フィリピの信徒への手紙

2016年 2月21日「十字架の意味」

2月28日 主日礼拝説教要旨
「十字架の意味」 山本一牧師
フィリピの信徒への手紙3章12節~4章1節


●映画「北のカナリアたち」(湊かなえさん原作2013年)は人間は誰でも生きる中で罪を犯し、人に迷惑をかけてしまうという事、そして同時に人は皆弱さを持っているがゆえに、人を理解し、憐れみ、赦しあい生きていくのだという事を伝えています。20年間罪に苦しむヒロインの小学校の元先生が厳しい父親に「お前は精一杯生きた。もう自分を許してあげなさい」と諭される場面を見て、一番赦すことのできないのは自分自身なのかもしれないと感じました。
●「罪」という言葉は元々、「的を外す」という意味の言葉です。一生懸命的を狙っても時に外れてしまうように、一生懸命正しく生きようとしても、そこから外れてしまう。それが罪という言葉の意味なのです。
今日のフィリピの信徒への手紙を書いた使徒パウロであっても、他の箇所で自分の事を「罪人の中で最たる者だ」と呼んでいます。
彼は、元々は熱心なユダヤ教徒で、誰よりも完璧に生きようとしていたファリサイ派のメンバーでした。しかし後に、どれだけ頑張っても完全にはなれないという事に目を開かれていくのです。そしてその自分の罪を赦すために、イエスキリストが世に来られたのだということに気づくのです。
●今日の聖書の箇所でパウロは「わたしは・・・既に完全な者となっているわけでもありません・・・後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ走るだけだ」と語ります。また「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」とも述べています。パウロは自分の不完全さを認めた上で、常に「今」から、更に前を向いて歩むことが大切だと励ますのです。 ●内村鑑三は札幌農学校の学生時代に洗礼を受けますが、その後も自分の信仰について、また結婚生活で悩みます。そして逃げるように米国に渡ってきた後に大きな心の変化「回心」を経験するのです。当時、アーモスト大学の総長であったシーリーとの間に、有名な「植木鉢の教え」という逸話が残されています。
自分の弱さで家庭は崩壊し、悲惨な現実を抱えながら日本を離れて、アメリカまで逃げ、キリストへの信仰というものが分からず悶々と悩む内村にシーリーは語りました。
「内村、君は自分の内側ばかりを見るからいけない。君は君の外を見なければならない。なぜ自分のことばかり気にする事をやめて、十字架の上で君の罪を贖ってくれたイエスを見ようとしないのか。君のしているのは、こどもが植物を鉢に植えて、その成長を確かめたくて、毎日その根を抜いてみているようなものだ。どうして、それを神と日の光に委ねて、安心して君の成長を待たないのか」
シーリーは私達は皆、成長の途中にある。暖かく全てを照らし包み込む太陽のようなイエスキリストの十字架の贖い、愛に目を注ぎ、それを日々思い、感謝をもって生きる所に、必ずや成長があるのだと告げたのです。
●私達は時になかなか、弱い自分を受け入れ、許すことができません。「歌を忘れたカナリア」のように自分自身に誇りを持てず、自分の弱さや過去に縛られ悶々と生きるときがあるように思います。しかし、そんな私たちに神様は「悔い、悩みつつ、精一杯生きている、そんなあなたを私は赦した。十字架を見なさい、そしてあなたも自分を赦してあげなさい」そう言ってくださるのです。
十字架は神がその愛するひとり子を捧げて私達を赦したその愛と赦しの印なのです。
 

2014年 9月28日 「この人を見よ」

928日 聖日礼拝説教

フィリピの信徒への手紙2章111
「この人を見よ」山本 一牧師

 

「1100年…まだ若く、自由で限りない想像力を持っていた頃、私は世界を変えることを夢見ていた。成長して知恵がつくにつれ、世界が変わることはないだろうということがわかり、視野をやや狭めて、自分の国だけでも変えようと決意した。しかし、それさえも、変化することはないように思えた。晩年になって、最後の必死の試みとして、せめて、私に最も近い存在である家族を変えることで我慢しようとしたが、悲しいかな、それもかなわなかった。 そして今、死の床について、突然、私は気がついた。もし、私が自分自身だけでも変えたなら、それを模範として、家族を変えられたことだろう。そして、彼らのインスピレーションと激励によって、自分の国を改善できたであろう。 そうすれば、ひょっとすると、私は世界をさえ、変えることができたかもしれない。」
  これはウェストミンスター寺院にある英国国教会司教の墓石に刻まれた言葉です。もしも周囲を変えようとするのでなく、自分が変わる事ができたなら、世界をさえ変えられたかもしれないと悔いているメッセージで、なるほど、と思わせられます。ただ私はこの中の「自分自身だけでも変えられたら」という点が一番難しいように思うのです。人間はなかなか変われない、特に「自分から変わる」という事が難しいのです。そして頑なになり、時に人との関係を壊してしまいます。
今日の聖書は、使徒パウロがフィリピの教会の人たちに宛てた手紙です。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心合わせ、思いを一つにして・・・」とパウロは勧めています。どうやらこの教会には分裂があったようです。3節「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりすぐれた者と考え」なさいとありますが、パウロは「教会の一致を妨げる原因」それは「利己心、虚栄心」だと考えています。虚栄心と利己心とは、共に、他人に対して自分の優越を主張する生き方です。つまり、自分こそが神の前に正しく、素晴らしい存在だと主張して生きる生き方です。
「自分こそ正しい、他人の失敗は認めても自分の失敗は認めたくない」私たちは気付かぬうちに、利己心や虚栄心を持っているのです。けれども、それでは教会に、また人と人との間に分裂が起こるとパウロは言うのです。そしてそのような利己心と虚栄心の反対の生き方、「へりくだる」生き方をパウロは勧めるのです。
しかしパウロはただ「へりくだれ」と命令しているのではないのです。続けて「イエス・キリストをしっかりと見なさい」と勧めるのです。「キリストは神の身分でありながら……自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現われ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」 6節~8節)。これは当時よく知られていたキリストを賛美する歌でした。
私たち人間は、なかなか自分の力では変わることができません。そんな私たちに対してこの歌は、またこの歌を引用したパウロは「神様ご自身がまず、私たちのために変わられた、愛の模範となられた」という事を告げているのです。神様は、本当なら罪深い私たちを裁き滅ぼし尽くして良いはずなのに、そうはされなかった。その神様ご自身が自分の栄光を捨ててこの世に生まれ、人の姿となり、全き愛を生涯、そしてあの十字架で示してくださったのです。
そのイエスキリストの姿をしっかりと見据える事、それが自己中心的な生き方から神様や他者へと心を向ける人生へと、私たちを変えてくれる始まりだと聖書は告げているのです。
聖書はいつも「始まりは神様だ」という事を告げています。この世の始まりは神様。神様がまず私たち愛して下さったから私たちも愛していくことができる。神の赦しがあり、私たちも赦し合う。そのようにして私たちは導かれていくのです。今日の箇所でパウロは決してイエス様の正しい倫理的な行いの真似をしろというのではありません。神の一人子であるキリスト・イエスの生涯に示された「父なる神様のあなたへの愛」をただ、しっかり見据えなさいと言っているのです。それが全ての者を愛と喜びで満たし、違いが有りながらも皆を一つにしていく第一歩だと勧めているのです。
最初にある司教の言葉の最後に私はこの一文を付け加えたいと思うのです。
「一番初めに変わられたのは神様だった。その愛を知っていたら、私自身も変れられたかもしれない」