合同礼拝(ゲスト)

2015年 1月25日 「A Call Worthy of Our Life」 キラさん

Fishers of Men: A Call Worthy of Our Life

人をとる漁師:価値ある人生への招き

Mark 1:14-20

マルコによる福音書1章14節~20

ウェスレー教会の皆様おはようございます!ご存じとおもいますが、私はサルディーアザムで ブエナヴィスタUMCの教会員です。ご存じの方も ご存じ無い方もいらっしゃると思いますが、私は去年5月17日に当教会でわたくしのパートナー、ニッキー、と結婚しました。わたくし達の愛と互いに責務をおうことを家族や友人の前でこの聖壇のある場で誓うことが与えられました。

本当に感謝申し上げます。この聖なる場所をわたくし達のために開いて下さった皆様の優しさ、寛大さー思いやりの深さを感謝申し上げます。

わたくし達が祝う事を当教会許して下さったという事を 軽くは考えることはできません。わたくし達は自分達が分け合う愛は神よりの愛にひけをとらないと思っておりますが この愛をわたくし達自身の牧師により合同メソジスト教会の中で人々に見守らて祝う事が出来たという事はわたくし達にとって大変重い意味を持ちます。 ご存じと思いますが 合同メソジスト教会の規律ははっきりと同性同士の結婚を司どることはもちろん、その敷地内で式をあげることをも禁じているからです。 と同時にわたくし達はこれは根本においてキリストの教え 及び その信仰を損なう規則であるという事であるとも認識しています。 この忌わしい信仰解釈の結果 多くの信者がキリスト教教会から、合同メソジスト教会をも含め、離れていきました。多くのほかの抑圧されたコミュニティーとは異なり LGBTQのコミュニティーは逃れの場と安らぎの聖なる場を見つけることが出来ました。

それですから、 リコンサイル教会であるということは同性の結婚を司るという事以上の意味を持つものです。リコンサイルという言葉は調和を取り戻すという意味を持ちます。なぜこの事がリコンサイル教会にとって大切というと リコンサイルのメソジスト教会の宣教活動は心して癒しと回復を 抑圧されたり、抑圧した人々にあたえる宣教活動をする教会だからです。

そこには 教会が 組織として 性的指向が故に多くの人々を疎外し 害を与え 深い痛みを与えたという 認識があるからです。しかしながら、リコンサイル教会は抑圧された者 抑圧した者 双方のための 癒しを求めているからです。何故なら 全ての人々の人格を認める事こそ全き世への働きとなり、暴力的なサイクルを抑えことになるからです。そしてこうしたことは、 兄弟姉妹の皆様、自由となることなのです。信仰をもつ者として教えを述べ伝えるべく召されている者として 神の愛に忠実な者として解き放たれる事なのです。これこそが 愛の上に築かれたUMCメソジスト教会コミュニティーに存在する自由なのです。

 

問題はただ”受け入れてくれる”場所という意味より以上のものです。リコンサイルとはLGBTQのコミュニティーのために沢山することがあるという事を認識しなければなりません。 わたくし達すべてが LGBTQに関することは 結婚を認めるという事のみだけに留まらないことを認めなければなりません。 教会の中心事項は人々が何を必要としているか、コミュニティーの関心は何かという事に焦点を当てなければならないからです。残念ながら、わたくし達は誰が自分達の側かという問題ばかり考え本当にわたくし達信仰を持つ者が持たねばならぬ問題を忘れてしまいます。

時々わたくし達はLGBTQのコミュニティーが本当に必要とし、 されて召されている事 問題を提起し健康管理をし、 移民法 性転換を透明化し、 ホームレスの問題と取くみ、差別に起因する暴力など たくさんの問題があります。

わたくし達 一人一人、全ての者が、呼びかけられています。

イエスのお弟子たちがイエスご自身によって召されたように、わたくし達一人一人が神より召命されているのです。

召命は単に牧師や教会で働く人々のみに起こることではありません。 神はわたくし達一人一人に呼びかけられています。 そして、今わたくし達が新年を迎えているように、そのことは何を意味しているのか考えなければなりません。

ちょうど一ヶ月前に、私たちはキリストの誕生をお祝いしました。神の御子が人間となり、この地上で私たちと共にいてくださることを祝ったのです。そして今日、先ほど読まれた聖書のみことばの中でイエス様が宣教を始められたように、私たちもイエス様と共に新たな旅へと歩みだすのです。 イエス様は、シモンとアンドリューに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とおっしゃいました。すると、彼らはすぐに網を捨ておいて従ったとマルコは強調しています。間もなくイエス様は、船の中で網を繕っていたヤコブとヨハネにも声をかけられました。この二人も自分たちの父ゼベタイと雇い人たちを一緒に船に残して、イエス様に従ったのです。なぜ、シモンとアンドリュー、そしてヤコブとヨハネはイエス様に従うために全てを置いて立ち去ったのでしょう?

イエス様の4人の弟子たちは大変な世界で生きていました。ユダヤ人が自由を切望する時、ローマ帝国の搾取という無慈悲な現実に直面しなくてはならなかったのです。彼らは土地を失い、子供たちは仕事や生き延びる道を求めて散り散りとなり、しばしば貧しさのあまりに奴隷とならざるを得なかったのです。伝統的な家庭や村の組織は、多大な文化的または経済的ストレスで粉々にされてしまいました。イエス様の生きていた時代は、本当にわずかな一握りの人々が絶大な富を持って生活している一方で、数えることのできない大多数の人々は極貧にあえいでいたのです。この現実は、漁をしていたシモンやアンドリューにも影響し、またヤコブやヨハネも自分たちの網を繕いながらそれを感じていたのです。

人が、それまでの慣れ親しんだ生活から新しい生き方をするように変わるきっかけとなる動機はたくさんあると思います。弟子たちは、彼らの生活を放棄したわけではなく、単に彼らが生きるのにふさわしい召命に答えたのです。置かれていたところでの社会的不法に立ち向かうために、彼らの網を広く投げ打ったのです。

 私たちが求められている宣教奉仕について思いをはせる時、神は私たちの人生に、私が生きるのに価する神の召しについて、どのように話しかけられるのでしょうか?私たちが命を捧げるようにと呼びかけられていることは、一体なんでしょうか?

私は、一年のうち、この冬の時期が嫌いでした。南カルフォルニアでは、この時期、最も寒くなり、私の家庭内では、誰かが病気になったり、時には喧嘩したりと、常に悲しさが漂っていた感じでした。そして、私が高校生だった時の数年間は、毎年ホリデーシーズン前後に誰かが亡くなったように思います。それがとても嫌でした。だから冬が来るのがとても恐ろしかったのです。年の終わりが来るのが恐ろしく、いつも新年が来るのを不安げに待っていたものです。

私は新しい年の始まりが、より良いことを、さらに満足すべきことをもたらしてくれるように祈りました。そしてホリデーシーズンをただ乗り切るように懸命の思いだったのです。 

2006年の1月に、私と最も近い関係にあった祖母が亡くなりました。ですから、一年のこの時期には、私はよく祖母のことを考え、彼女の人生を振り返ります。先日、私がPSRに通ったことを祖母がどう思うだろうかと考えて、一人で笑ってしまいました。そうなのです、去年、私はチェンジメーカー・プログラムというPSRのプログラムに参加しました。それは、社会問題に関わる民間人を対象にした1年間の神学校での学びでした。 私にとって祖母は、自分の知る限り最も敬虔な人でした。いつも聖書を読み、神の教えによって生活し、私にも常に同じようにしなさいと熱心に勧めたものでした。そして、私といえば、クリスチャンスクールで育ったものの、神の教えに従って自分の人生を生きるという考えに、猛烈に背いていたのです。

しかし、祖母が死んだ時、私は苦しみました。いったい神はどういうお方で、なぜ私は彼を褒め称えなくてはならないのか、なぜ私にこれほどに痛みを味あわせることをお許しになる神の教えというものによって生きなくてはならないのか、理解に苦しみました。どのようにして私の網を下ろしてイエス様に従ったらいいのか、わかりませんでした。目的もわからないし、何か聖なるものに対する信仰というものもありませんでした。神に仕えるのに価する人生というものを概念として捉えることができませんでした。

その後、2007年に私はデイリーシティーに引っ越し、サンフランシスコ州立大学(SFSU)へと転入しました。そして、私はその時、神の召し(召命)を受けたのです。私はSFSUのエキュメニカル・ハウスで、定期的に聖書の学びに参加していました。そこで牧師先生から、フィリピンで起こった政治的大虐殺について何か知っていることや私の家族がそれによってどのような影響を受けたかを尋ねられたのです。私は政治的風潮についてはどこの国のことであっても全く知識がなく、フィリピンの事にも関心がなかったのです。

しかし、私は自分の母のところへ行き、自分なりにリサーチをし、フィリピンで人権問題のために働いていたUMCの人々「フィリピン連帯対策本部」と連絡を取りました。そして、結論をいうと、私は、2008年に起こった政治的虐殺を非難する決議案を書き、ワシントンDCで行われた学生協議会でそれが可決されたのです。その後まもなく、私はフィリピンに行き、迫害されている人々の解放運動のために献身することになったのです。

私は、心の準備が出来ていませんでした。本当に、想像もしていなかったのです。何が起こるか知る由もありませんでした。でも、私は出て行ったのです。

 

イエスの弟子たちが、召し出され、世へと出て行ったように、私たちは時々決断を迫られるような瞬間に直面します。

 私たちは何がよい行いかを決断しなければなりません。そして時としてそれは他のどんな時よりも辛い時になります。時としてその道ははっきりとしません。また時としてそこから逃げるボートも、人間をとる漁師にしてあげようと招くイエスもありません。しかし、神が臨在されるその時その時があるのです。

神の子イエスキリスト、その象徴は人の姿に神の啓示がある事を示しています。天と地、これら一見すると全く対極にあるものが、私たちに信仰を生み出す余地を与えるのです。

ある人は、イエスの人生こそがこの世の領域に現された神の存在であると言うかもしれません。

この場合、私たちは私たちの間に生きたこの人物から何を学ぶのでしょう?

 その聖なる臨在をどこにでも見いだすことができ、また、私たち皆のただ中ににおられる神は今ある場所といつか来る場所の間にあるスペースが神聖であるということを証明しているのです。つまり私たちが存在し、人生を送っているこの場所は聖なる場所なのです。

そして、私たちが生きるこの人生は孤独でないという事を思い出してください。誰もが不義に直面します。ある人は、他の人よりもより多く。不義に直面しなければいけない間、その最悪の事態の中で、不義を経験する他の人々の解放と私たち一人ひとりの解放は結びついているのだと理解しなければなりません。もしも私たちの世界が、コミュニティが家庭が脅かされるならば、私たちは皆それに応えなければなりません。

聖なる場所を提供し、霊的な家であり、コミュニティを構築し、多くの人への神の愛の源である教会は、また同時に植民地化のための道具として使われ、人々を遠ざけるための道具として用いられる事によって痛みと苦しみの源ともなってきました。

 しかし、覚えておかなければならないものは、聖書は人間によってまとめられた本であるということです。教会は、人間の概念です。

そこに神聖さがあるということも疑いがありません。しかし、それらは私たちが神聖化するがゆえに神聖なのです。それらは私たちが完全ではないように、完全ではありません。私たちに欠けがあるので、それらにもやはり欠けがあるのです。

 

霊は私たち一人一人に根ざしていて、この地上の領域に根ざしています。わたしたちがこの人生を生きる上での成長の為にその領域を提供しているのです。そして、霊は私たちから決して消え去ることはないということを知ることに安らぎがあり、あなたを包む愛が常にあるのです。また、私たちが過去から未来へと築き上げていく成長の段階と同じ領域にそれはあるのです。

わたしたちが人生の中で困難な経験、または失敗の経験を持つとき、それはわたしたちの人生にとって変換の意味をもたらすかもしれません。さらに、これらの段階は、わたしという存在が一体何者であるか、またわたしのアイデンティティーを定めるためのものではなく、反対に、神の存在を見いだすことが出来る「間」という領域を加えることができるのです。

神の愛を信じることが出来ない私たちたちとは、一体誰ですか? もし愛に包まれたコミュニティの現実を信じる事が出来ないとすれば、私達たちは一体何者でしょうか?これは、私たち全体に呼びかけられた召命です。わたしたちは召された宣教の為に出かけ、わたしたちのこの価値ある人生に語られた神の言葉に耳を傾けようではありませんか。

生まれ変わる決意をもって行動しましょう。そして、神がそこにおられる事を覚え、平安でありましょう。神はいつもあなたのそばにいてくださいます。神はあなたのすぐ隣りにいつもいて下さるのです。

2014年 10月26日 「お金ではないのです!」 リチャード コルソン牧師

 

 説教題「お金ではないのです」

リチャード コルソン

2014年10月26日

※英文を日本語訳しております。(山本一)

 キース牧師とスチュアードシップ委員会から今週の特別な日曜日に説教をしてほしいと頼まれた時、私はためらいました。スペインとポルトガルでほぼ3週間を過ごした後のことなので、どれくらい時差ぼけしているか、あるいは混乱しているかわからなかったからです。

 しかしながら、彼らはそのリスクを引き受けることを厭いませんでした。それで私がここにいるのです。

 幸いここにいて、説教、クラス、人々の証を含めた、極めて包括的なスチュアードシップのシリーズに微力ながら貢献できる機会を与えられたことに感謝しています。皆さんはこの一連の学びを通して、スチュアードシップとは、ただ単に金銭的なことを示すのではないことに気づかされていることと思います。実にそれは、その人がどのように生きるかということなのです!

 ある暑い夏の日のことでした。6歳半の孫娘アシュリーと近所に住む友だち2人が売店を建ててレモネードを売ることに決めました。

彼女たちはすぐにでも売り始めたかったのですが、私の娘は、仕事から戻って来る人や近くの公園に遊ぶために来る人々で人の行き来が最大になる夕方5時くらいまで待つように提案しました。彼女の意見を受け入れ、3人の少女は、その後の2時間をレモネードを準備して、看板をつくり、販売にふさわしい衣装を見つけることに費やしました。

とうとう5時のちょっと前にお店をスタートしました。レモネード 一杯5ドル いやそれ以下でも」と看板には書いてありました。

彼女たちは、可能性のあるお客さんには「1セントでもいいし、ただでもいいわ」と言ったことでしょう。

そのようなうさんくさいマーケティング戦略で、結局のところこれに携わった人たちは、少女たちが57ドルを儲けたのを知って驚きました。

娘が彼女たちに商売の大成功ついてお祝いのことばをかけた時、幼いアシュリーは忘れられない言葉で応えました。

「でもね、ママ(大切なのは)お金じやないのよ。それは、私たちのお客さんたちよ!   ( “Mommy, it’s not about the money.  It’s about our customers!”)

「お客さんを大切にするのよ」と、アシュリーは言います。サービスを受ける人、近所に住む人、同じ教会に通う人々、子どもたちや青年、ホームレスや名前も知らない人々、失われたものと、見出だされたものを大切にしてください。そうすればあなたは成功するでしょう。必要が満たされる時、心に触れられるとき、人生が変わる時に人々は応えるでしょう。そして、その事が起こる時に、お金は心から、そして財布からついて来るのです。

「ママ、お金じやないのよ。お客さんたちよ!」

例をあげましょう。 ギルバートと彼の兄弟たちは、テキサス、アリゾナ、カリフォルニアの畑や果樹園で出稼ぎ労働をしていましたが、その仕事を解雇されてしまいました。

貧しさがいつもついてまわっていました。タンブルウィード(塊となった枯れ草)をクリスマスツリーにするしかないほどでした。

 しかし、ある程度教育を受けることが出来たのと、兵役の期間もあって、結局、チャベス家の全員がベーカーズフィールドに定住しました。そこで彼らは私が6年間働いた教会の活発なメンバーになりました。彼らは牧師館の近くに住んだので、私もしばしば彼らの家に立ち寄りました。

ある午後のこと、私は兄弟の中で一番年下であるギルバートが妻アルビサとキッチンに座っているのを見つけたのを覚えています。彼はちょうど仕事から帰ったところで、私たちは一緒にテーブルにつき、コーン・トルティーヤ、米と豆をいただきながら、しばらくの間過ごしまし

 そして最後に、私たちがちょうど与えるということに重点を置いている時期だったということもあり、彼らの惜しみない教会への支援について感謝の言葉を述べた後、若くていい言い回しを知らなかった私は単刀直入に尋ねました。彼らがどのように一人の稼ぎ手で5人の子どもを育てながら郵政事業の決して多くない収入で住宅ローンも含めて上手くやりくりしているのか。

ギルバートは少しの間、静かに座っていましたが、やがてこう言いました。「私は自分たちがどのようにやりくり(hermano)しているのか、正直説明することができません。確かに時々難しいこともあります。そして月末にはArroz、インゲン豆、トルティーヤしか残っていません。神さまが信仰的な一家の主であるので私たちはいつでもやっていけると信じています。ときには大変で、月の終わりにかろうじて残った食料が米と豆、トルティーヤだけどいうこともあります。けれどもなんとかやっていけます。今でもそうであったし、これからもやっていけると信じています。神様は約束を守られる私たちの養い手だからです。

 そして私たちは、主が約束なさったことを成し遂げらえるのだということを確信し始めて以来ずっと、月の最初の日に家族でこのテーブルに座り、感謝の祈りをし、教会へのチェックを書くことに決めたのです。聖書が伝える通りに何よりも先にそれをするのです。そして、そうしている限り、私たちは祝福されています。

私たちは主を愛しています。私たちは教会を愛しています。私たちはあなたとボビーを愛しています。だから私たちはそれを優先し、そこに価値を置いているのです。」

ボビーと私が、長年にわたって、結婚前のまたはリレーションシップ・カウンセリングをしていた時に私たちはいつも価値感について話をしました。そして人々が何に価値を置いているのかわからず苦労している時に、きまってこう言って促しました。「そうですか。それなら、あなたの小切手帳とカレンダーを見せてください。そうしたら私はあなたにあなたが価値を置いているものをおしらせしましょう」

私は、ギルバートとアルビサが何に価値を置いたか、そして、それはなぜなのかがわかっています。

私はまた彼らが時間と宝を使って何をしたのかも知っています。あなたはどうですか?

「あなたの小切手帳とカレンダーを見せてください。そうしたら私があなたが価値を置いているものをおしらせしましょう」

これが私が今朝皆さんに考えてもらいたい事の一つ目です。

 

二つ目はこれです。

あなたが小切手帳とカレンダーを調べるとき、その人のもっている価値感だけでなく、その人の持つ信仰についても多くを教えられるといことを発見するのです。なぜなら、私たちが自分の時間や能力そして富についてどう捉え、どのように管理するかということは、私たちが賛美や祈り、説教の中で宣言している神さま、いつもこの世界と私たちの人生において驚きと共感と寛大さを示して働かれる神さまへの信仰や理解、その神様と自分との関係を表すことなのです。 このことを、それを理解しがたい時でも私は信じています。あなたはどうですか?

数年前、私の友人が、「欠乏の世界にあって寛大さを実行すること」という題で説教をしました。それは良い説教でした、あらゆる点で素晴らしいものでした。そのタイトル以外はです。その時に私はタイトルに文句をつけました、そして今もです。理由は、私は欠乏の世界に住んでいると思っていないからです。 私たちは確実に満ち足りた世界に住んでいると思っています。そして不足していると決めつける事が危険であり、コミュニティ、そして、人間の精神を破壊することになると私は思っています。

なぜなら、私たちが不足の世界に住んでいるという決めつけは、私たちを不安で満たし、個人主義的、競争的に振る舞うように促し、また分かち合うことに反して貯め込み、そしてまた逆に原油、水、パンなど、供給されるすべてのものはなんでも、分かち合う前になくなってしまうかのように、節約することに反して浪費することに人を駆り立てるからです。

そして、それは危険です。また、悪い神学でもあります

今私は、ここにいる皆さんと同じく気づいていると思っています。宇宙のその言い表せない豊かさー食物、水、富、土地は公平な仕方で共有されていません。紛争多発地帯で、疫病蔓延地域、飢饉に荒らされた土地、貪欲な世界において。しかし、それはいったい誰の責任なのでしょう?

大きな分裂が私たちの間にあります。先進国と第3世界の間に、守衛とコンピュータープログラマー、中間管理職とCEOに線がひかれ、市場でも女性と男性に線をひきます。

これは神さまの責任でしょうか、それとも私たちの責任でしょうか

 私は聖書を読んで、神は終始一貫して憐れみと寛大さで私たちを助け導いてくださる方であることを見出します。

皆さんが大好きな詩篇23篇について考えてください。そこでは詩人は神さまは私たちに必要とするものを与えたいと望んでおられるのだと私たちに保証しています。傷のための油、渇きのための水、飢えのためのパン、良いもの、慈悲、交わりと豊かな命。

   主は我が牧者なり、我乏しきことあらじ

それでもしばしば、天と地球をこんなに見事に創り、こんなに深く私たちを愛してくださる神さまも、しばしば我々に与えることができません。なぜなら私たちの手と心が他のもので一杯だからです:沢山の物を持っていますが、それだけでなく、恐れと失敗、疑いと悲しみ、古い心の傷、古ぼけた秘密、悪意、妬みと貪欲も。

その結果、天の恵みのためのほとんど場所が、ありません。どうしたら良いのでしょう?

あなたが何に価値を置くか明確にしてください。どのくらいが充分なのかを自分で知ってください。そして、あなたがコミュニティ、教会と神の国のような永遠のものに投資することができるように、いくらかの物を手放してください。

豊かな世界で、寛大さを実行してください!この世は不足してはいないのです。

豊かな世界なのです!

私は先ほど読まれた今朝の聖書箇所が大好きです。その中で、私たちは初代教会がどのようにして、聖書の影響のもとで、カメロット・モーメント(その輝かしい最高潮の時)の間、全員が持つもの全てをそのコミュニティに捧げるという徹底的な施しのような事を実践していたのかを聞きました。世界を完全にひっくり返すことを目指して努力する、注目すべき最初のステップが、任意の割合ではなく、全てを捧げることなのです。

 現代はどんな動機であれ地方自治主義は長続きしません。しかしいまだそのメッセージの妥当性はばかにできません。人々は恵まれて自由に、そして、喜んで分かち合う時に-物事は変わり、人生が変わり、そして世界が変わります。これがみなさんに覚えていただきたい3つ目の事柄です。

私たちのような人間が寛大に振る舞う時に物事は変わり、人は変わります、そして、世界は変わります。

憐れみと寛大さが記録され本となり続けて同じタイトル「The Blind Side」(しあわせの隠れ場所)で映画化されたテューイファミリーのことを覚えています。

物語を知らない方のために紹介しましょう。

 リー・アン・テューイ(オスカーを獲得したサンドラ・ブロックが演じた)は、マイケル(ビッグマイケルと呼ばれる)大きな、簡素な服装の、成績の悪い、孤独な男の子に学校から家までの送迎申し出ます、しかしマイケルは本当の家を持っていないのです。

実際、彼は、麻薬におぼれている母の13人の子どもたちのうちの1人でした。彼は、本当の名前、父親、誕生日、そして読み書きを知りませんでした。

ですので、送迎だけの申し出はいつしかテューイ家のソファーで夜を過ごすようにとの誘いに変わりました。そして徐々にテューイ家の家族は彼をかくまい、食事を与え、服を与え、家族の一員として援助をし、助けるようになったのです。

6年後、マイケルは、ミシシッピ大学において群を抜く大きさと速さと機敏さをそなえた全米で活躍するレフトタックルとなり、ボルチモア・レイブンスによってドラフト1位で1300万ドルの契約で引き抜かれました、そして彼はスターティングオフェンシブラインとしてマイケルを用いたのです。

マイケル・オーラ-はかなり控え目で、彼の驚くべき成功と幸運にもかかわらず気取らなくて、、彼のコミュニティの中で、自分のように困った子供を助けることでお返しをしている幸せな青年です。

福音的なクリスチャン家族のテューイ家は、「ためらわず:喜んで与える力をシェアすること」というタイトルの本を書きました

彼らは何か新しい事を言ったわけではありません、けれども彼はそうしたがために、そのメッセージは本当らしく聞こえるのです。

気前がよく与えることは、彼らにとって生きる道でした。そして、それはあなたとわたしにとってもそうなり得るのです。

彼らが本の中で書いた最初の一歩は自分の心を見て、「私は、助けたいです。」と言うことでした。あなたのすることが、あなたの心を打つ何かとなるということが鍵なのです。

もしあなたが地元の学校に行って成績の悪い子供と週に一度共に本を読もうと思うのならば、それをしに行ってください。あなたが本をファミリーシェルターまたは聖心に寄付したいならば、そうしてください。

それは、大きい何かである必要はないのです。しばしば笑顔は奇跡をもたらすことができるのです。子どもたちの教師への感謝を記すこと、地元の消防署にパイを届けること、列に並んでいる次の人の為に支払うこと、高齢者の芝生を刈るためにティーンの手配をすること,道に迷った人に道案内をすること、

孤独に見える誰かと話をすること、仕事仲間にスナックを残すこと、公共トイレをあなたが使った後に掃除すること、ショッピングの変わりに余分のセーターまたはジャケットまたは靴の一組を渡す「非ショッピング」。

必要なのはあなたがあたりを見まわして、想像力を使うということだけです。あなたは、小さなことがもう一方でどんなことを意味することになるかということは誰も分からないのです。 あなたがたいした事ないと思っているその行為は、あなたの人生、また他の人の人生を何か別の物に変えることができるのです!

クリスティーナ・チェスターマンは彼女が十分な年齢に達したとき、献血を始め、18歳で臓器提供者となる登録をしました。理由は、彼女が母親に「そうすることがいいことだからよ(して当然のことをしているのよ)」と説明したとおりです。

彼女はまだ高校生だった時、注目に値するバケツ・リスト(死ぬまでにすることのリスト)を書きあげました。

飛行機を飛ばすことは、そのリストの中の一つでした。ラクダに乗ることや、ポピーの野原を駆け抜けること、彼女に好意を持っている2人の男の子の間でのけんかを止めさせるというのもありました。また、彼女は人の命を救うことも望んでいました。

しかし、彼女の看護婦になりたいという切なる願いは、いまから年前の9月に打ち砕かれました。彼女は、自分が通っていたチコ州立大学の近くで飲酒運転のドライバーによって殺されてしまったのです。

21歳のクリスティーナは彼女のリストをほとんどを達成できませんでしたが、彼女の早すぎる死で成し遂げられたことが一つだけありました。彼女は、一人の命だけではなく、彼女が想像さえし得ないほどの人の命を生かすことができたのです。臓器提供を希望した彼女の決意の結果として、そしてそれが正しい行為であったので、5人の北カリフォルニアの住民はより長く幸せに生きられるようになったのです。

クリスティーナ・チェスターマンの肝臓の一部を受けなかったならば、フリーモントに住むジェイデンカービーは生後一年以内に死を迎えていたかもしれません。

 彼女はもう一人のフリーモントの住人「ザック」パパチャンも救いました。彼は、彼女のおかげで腎不全を克服しています。

他の 3人も彼女の他の臓器提供を受けました42歳の北カリフォルニアの男性は、彼女の腎臓と膵臓を受けました。残りの彼女の肝臓はサンフランシスコの男性に与えられました。そして、彼女の心臓はサンタクララ.カウンティの保健婦をリタイアし、今はキャンベルに在住するスーザン ヴィーラの身体で打ち続けています。

クリスティーナの両親は娘の臓器と共に生きる「移植患者」の家族と共に、臓器提供の雄弁なスポークスマンとなりました。

 それだけなく、チコ州立大学のクリスティーナ・チェスターマン・記念ナーシング・奨学金は、すでに30年の資金提供の備えが出来ています。

そして、いつか「国境なき医師団」という評判の高い組織団体に加わり働きたいと願っていたクリスティーナの願望に触発されて、彼女の友人や家族、そして他の臓器提供者たちが、クリスティーナの名にちなんだ病院建設の資金集めをしています。すでに9月には建築が始まり、来年の夏までにはナイジェリアにその病院が建てられ運営される予定です。

全ては、一人の、惜しみない施し、思いやりがあり、想像力に富んだ若い女性が、生前も死んだ後でさえも、明らかに「正しいことをする」ことに献身的であったことによるのです。

さて、このような惜しみなく差し出すという行為は、常に報いと満足を伴うものでしょうか?もちろん、そんなことはありません。でも、時に驚くべきことが起こるのです。私たちは、自分がする気前のいい施しや、親切な言葉、あわれみに満ちた行いが最終的に何を達成するのかを前もって知ることはできません。しかし、もし、その結果が初めからわかっていたら、本当に人に対して惜しみなくいられないのではないでしょうか?契約を交わすか、取引をし始めるだけでしょう。

ステュワードシップは、取引ではありません。どのように生きるかということです!

 この時期、教会は、私たちに、その伝道と宣教奉仕に投資するように呼びかけています。私たちが与える必要があるほど、教会が資金を必要としているわけではないのです!与えることは、私たちが味わう、あふれるばかりの祝福にたいして感謝の意を示す方法だからです。また、与えることは、私たちが信用している何か、例えば私たちの教会に集う信仰の家族などを、私たちが支え、強めて、活気づけるための方法だからです。

また、与えることは、私たちが自分たちの価値観や神学を表現する方法でもあります。与えることは、私たちが人々の人生や世界を変えていったり、形作るための助けとなる手段なのです。

そして最後に、与えることは、本当の喜びと幸せ、そして心の平安への道なのです!幸せな人生、満ち足りて本当に自由な生き方というのは、私の経験から言うと、惜しみなく捧げる生活、人のために生き、人と分かち合う人生なのです!

ですから、皆さんが、心のうちに惜しみなく与える思いを見いだすことを願っています。

見返りを求めるのではなく、それが正しいことがからするのです。

「ママ、お金のためじゃないのよ…」      アーメン