2016年 6月19日「ひとりの人の救い」

6月19日 主日礼拝説教要旨
「ひとりの人の救い」 山本一牧師
ルカによる福音書8章26~39節


●日本で7歳の男の子が山に置き去りにされた事件の捜索では延べ千人以上が動員されました。その費用(税金から)は2千万円程になると言われ、批難の声も挙がりました。しかし中には「こんな時に使わなければ、それこそ何のために税金をかけているか」という声もあり、この世も捨てた物じゃないと感じました。
●今日の聖書も「一人の命が救われる」という出来事です。イエス様と弟子たちが舟でゲラサ人の地方(ギリシャ文明の栄えた異邦人の街)に行かれました。その土地で、イエス様は「悪霊に取り憑かれた男性」と出会います。悪霊(レギオン:6千人のローマの軍隊を表す言葉)が入っていたというのは重い精神的病にあったのだと想像されます。彼は服を着ることも家に住むこともできなかったといいます。それは、このゲラサの街で社会生活ができなかったという事を表しているのです。今でも心に病を覚えた人が、社会から阻害されるという同じ社会構造があります。
そんな彼がイエス様と出会い、悪霊を追い出され救われます。彼は「服を着た」つまり社会に復帰し、イエスのそばに座り、イエスが救い主だと信じました。彼は今や心も体もイエス様と出会う事によって救われたのです。ただ話はそこで終わりません。
この救いの出来事を見たゲラサ地方の人々はイエスさまに「この街から出て行ってもらいたい」と願ったというのです。「彼らはすっかり恐れに取りつかれていた」とあります。一人の同胞が救われたので喜ぶべきところですが、彼らはこの一人の人の救いのために豚が大量に死んだのを見て「あんな人を救うために、こんな損害が続いたらたまらない」と思ったのでしょう。つまり彼らは仲間の一人が救われたことを喜ぶよりも、豚を失った経済的損害の方を恐れたのです。  「こんな一人のために税金をつかうなんて」という様な声は今から2千年前にもあったのです。「イエス様!そんな一人ほっといて下さい!他の人たちが幸せならいいでしょう。」
どこかで私たち人間は、また私達の社会は、ある一定の集団、仲間だけの幸せ求めて、そこから外れるような一人の人間の命の価値の重みを忘れてしまっています。それが私たち人間の限界、悲しい現実です。
●けれどもイエス様は違ったのです。イエス様はこの聖書の前後を見ると、強い意志でわざわざ舟でガリラヤ湖を渡って、このゲラサ地方に行かれたのがわかります。この「たった一人の人」を救うためであるかのようです。
イエス様は一人の命の重みを知り、その救いをどこまでも求めていかれたのです。それは、とりもなおさず、神様がこの地上の全ての人の命を愛し、救おうとしておられるという事に他ならないのです。異郷の地ゲラサ人の土地へわざわざ舟に乗って一人の人を救いにいかれたイエス様は全ての人間の命を救うために十字架にかかり、その身をも捧げてくださったのだと聖書は告げているのです。
●最後にイエス様は救われた人に「自分の家に帰り、神があなたになさったことを事ごとく話して聞かせなさい」と言いました。
きっとこの男性は「こんな社会から捨てられた私のためにわざわざ神の子が来て救ってくださった。」と喜び伝えたでしょう。そのようにこの街で証がなされる事によって、このゲラサ人の社会が変わっていく事を望まれたのではないでしょうか?一人の命よりも豚(財産)を愛する社会ではなく、一人の命が尊ばれ、重んじられる社会に変わる事を。
私たちにも「こんな私を見捨てず神さまは助けてくださった」と思うような体験が一つや二つあるのではないでしょうか?その感謝と喜びを教会で、社会で語り伝えましょう。ひとりの命の重みを深く味わい知る世の中になるように。