交換講壇礼拝

2016 2月7日 「霊的な筋肉の養い」 デイヴィッド・コウ

ルカによる福音書3章10-12節

「霊的な筋肉の養い」デイヴィッド・コウ牧師

私たちは皆、長く、元気で、かつ幸せな人生を送ることを望んでいます。私たちは、それをたびたび「健康的な人生」と呼びます。しかし人々が人生を健康的に生きる、また心身共に健康に生きることを語る時に、その霊性(スピリチュアリティー)について語られることはほとんどありません。人々は、身体的な健康または感情面での健康にのみ興味を持ち関心を払います。しかしそこで霊性は人間の健康とはまるで無関係であるように扱われているのです。
昨年、私は2つの運動クラスに参加しました。ひとつは「コアスタジオ」というもので、芯となる筋肉の育成を助けるエクササイズでした。そこで「心、体、そして芯」と大きく書かれた文字を見ました。私は「心、体、そして霊ではないの?」と不思議に思いました。数ヵ月後にもう一つ別の運動クラス、屋内サイクリング「ソウルサイクル」に参加しました。彼らのサイクリング方法は他のものとは異なり、照明を暗くしたスタジオでインストラクターがメッセージを語り出し、それを聞きながら運動するというものでした。彼らが提供しているのは肉体の改善ではなく、魂の改善の為の運動だったのです。ですがやはり、霊的な部分は見つかりませんでした。
人間の霊性に対する応答の一つがその存在を無視することであるならば、もう一つの応答は、霊的な世界を空想することまたはそれを非常に非現実的で恐ろしいものとして捉えることです。最近の最も人気のある映画やドラマは、何らかの方法で霊的な世界が扱われています。それらはすべて未知の霊的な世界についての話であり、闇の悪の力と善の力との間の戦いについての話です。これらは、霊性というものがただの空想か、または非現実的なものであると私たちに理解させます。もし私達が人間の霊性について全く関心を持たないか、またはそれを神秘的なカルトとみなすのであれば、私達は人間の命の全体を完全に理解することは出来ないのです。
バプテスマのヨハネは、いわば、その時代の人気の霊的なフィットネス・トレーナーだったと言えるでしょう。この聖書箇所は、群衆がバプテスマのヨハネの後を追って彼に尋ねたところから始まります。「私たちは、[霊的に健康になるために]どうすればよいのですか」
ヨハネは「着物を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ、食べ物も同じようにせよ」と答えました。
霊的な筋肉を造ることへのヨハネの最初の提案は「分かち合うこと」でした。次に徴税人が尋ねました、「先生、私たちは霊的に健康になるために何をしなければなりませんか?」それに対する答えは「規定以上のものは取り立てるな」、別の言葉で言い換えれば「よくばるな、そしてあなたが持っているものに満足せよ」でした。霊的な実践の二つ目の規則は「満足せよ」ということですした。次に、ローマの兵士が「私たちが霊的に健康になるためにどのような運動をすることができるのか」と尋ねます。ヨハネは「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」と答えます。1世紀、ローマの兵士がしばしば権力を用いて人々を不条理に苦しめている現実がありました。そこでバプテスマのヨハネは彼らに言ったのです「あなたがたの力を濫用するのでなく謙虚に生きなさい」。
今年一年を通して、あなたの霊性(スピリチュアリティー)の為にこの3つの規則をぜひ実践して下さい。「余っているものを分かち合うこと」、「あなたが持っているもの、そしてあなた自身に満足すること」そして「思いやりをもって、謙虚に生きること」。身体的なトレーニングと健康的な規定食の結果、私達は身体的な健康を得ることができます。霊的なトレーニングの結果は、あなたの人生において、愛、喜び、平和、忍耐、親切心、優しさ、誠実さ、寛大さと自制心を養うことができるでしょう。ウェスレー教会の2016年のテーマ「より深みへ(Go deeper)心と体と霊において」のように、より深みへと進みましょう。
心と体と霊と共に。

 

2014年 9月21日 「足るを知る」近藤誠牧師

921日交換講壇礼拝説教

ガラテヤの信徒への手紙1610

「足るを知る」近藤誠牧師

 私は「宣教師」という肩書でパイン教会に派遣されています。キリスト教の歴史の中で、最初の宣教師とは誰でしょう。洗礼者ヨハネや聖霊を受けた弟子たちは、神さまから召命を受けてそれぞれの務めを果たしました。もう少しはっきり、イスラエルではない国で、ユダヤ人ではない人々に対して、キリストの救いを述べ伝えたのは使徒パウロです。イエスご自身は実際に世界中を旅されたわけではありませんが、マタイによる福音書の最後のところで、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃいました。キリスト教は、このイエスの言葉に従う形で世界に広がっていったのです。

 パウロは異邦人たちに、ただイエスを信じることによって救われると教えました。すると、パウロの教えを異端だとしてユダヤ人たちが怒り、彼を町から追い出すという事件も起こるようになりました。ユダヤ教の人々にとっては、パウロが教えるような信仰の仕方では救われるために十分でないのです。律法に書かれている約束事、あるいは伝統的に付け加えられてきた取り決めをしっかりと守らなければ、救われないと言うのです。パウロたち指導者がガラテヤ教会から離れている隙に、そのようなユダヤ主義がキリスト教会の中に入り込んできます。あるいは、元々ユダヤ教だった人々が懐古主義的になり、ユダヤ教に戻ってしまうということも起こりやすかったでしょう。パウロはそれに対して、「あきれ果てている」、「呪われよ」という厳しくも切実な言葉を投げかけています。

 パウロが彼らに伝えようとした福音につながる部分として、今日はマルコによる福音書も併せてお読みいただきました。律法学者とやもめの献金の物語です。ガリラヤの人々が陥りそうになった誘惑は、まさに律法学者の姿です。長    い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されたり、上席上座に座ることを望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。イエスの福音に立ち、従うということだけでは飽き足らない人間の姿が、ここには描かれているのです。

 逆に、貧しいやもめはどうでしょう。乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれた。このやもめは、神の恵みが自分に十分であることを知っているからこそ、全てをささげることができたのです。律法を守っていても人一倍厳しい裁きを受けることになる者と、律法を守ることができず、イエスの福音にしか頼るものがない者との違いが、はっきりと見えてきます。律法を守っても去って行くしかなかった金持ちの青年と、罪びとの私を憐れんでくださいと胸を打ちながら祈った徴税人を思い出します。

 説教題を「足るを知る」としました。老子の思想に、「知足者富(足るを知る者は富む)」という言葉があり、「吾唯足知(我、ただ足るを知る)」という言葉が仏教にもあるそうです。物欲的な意味で現状に満足しなさいというような道徳的規範であるだけでなく、今日与えられた御言葉からは、「神の愛が、神の救いが私に十分である」ということを知る、あるいは知らされているという意味で、「足るを知る」を心に留めたいと思うのです。

 1940年頃の日本人で、海外で女性宣教師として働いていた方の言葉を紹介します。「失って失って何も残らないのが伝道者の生涯である。地上にありて国籍を有しながら、地上の何処の国にも属さないのが宣教師である。最後まで疑いの目でみられ、淋しく、とりのこされて異邦の果てに死を待つのである。しかし、そこには死に対する勝利があるのである。献げた人たちの輝きを何ものにも奪われない平安があるのである」。私たちもまた、足るを知り、何ものにも奪われない平安があることを信じて、歩んでまいりたいと思います。