特別礼拝(ゲスト)

2015年11月8日「疑いつつイエスに従う」デビッド・コウ牧師

11月8日 主日礼拝説教要旨
「疑いつつもイエスに従う」デビッドコウ牧師
マタイによる福音書11章2−6節


●私たちは時に、教会学校で学んだ信仰が大人になってもはや機能しないという事に直面する事があります。神さまは良い人にはご褒美をくれ、悪い人を罰すると習いました。しかし大人になるにつれ、良い人々が苦労の人生を歩み、悪いことをしている人々が成功し快適な生活を楽しんでいるように思われるのです。また神さまは祈りを聞き、人々を癒されるとも教わりました。でも私たちの祈りが たとえ心からの祈りであったとしても応えられないことがあるのを私たちは経験します。また、私たちは人生の良いこと全てが神のされる業のおかげだと感謝します。しかし、私たちの人生において起こる悪いことになると、神はなんの咎めもなく、責任をも問われないのでしょうか。こういった全ての質問について思い悩むようになると、おそらく神に祈ることが難しくなるでしょう。
●それらの疑問に対して聖書を読むことで解決を得る事はできないでしょう。聖書を読めば読むほど、より多くの疑問が出てくるかもしれません。「聖書がこう言っている」という方法では、私たちは信仰の再出発をすることはできないのです。そうではなく、イエス様というお方がどういうお方でどのように生きておられるか、そこから私たちの信仰の再出発を始めるべきだと思うのです。往々にして信仰と疑いとは2つの対極にあるものとして考えられます。でも、疑いは信仰の要素なのです。私たちは信じたいから疑うのです。
●今日の聖書箇所では、バプテスマのヨハネがイエス様に自分の弟子を送り、イエス様が自分たちが待ち望んでいる救い主であるかを尋ねました。ヨハネはイエス様が自分たちの宗教の伝統を破るような事をしているので理解に苦しみました。またヨハネに とって「救い主」は世界の支配者であって、人々に罪の悔い改めを求め、悪であるローマ帝国を倒す方だと信じていました。しかし、イエス様はそのどれをも為されませんでした。だから疑問を持ったのです。
しかしイエス様は彼らを叱りつけたわけでも、また「聖書にはこう書いてある」と説得したのでもありませんでした。代わりに、彼らに対しご自身が何をしているのか証人になるように勧められました。そして彼らが見たことをヨハネに報告するように命じられたのです。イエス様は、どのようにしてご自分を通して神が働かれるかを、示されたのです。「もし私を信じられないのならば、私を理解しようとするのではなく、どうやって私を通して神の愛が表されているのかを見なさい」と言われたのでした。イエス様に従うということは、神に関する正しい教義を信じることではなく、イエス様を通して新しい命へと人が変えられていったことを証しする事なのです。
●神は遠い天国におられるのではなく、私たちと共にこの場に生きておられます。空腹の子供たちに食べ物を与えてください。その時あなたは貧しい子供達の目に神の存在をみるでしょう。施設に年老いた方々を訪ねてください。あなたは彼らの孤独な肩に神を見るでしょう。妊娠した10代の女性の話に耳を傾けてください。すると彼女の恐れの中に神の声を聞くでしょう。私たちは今だ、来世あるいは天国というようなことに関して疑いを持っているでしょう。ですがそれらはもはや私たちにとって大して重要なことではないのです。神は、私たちにとって触れて目に見える現実となられたからです。私たちはもう、教義の中ではなく、人の内に存在する神を知っているのです。私たちの周りで困っている隣人に仕えながら、キリストの後をついていきましょう。祝福は、沢山の疑いを持ちながらも信仰の旅を続けていく人に望むのです。
 

2015年 8月2日 「信じる心の大胆さ」 深田未来生牧師

82日主日礼拝説教要旨

「信じる心の大胆さ」深田未来生

ヨハネによる福音書4115

強い太陽の日差しがすべてをからからに乾かしてしまうようなパレスチナの気候はカルフォルニアの気候に合い通じるものがあるといわれている。湿度の高い京都の夏の暑さに半世紀にわたって耐えてきた人間にとってパレスチナの天候はきっと一種の快適さを与えてくれるものだろう。そのような環境では異常と思えるほど喉が渇くことがある。ひたすら喉を潤す水を喘ぎ求める気持ちを持つ。その水が私たちが当たり前のように思っている日本の水道の水のように「上等」でなくても私たちは改めて水を有難く思う。

イエスは弟子たちを連れて歩いておられた。散歩ではない。イエスに使命を与えた神の働きを一番必要としている人々に、その働きを明らかにするための歩みであった。人間は変えられる、善が悪を征して神の愛が人々の冷たい心を熱くする日は来るとアッピールする歩みであった。

時はお昼時。すでに温度は高く、日差しが強くなり始めていたころにイエスと一行は由緒ある「ヤコブの井戸」のあたりに到着していた。弟子たちが食料を仕入れに近くのシカル村に出かけている間、イエスは井戸端で休んでおられた。そこに現れたのは地元の女性、サマリアの女であった。歴史の不幸はユダヤ人とサマリア人を長く引き裂いてきただけに井戸端には何か冷ややかな空気が流れたに違いない。緊張は女性の方が強かったであろう。彼女は通常女性たちが水を汲みに来る時間帯から外れてやってきたのである。女性を目にしてイエスが声をかける。「水を汲んで下さいませんか」と。女性は戸惑ったであろう。身を翻して村へ帰るか、黙って水がめを満たして去って行っても良かったであろう。しかし、彼女はイエスに答える。「あなたはユダヤ人なのにこのサマリアの女に水を欲しいと頼むのですか」。少々突っかかるようにも聞こえる。しかし聖書を読み進めるとこの女性の言葉から2人に間には深い会話が成り立ってゆくのが分かる。そして彼女の発言は唐突にすら聞こえながらも大胆に聞こえ始めるのである。2人の対話はお互いに単刀直入、まっすぐに心の奥底に触れながら進展して行く。女性は自らのうちに戸惑いが薄れ、イエスの言葉が魂の奥底にしみ込んで行き、自分が清められてゆく感動を体験したに違いない。からからに渇いた喉を冷たい水が通る時の半分痛いような、半分心地よい気持ちを抱いたのであろう。

イエスは命の水について語る。井戸の水では癒すことの出来ない渇きを取り除き、魂を洗い清め、傷を癒し、新しい活力を与える水についてであった。その水は飲んだ人のうちで泉となりこんこんと湧き続ける永遠の命の水だとイエスは言う。

井戸端の女性はもうじっとしていられない変革が自分のうちに起こっているのを体験する。彼女を更に大胆にしたのはこの魂が揺さぶられる体験であった。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」あつかましいお願いでありながら、心からの真実な願いであった。魂の目覚めの瞬間の言葉だったといってよい。彼女は水がめを置いたまま、飛ぶように町へ帰ってゆく。日常的に人々の冷たい眼差しにさらされていたこの女性は、大胆な行動に出る。「私が出会ったユダヤの男性は私の過去を見通していた。この人はメシヤかもしれません」と語るのである。魂の目覚めと変革はこの彼女の大胆な言葉から町の人々が直接イエスの言葉を聞こうと井戸端へと出かけてゆくときに始まりかけていたのである。