2016年 9月18日「限りある人生に永遠の命を」

9月18日 主日礼拝説教要旨
「限りある人生に永遠の命を」山本一牧師
ヨハネによる福音書10章22~30節

●聖書に出てくる「永遠の命」を山浦玄嗣さんは決して死なない命ではなく「いつでも生き生きと生きる力」と訳し変えました。そのような命を人はどうやったら得られるのでしょうか?健康・富や名誉を得ることによるのでしょうか?
「死の谷をすぎて」という本を読みました。太平洋戦争中日本軍の捕虜となりタイの収容所で過酷な労働を強いられたイギリス人の捕虜のアーネスト・ゴートンさんの手記です。
日本軍の泰緬鉄道を建設のために16,000人の連合軍捕虜が犠牲となりました。著者もまた死の寸前まで追いやられます。この収容所には当初人間の本性がむき出しになる地獄のような光景が支配していました。彼もまた『神などいるものか』と人生を呪いながら命が終わる日を待っていました。
しかし、そんな彼を献身的に看護する二人のキリスト者があらわれ、無神論者だった彼も聖書を読み始めるのです。そして彼も自己中心的な人間の限界を打ち破り、「人を愛して生きること」へと導かれていくのです。彼らは聖書のイエスの愛と自分を看護した友や身代わりとなって死んでいった仲間の愛を重ねました。そしてこの死の収容所の中に神が生きて働いて奇跡を起こしていると感じたのです。彼らは極限状態の戦場にあって生き生きと人を愛して生きていたと記されているのです。  
●今日の聖書箇所で、イエス様は自分を羊飼いだといい、それに従う羊に永遠の命を与えると言われました。 羊は目の前の者を追って右往左往して、導き手がいないと幸せになれません。そのような羊の姿は、 本当の幸せあると思って、全く見当違いのほうへ行こうとする私たちと似ています。自分の事ばかりを追い求めると不満や絶望が待っていて、逆に苦難の中、イエスの愛を求め、人を愛し人に支えようとするときに、「永遠の命」本当に自由な生き生きとした命が得られるのだと聖書は告げているのです。
●あの厳しい収容所とは違いますが今も人間の本性がむき出しになるような、厳しい時代にあると感じる事があります。人との繋がりが薄く自己中心に陥りがちです。今も「神は一体どこにおられるんだ?」と問うような状況があります。けれども、そのような現実に神さまは必ず「愛」をもって臨んでおられるのだと聖書は告げるのです。そして、イエス様が持っていた、永遠の命、本当に生き生きと生きる命へと人々を導いておられると信じたいのです。
●本の中で「神などいない」という著者に友人が一つの詩を紹介しました。
「私は私の魂を探し求めた、しかし、
私はそれを見つけることができなかった
私は私の神を探し求めた、しかし、
私の神は私から隠れておられる
私は私の兄弟を探し求めた。するとその
三者の全て、私の魂、わたしの神、
すべての人びとを見出したのです」
この魂という言葉を「永遠の命」と言い換えても良いと思います。
●あの過酷な戦地で、人を愛して生きようとした時に、人々はイエス・キリストと神を知り、生き生きと生きる命に出会いました。私たちも、今週、兄弟を探し求めたいと思います。誰かに小さな愛を届けたいと思います。その時に私も本当に大切なものを見つける事ができると信じて。