2016年 8月28日「お返しできないほどの恵み」

8月28日 主日礼拝説教要旨
「お返し出来ないほどの恵み」山本一牧師
ルカによる福音書14章7~14節

●熊本の被災地を支援するジャズカツがJAMsjで開催されました。中心スタッフのお一人は一週間前にお姉さまを交通事故で亡くされました。しかし、終始明るくこの支援活動をリードしてくださいました。皆もハグをし、声をかけ祈りました。あらためてコミュニティの中で人はケアをされ、愛と慰めを受けていくんだという事を感じました。
人生には「まさか」と思う出来事があります。震災も不慮の事故もです。そんな時に私達は言葉を失います。しかしそのような絶望の淵にあってこそ人は尊い愛や配慮を神様から与えられ、互いにそれを示していくのだと思います。
●イエス・キリストが告げ広められた「神の国」とは、痛みも悲しみも無い国ではないのです。当時、イエス様の周りには痛みや迫害、孤独や差別が渦巻いていました。イエス様はその土地を巡り、悲しむ者と共に涙し、祈り、それでも天には神が生きておられると希望もって励ましあい歩んでいくそんな交わりを造り、示されたのです。
●本日の聖書はイエス様がある宗教指導者の家に食事に招かれた時のお話でした。
食事の招待を受けた客たちが上席を選んで座ろうとしていたのをイエス様が御覧になり、「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。・・・むしろ末席に座りなさい」と言われました。これは古くは箴言25章にもでてくる教えです。また、12節以降は招く側の人たちに対して「食事会をするときには、貧しい人、お返しができない人を招きなさい」といわれました。これまた当時、イエス様でなくても一般的な倫理行動として勧められていた事柄だと言える でしょう。しかし、ここはそんな倫理的教えが中心ではないのです。
●イエス様は「婚宴の譬え話」をされました。「婚宴」は、通常「神の国」を表すキーワードです。つまり神の国とは何なのかが語られているのです。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められる」という言葉にあるように、小さくされ、悲しみ、痛んでいる者たちが顧みられるのが神の国なのだと告げられているのです。
後半部分のお勧めでは「食事会には友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちもよんではならない」とあります。これもまた、普通の食事の会のルールを言ってるのではなく、神さまのみ心を教えているのです。つまり、神さまと言うお方は、この世で家族を失い、コミュニティから阻害されて、人間関係が断たれた孤独な人たちがいないかと気にかけ、どこまでも捜し求められるという事を告げているのです。
そして、その神様の思いがイエス様と言うお方の生涯に表されていたのです。お返しのできない私たち、罪も弱さも欠けもある私たちを真っ先に探し、招いてくだり、この私たちのためにイエス様が十字架にかかり、命を献げて下さたのです。
●この箇所にあるお返しのできない人とは誰のことでしょう。これは時に私たちの姿ではないかと思います。大切なものを失い、病にあい、災害にあい。急な不幸に見舞われ、ただ立ち尽くす時があります。そのような時に私たちは時に、お返しも出来ないほどの温かな恵みを、周りの人々から、私達のコミュニティから受ける事があります。それはきっとその時に、絶望の淵にある者に手を差し伸べられるイエスさまが私たちのコミュニティにいてくださるからでしょう。そのようなコミュニティ(神の国)こそが私たちの希望なのです。