2016年 8月14日「重荷を担い、担われること」金澤友幸神学生

8月14日 主日礼拝説教要旨
「重荷を担い、担われること」 金澤友幸神学生
ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
マタイによる福音書11章25~30節

●牧師になるためのインターンシップでここに来て、平日の牧師や信徒の皆さんの活動やお働きに驚きを覚えています。中でも日本に引っ越す内藤さんの引越しをされたお話にそこまでされるとは、と感心しました。
●人生には様々な重荷がありますが、パウロはガラテヤの信徒に「互いの重荷を担いなさい。そうしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」と言いました。キリストの律法とは何か。それは「愛神愛隣」、神と人に対して愛を持って行動する事です。また強制されてでなく心に湧き上がる喜びを持って愛し合う事です。パウロはそのキリストの愛の実践として、互いの重荷を担い合う事を勧めたのです。
しかし、いつも喜びと愛に満たされて行動する事はできません。時に自分の重荷に精一杯で、他の人の重荷まで担えない時があります。そのような人はそれでいいのです。事実、自分の重荷で精一杯の人が他人の重荷を担うことは出来ません。自分の負担が軽い時に、他の人の重荷を担ったらいいのです。
●パウロは5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とも言います。自分の重荷を他人に委ねなさいといいつつ、自分の重荷は自分自身で担うべきであるとは、矛盾しているように思えます。
実は、この二節と五節の“重荷”は原文では違う単語で表され、「互いに~担う」では“バロス”(ギリシャ語)ですごく重く、他者と一緒に運ぶ事が出来るような重荷です。 一方「自分の~担う」に使用されているのは“フォルティオン”で、自分で負うしかない、誰にも代わってもらえない重荷を表すのです。時に、その二つの重荷が同時に私たちを襲うことがあります。
●私は米国に来る前、レポートに追われていました。誰にも代わってもらう事はできません。出発前日にも、まだ課題が出来ず、それに加えて、荷造りもまだでした。そこで、荷造りは家族が助けてくれて、何とかこちらに来る事ができたのです。本当は自分で全てするのが理想ですが・・・。
自分にのしかかる重荷を素直に他の人に伝えること、担ってくださいという事は難しいことです。ただ私の場合のように「家族に」ならお願いできるかもしれません。
ここで皆さんに考えて欲しいのです。教会の人たちはどうでしょうか?パウロは言います「互いに重荷を担いなさい」と。キリストによって神の家族となった私たちだからこそ、担い合える互いの重荷を負い、キリストの愛を実践する者となりたいものです。
●では他方にある、自分で担うしかない重荷はどうか?むしろ、このような重荷にこそ人々は悩まされます。しかし主は言いました。「疲れた者、重荷(フォルティオン)を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と。
キリストは、自分自身で担うしかない重荷を負い、疲れている者を招かれます。他の人が一緒に担えない重荷であっても、イエス・キリストなら担うことが出来るのです。そのイエスを信じて、重荷の多い人生を共に生きていきましょう。