2016年 7月10日「隣人は誰でしょう?」

7月10日 主日礼拝説教要旨
「隣人は誰でしょう?」 山本一牧師
ルカによる福音書10章25~37節


●ウェスレー教会のモットーは「愛神愛隣」神を愛し、隣人を愛するという事です。しかしそれは決して私たちがそれを常にできるとか、また完全に出来る事がクリスチャンの証だというのでもないのです。今日の福音書「良いサマリア人」のたとえ話もまたその事を教えています。
●ある時、律法(旧約聖書)の専門家がイエス様に「何をしたら、永遠の命(神に喜ばれる本当に幸せな人生)を受け継ぐことができるか」と問いました。それに対してイエス様は「律法には何と書いてあるか」と問い返され、すかさずこの「愛神愛隣」の教えを口にしたのです。イエス様はそれを聞いて満足されました。しかし、話はそこで終わらずこの律法学者は「自分を正当化しようとして」こう言うのです。「それではわたしの隣人とは誰ですか?」
愛すべき隣人の範囲を明らかにして欲しいといったのです。もちろんこの律法学者は同じ神を信じるイスラエル人だけだという答えを既に持っていたのでしょう。彼の心には「違う信仰の人は愛したくない」また「全ての人を愛することはできない」という思いが見えるのです。ただ、これを批難はできません。私たちの身の周りにも良くある考えだと思います。ただ、そのような問いに対してイエス様は「良いサマリア人」の話をされたのです。
●あるところに傷ついて倒れている旅人がいました。そこを通りかかった祭司とレビ人(神の神殿に仕える者たち)は旅人を避けて通り過ぎました。これには理由があり、祭司などは血や瀕死になった人に触れる事によって自らを汚す事は許されていなかったからです。彼らは自分は神殿の祭司だから仕方ないと考えたことでしょう。 しかし最後の一人は全く違い、手厚く世話 をしたというのです。そして、その親切な人は「サマリア人」だったと記されているのです。何故イエス様はここであえて「サマリア人」と言われたのでしょうか?そこに大切な意味があります。
●一般に言われる「善いサマリア人」という言葉に私は疑問を抱きます。このサマリア人が素晴らしい聖人のような印象を受けるからです。けれども、聖書の本文には「善いサマリア人」なんて文字は全く出てこないのです。むしろ当時のサマリア人の多くは、民族主義者で、排他的・・・プライドを持ってユダヤ人を批難するような限界や問題を抱えた存在だったのです。
イエス様が、このたとえで律法学者に本当に言いたかった事の一つは「自分を正当化するあなたもサマリア人と同じ、だれも完全な人はいないんだ」ということです。
そして、しかしそんな問題ありのサマリア人でも、自分の限界を超えて時に目の前に苦しむ人がいるなら心動かされ手を差し伸べる事があるんだということを強調されたのです。
イエス様は、私たちは完全な人間はなれないが、そのあなたのままで出で行き、今のあなたにとって本当に大切な隣人を見つけ、それを愛しなさい。その時に、サマリア人であろうが、律法学者であろうが、誰であっても「永遠の命」本当の幸せがみつかるんだと、私たちを愛の業へと押し出してくださっているのです。
●「私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にある」。クリスチャンであろうがなかろうが、信仰暦が浅かろうが深かろうが、様々な隔たりを超えて、弱りを覚えた身近な隣人を互いに覚え、愛し祈りあう時、私たちは喜びを覚え、幸せを感じます。なぜならそのような時にあのイエス様の愛が私たちに宿り働いて下さるからなのです。
私の隣人とは誰か?今日も尋ねつつ、身近なところに出て行きたいと願います。