミュニティーイベントに42名のボランティアを送ることができました。

それだけではなく、この2週間の間に私たちはグラントのためにコピー用紙を集める取り組みをしました。結果、270リーム、27ケースが集まりました!また、エンダウメントファンド委員会は財政的困難のために科学キャンプに行くことができない5年生の生徒に奨学金を提供するための議論を始めました。

グラントの生徒たちが私たちのコミュニティの隠された宝であるということを今、知っているので、ウェスレー教会はグラントのために時間と資源を注いでいます。私たちは、今この地上で神の国を実現しようとしているのです

 セントジェームスパーク ミニストリーも同じです。山本一牧師が後でシェアしてくれますが、私は人々の人生に確かに何かしらの違いを生み出すんだということを言いたいのです。

 既にブライアンの話は以前話しました。ブライアンはホームレスでしたが、私たちは彼と昨年パークで出会いました。ウェスレーの仲間の助けを得て、彼は今ホームレス状態を脱し、完全に自立をしています。彼はフルタイムの仕事をBoston marketでしており、フレズノのpharmacy tech schoolの一年目を丁度終えたところです。

 そして、昨年アパートから追い出されたシンディの家族のお話も聞かれたことでしょう。私たちは彼女と家族のお世話をしてきましたが、今彼女は自分達の住まいを見つけ、バーガーキングの仕事も持つことができました。

そして2週間前、キース牧師が皆さんともう一人のホームレスの男性の話をシェアしてくれました。私たちはパークで彼と出会いました。彼の名前はテッドです。彼はUCLAを卒業しましたが、一年以上ホームレスをしています。彼は今私達のケアを受けており、彼はすぐに仕事と住む場所を見つけ、自立した歩みを始められると思います。

これら全てのことが起こったのも、究極的な宣教の価値を、教会の目覚しい成長にではなく、「人間」に置いてきたからです。

私たちは、グラントで出会う一人ひとりの子ども達やパークで出会うホームレスの方々は、神の眼から見た最高に価値のあるもの、隠された宝だと信じるのです。彼らが神さまの願いに叶った人生を完全に生きるようになるまで、彼らと共に歩む私達の歩みは続くでしょう。

私たちが追い求める最高の価値を持つもの、宝というものがあります。あなたにとっては何でしょうか?全てのものをなげうってもほしいと思う物はなんでしょう?それを見た時に、本当に欲しいと思う何かがありますか?あなたの人生で最高の価値をもつものに全てを捧げたいという思いを持っていますか?

あなたの人生において、どんな宝をあなたが追い求めるにしろ、私はもう一つの宝をあなたのリストの中に加えてほしいと願います。それはコンパッション(苦しむ心に寄り添う事)です。そして、あなたのそのコンパッションの心をグラントの子ども達やセントジェームスパークの仲間、またあなたが毎日出会う人々に向けてください。

私たちはサンノゼの全ての問題を解決することはできないかもしれません。しかし私たちは一つの学校を助ける事ができます。また一人のホームレスの人生を変えることができます。このことが神の国の実現、そしてウェスレーの未来に繋がると思うのです。そして、あなたがその一部を担ってくださる事を心から願っています。 アーメン

 

2015年 1月4日 「夢を見る人」 新年礼拝

1月4日 新年礼拝説教要旨
「夢を見る人」山本一牧師
ルカによる福音書2章13~23節


●私たちは時に人生の岐路に立たされますが、何をするにあたっても万人が賛同するような、納得するような道はありません。そのような中で自分が「これが神から私に示された道だ」と信じ歩めるかどうかが大切です。
私も牧師になるにあたり、沢山の「やめておけ」という声がありました。頼りないメンタルの弱い私を気遣ってくださったのでしょう。けれども葛藤しながら祈り、自分なりに神のみ旨を問い続けて、ここまで来れた事を感謝しています。今日は人生の岐路でどのように道を見出していくのか聖書より考えてみたいのです。


●聖書は度々「夢」で人間に神様のみ心が示されたと告げています。イエスの父ヨセフもその一人です。(マタイ1-2章で4回)。
1度目は、結婚前にマリアが身ごもった時(1:18~)「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」という声を受け、マリアとその子を受け止める決断をしました。それは自分の考え、ユダヤのしきたりを超えた決断でした。
2度目は残忍なヘロデ王がメシアの誕生に恐れを抱き、その子を抹殺しよう動き出した場面です。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ・・・」(13節)エジプトへ降るという事はエジプトの文明、富や魔術に毒される事とされていたので、恐らく周りのユダヤ人たちの非難の声、無理解のもあったでしょう。
そして3度目「起きて・・・イスラエルの地に行きなさい」(19節)。エジプトを出て故郷に戻りなさいというお告げを受けます。ただこの時はまだヘロデと同じく残忍なアルケラオという人物がユダヤ地方を支配していた事を知り行くのを恐れます。そうしてためらっているヨセフに再び夢でお告げが(4度目)ありアルケラオの統治の外であるガリラヤ地方 へ引きこもったということが告げられています。実にマタイは、終始ヨセフが「夢のお告げ」によって導かれたと告げているのです。


●ある人は「ヨセフは寝ていただけで楽やなぁ」と思うかもしれません。しかし、ヨセフは決してただの「夢見る人」ではない。若い妻と命を狙われている赤子を抱えて精一杯生きた「神の御心を探す人」だったのではないかと考えます。最も神様に喜ばれる道、愛する家族を守る道をその時々に自分なりに精一杯考え、決断し行動した人物だと捉えたいのです。その姿を良く現した父ヨセフの絵ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「聖ヨセフの夢」という絵です。

 

ここには、布団で寝ていたのではない、手には聖書を開き自分自身の置かれた状況に対して神様がどう語りかけて下さるのか悩み問い、そうしているうちに、椅子で眠り込んでいた姿が描かれているのです。「神の御心を探す人」ヨセフの姿を良く描き出しています。
「ただ聖書に書いてあるからこうすれば良い」という原理主義ではない、また、「現実がこうだからこうするしかない」という現実主義でもない。聖書の教えと現実の状況の狭間で苦悩し、自分自身が聖書の言葉と格闘し、座ったまま眠りこんでしまうほど祈るなかで、どこまでも「神様の御心を問うていく」そして何かを決断していく、その姿勢が大切だと言うことをこの絵は、ヨセフの姿は私達に教えているのです。そして聖書は、そのような精一杯のヨセフの歩みが祝福され、旧約聖書に預言されている事柄が成就していったのだと語ってるのです。


●また、この絵の天使の顔は、幼子イエスの面影を感じさせるといわれます。それは必死に神の御心を探して生きようとする私達の「精一杯の」考えをイエス様こそがいつもそばで理解し、ねぎらい、支えてくださる。その事を私たちに教えているようです。
この2015年、それぞれに異なる一人一人の歩みをイエスさまがすぐ近くで、理解し、支え、励ましてくださる事を覚えつつ、私たちも歩みを進めてまいりましょう。