2016年 6月5日「主が憐れんでくださる」

6月5日 主日礼拝説教要旨
「主が憐れんでくださる」 山本一牧師
ルカによる福音書7章11~17節


●人は不幸に遭うと時に「神様から見捨てられた、自分には価値がない」と感じます。その様な痛みを「スピリチュアルペイン」(魂の痛み)と呼びます。ある終末医療に従事する方はそのような痛みの癒しには「家族的な温かさ」必要だと言いました。自分が安心して泣きもでき、怒り笑いも出来る「愛と共感」がある場所が必要だというのです。
●今日の聖書にも、大きな不幸を負った女性が登場します。ナインという田舎町をイエス様が訪ねた時、丁度ある「やもめ」の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。主はその母親を見て憐れみ、その息子を生き返らせたというとても不思議なお話です。これは小さな町ナインの大きな慰めの出来事でしたが、その本当の慰めは「死者が甦った」という驚くべき奇跡にあるのではないのです。もう少しこの女性の状況を考えたいのです。
●当時のユダヤの社会ではやもめに対する社会の目は時に厳しかったのです。全てを失ったやもめの中には、自暴自棄になったり、生き抜くため男性に取り入ろうとする人もあり、それが批難の対象ともなりました。これは、まさに今のホームレスの方々が置かれている状況と同じです。今のホームレスの方々の多くが、選ぶ事のできない劣悪な家庭環境、不運などによって厳しい状況に追いやられていますが、一部には自暴自棄になり、精神を病み、ドラッグにはまるような人もあります。その様な人があるがために、全体的に否定的な「ホームレス」というイメージがつけられいます。当時の「やもめ」もそのような存在だったのです。
また当時のユダヤ社会では、子孫の繁栄が神の祝福で、逆に説明の出来ない不幸はその人や先祖の罪が原因だと批難される事もありました。このやもめの最大の痛みは 経済的、身体的痛みよりも「自分は神から捨てられたのではないか」という、スピリチュアルな痛みだったと私は想像します。
●そのような人の目がある中で神の子であるイエス様が近寄り、奇跡を行われました。その深いメッセージは、彼女の置かれた不遇な境遇に対して、イエス様が「このやもめに罪があるのでも、神が捨てたのでもない」と言う事を示されたという事なのです。
民は「神はその民を心にかけてくださった」と言いました。それは他ならぬこの世で不幸にあえぐ人間を神は見捨てていない、という喜びの言葉です。そして、それは説明がつかないような苦しい環境に陥っている私たち全ての人間への慰めでもあるのです。
●イエス様は「憐れに思った」といいます。これははらわたが痛むほどに共感(Compassion)されたという事です。これは他でもない、私たちが何を大切にして歩むべきかを示しておられるのです。人の置かれた厳しい状況に対して、それを批難したり、その原因を探ろうとしたりするのではない、ただその厳しい状況に「心痛める」事の大切さをイエス様は世に示されたのです。
●日本であるホームレスの方を支援していた時に、その方は私たちを裏切り支援金で呑みにいかれました。ただその方は翌日素直に来て私に報告したので、話をしてみると、彼は「その日は自分の誕生日だったんだ」と言われました。その言葉に彼の寂しさを初めて痛感しました。そして夜の公園で語り合いました。彼はその後、変えられ色々ありながらも今も真面目に頑張っています。
私たちは互いにこの世で深い哀れみとコンパッションを得ていくことができるなら、「人と人との関係がかわり、相手も自分も変えられる」そんな奇跡が起こるのだと思います。それは死者が生き返ることなんかよりも、もっと素敵な奇跡です。あのナインでしめされた主の憐れみと愛をこの世に、私たちの内に求めて参りましょう。