2016年 7月17日「イエスの方を向いて」 馬越直子姉信徒奨励

7月17日 主日礼拝信徒奨励要旨
「イエスの方を向いて」 馬越直子さん
ルカによる福音書10章38~42節


●牧師の子どもは「PK(Pastor’s Kids)」と呼ばれますが、私もその一人です。私は看護専門学校を卒業し東京の国立小児病院で働きました。子どもの頃は「教会の子」と一個人「府上直子」との葛藤の中で常に振り回されてきたように思います。
父は京都御所の真横の教会で、新会堂建設、地域へのアウトリーチ、社会の問題への取り組みなど、神の声に聴き従い地域に開かれた教会を祈り求め、働き続けました。
母もよく働いていました。早天祈祷会後に朝食を作り、神学生やスタッフへの週に一度の夕食会、ホームレス支援、新年の牧師館オープンハウスでは百人分のごちそうを一人で作り、葬儀や結婚式のお世話、新会堂の管理など・・・。 ある日、一晩だけ母が行方不明になりました。後に分かったのですが、教会の塔の上から飛び降りようかと真剣に考えていたそうです。母の心身の疲労は極限まで達しており、ついに入院となりました。入院に際して付き添わない父への憤りと母のやせ細った体、枯れ果てた心の疲れに愕然とした覚えがあります。
両親の生き方は良くも悪くも私にとってお手本であり反面教師でもあります。私は教会で育ち、人の為に生き、神の為に仕える、という生き方を徹底的に叩き込まれてきました。そういう生き方しか知らないというか、他の生き方が全く分からず、できないのです。
●今日の福音書の箇所マルタとマリアの話が私はずっと好きではありませんでした。
自分の行いが否定されているように感じるからです。放蕩息子の例えもそうですが、兄や姉は一所懸命、実直に、我慢強く神様と親との約束を守り、仕えています。妹や弟は、好きな事を好きな時に存分にし、しかも放蕩息子の場合は父親に、マリアの場合はイエスによってあるがままを認めてもらっています。対するマルタは40節「マルタは、色々のもてなしのためにせわしく立ち働いていた」 とあり、さらに「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」とマルタ自身がイエスに訴えています。これはマルタが自分自身に焦点を当てた主観的な訴えです。なぜなら人は誰もが忙しい時にこそマルタのように「なぜ、私ばかりが」と、どす黒い感情が胸に渦巻くからです。周りの人も一杯一杯で誰にも頼れない、それでも「もてなすこと」をやめません。そうする事でしか、自分の信仰が表せないと思っているからです。
それに対するイエスの答えは客観的なマルタの姿を示しています。「あなたは多くの事に悩み、心を乱している。」はっとさせられる言葉です。そして「必要なことはただ一つ。それを取り上げてはならない」とイエスさまは仰いました。
●Mrs.堀越の以前、Mrs.堀越が証の中で祈りの姿勢について「心の目を開き、神様の方を向いて祈る」大切さを話されました。何か対象があり、そちらを向くという事は自分ではない、全く別のベクトルの方向性を持つという事です。では、心の目を開き、神様の方を向いて祈る事、イエスに聞き入る事とはどういう事なのでしょう?
●身体が動かなくなる先天性の神経難病にかかったワシントン州のジュリアナ・スノーちゃんの両親は彼女が4歳の時に医師から「今度呼吸困難が起きた時にどうするか、考えておいて下さい」と言われたそうです。そこで両親はジュリアナちゃんに、聞きました。
「あなたの病気が今度悪化したら、また病院へ行きたい?」という問いに、「心配しないで。私のことは神様が引き受けて下さるから。」と家に居る事を望んだそうです。そして一年半後、自宅のプリンセス・ルームでお母さんに抱かれてこの6月息を引き取られました。
ジュリアナちゃんの心は真っすぐ神様の方を向いています。自分の体すら思うように何一つ動かせないたった5歳の女の子が「私は何のために生まれてきたの!?」とは問わずに「神様は私の心の中にいる」と言い切るのです。この真っすぐな信仰こそを「取り上げてはならない」と強く感じました。