2019年 3月17日「澄んだ目に映るものは」 主日礼拝

  3月17日 主日礼拝説教要旨
「澄んだ目に映るものは」 山本一牧師
ルカによる福音書11章33-36節


●あの第二次世界大戦の時、過酷な地上戦の舞台となった沖縄にある佐喜眞美術館には悲惨な集団自決をテーマとして描かれた「沖縄戦の図」(丸木位里・俊作)があります。

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その絵で最も印象的なのは描かれた人の「目」です。皆、瞳が描かれていないのです。戦時中、死の極限まで追いつめられた人間は、極度の恐怖や悲しみから自らの精神を保つために感情をマヒさせていきました。その現実を直視する事から逃げざるを得ない人間に「空白の瞳」を見たからです。また一方で丸木さんはこの絵の中央に3人の子どもを描き、彼らにだけ瞳を書入れました。それは、何物にもとらわれず、真実を見通す子ども達の瞳に未来への希望を託したという事なのです。
時に私たちもこの世で困難に遭遇します。その中で、私たちの心もまた、悲しみや恐怖、不安を感じ、そこから逃れたいと願い、呆然とし「空白の瞳」を得てしまいます。そのような中、それでもなお真実を直視し、希望をもって生きれるとするならば、私はあの過酷な受難の人生を歩まれたイエス・キリストにすがるしか他ないと感じるのです。


●今日の箇所でキリストは告げました。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば体も暗い」。これはどういう意味なのでしょう。
今日の聖書箇所のすぐ後で、イエス様は当時の宗教家たちが「表面を取り繕い、清く美しく見せているが、その内面は強欲と悪意で満ちていた」事を指摘されています。イエス様は、自分自身の内にある悪を直視できていない当時の宗教家たちの姿を見て、自分の全てを神さまの光に照らしてみなさい、そうすれば、本当の輝きを、神さまの愛と赦しと救いを得ることができるんだと教えられたのです。
つまり、「澄んだ目」とは、私たちが自分自身やこの世の現実の良い部分も悪い部分もそのまま受け止めて見る目という事なのです。その「澄んだ目」を持つ時に、神様の前に自 分の全てが明るみに出される。そこで自己嫌悪にもなり涙も流す、けれどもその涙ながらに自分の全てを見つめる「目」からは同時に全ての罪を赦すキリストの光が温かく差し込んでくるのだ、という事を告げているのです。
「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、灯火がその輝きで貴方を照らすときのように、全身は輝いている」この言葉は、自分の全てをキリストの光に照らされた者こそが、この世で、温かなそして優しいキリストの愛と赦しの輝きを持つようになるんだ。ということを告げているのです。


●イエス様はまたこの世の闇にも目を背けずそれを直視されました。そしてそこに飛び込み生きられ、ご自身も迫害と受難の歩みを歩まれました。けれども中にあっても、イエス様は決して「空白の瞳」になる事なく、父なる神に希望を持って人を愛して、生き抜かれました。それは「誠実に今できることをなしていくならば、神さまが必ず応えてくださる」という信仰によってでした。そして、そのイエス様の姿に、当時絶望し「空白の瞳」を持って死んだように生きていた人々が立ち上がり、厳しい現実を直視しながらもそれを受け止め、希望を持ってイエス様と共に歩み始めたのです。厳しい現実と共に神の希望を見る「澄んだ目」を人々はイエス様から受けていったのです。


●東日本大震災の被害にあった三陸に「眼は臆病だが、手は鬼になる」という格言があります。これは、人の目はすぐに恐怖に脅えるけれども、どんな困難に遭遇しても、できることをしていけば、不可能が可能になる、という意味です。この格言の通り、あの東北の方々は悲惨な現実にあって、それと向き合い、復興に励んでこられました。その姿に私達も励ましを受けた事を思い起こします。
 今、ここにいる私たちにも現実を直視する「目」が与えられますように。そして、あのイエス様がいつも私達と共におられ、愛し赦してくださっているという希望に目が開かれていきますように。そして、困難の多いこの世にあって、今できることを、それぞれに少しずつなしていきたい。そう願います。