2019年 3月3日「春を待つ信仰」 主日礼拝

「春を待つ信仰」 山本一牧師

ルカによる福音書 9:28-37

●この度の冬季休暇、雪深いシャスタ山に行く道すがらアーモンドの花が美しく咲き始めているのを見、寒い日が続く中にも春の到来を感じました。厳しい冬も必ず終わり春が来る、この事は私たちの大きな希望です。
●先日私たちの教団「合同メソジスト教会」の特別な会議が開かれました。世界中のUMCのリーダーたちが集まり決議した事柄はLGBTQの方々に開かれた私たちの教会にとって厳しいもので、同性愛を禁じる文言が、私たちの教団の規則に残され、実質LGBTQの方々を教会から排除するような決定となってしまったのです。今や、この教団の歩みは冬に入ったと言わざるをえません。そのような中にあって、今最も必要なのは「希望を持って歩む一人一人」です。それは寒さの厳しい冬を生き抜いていくような歩みかもしれません。しかしイエス様がまさにそのような歩みを先頭に立って歩まれた事を思い起こしたいのです。
●イエス様の人生にもそれぞれの季節がありました。田舎町ガリラヤで慕われる仲間たちと共に豊かに活動した「ガリラヤの春」と呼ばれる時代。寝る暇もないほど忙しく人を愛し、癒やして働かれた充実の夏、そして、当時の権力者から命を狙われるような不穏な空気が流れる秋を駆け抜け、さらには十字架に示される辛く厳しい冬を迎えられたのです。
聖書はイエス様がその冬(受難)の歩みを先頭を立って進んでいかれたと記しています。なぜイエス様はそのように受難の時を力強く生きることができたのでしょう。今日の聖書はそのヒントを教えています。
●ある時、イエス様は一番近い弟子達を連れて祈るために山に登られました。そしてそこで「モーセとエリヤと共にイエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後について語り合っていた」といいます。つまりイエス様は、過去の神を信じ生きた代表とも言える二人の生き様に触れ、励ましを受け「信じ生きる者を神は見捨てない」というメッセージを信仰の先達から受けておられたのだと思います。そして、直前の箇所でイエス様が「たとえ十字架の死を迎えても復活する」と予告されたように、厳しい冬の後に必ず春が来る、という信仰がイエス様の受難の歩みを支えていたのだということを私たちは知らされるのです。
●弟子の一人のペトロはその山の上に仮小屋を建てて、皆で住む事を提案をしました。しかし、イエス様は山から降りて、危険と困難が渦巻くこの世に飛び込んでいかれたと記されています。これは、仲間だけの安全な場所から全く違う価値観の人々と共に生き、痛み、苦しみを甘んじて受け、忍耐しながらも対話していく場所へ出ていく事がキリストの道であり、キリストに従う私たちの道でもあるのだと教えているのではないでしょうか。
そして、ペトロが聞いた神の声「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」は、この厳しい冬を思わせる世の中にあって、イエス様はいつも私たちの苦しみを理解し、寄り添ってくださるという約束の言葉なのです。人の無理解と虐げの中で「私もそうだったよ、でも神を信じ、愛を信じ、謙って希望を持って歩む時に、父なる神は絶対に私を見捨てない、最善の道が開かれるんだよ」と言ってくださるイエス様がいてくださる事を共に信じていきたいのです。
●先にお話した教団会議の厳しい決議を受けて、すぐに私たちの地域のビショップ達がビデオで、メッセージを発信されました。そこに困難な時にあっても、希望を持って歩むあのキリストの姿を見る思いがしました。
 季節は春を迎えますが、これからの世の中はますます生きにくい時代に入っていくかも知れません、しかし苦しみを知って下さる主がいつも私たちには与えられており、また、希望を持って歩もうとする信仰の友が与えられているその事を信じ、私たちは連体し、共に神さまが必ず備えられる「春」を待望み、冬を思わせる様々な状況にあっても、先頭に立って歩む群れとなりたいと願います。