2016年 6月12日「愛するということ」

6月12日 主日礼拝説教要旨
「愛するということ」 山本一牧師
ヨハネによる福音書21章15~19節


●陶芸家Steven Young Leeさんは壊れたりにじんだりしているような一風変わった作品ばかりを作っておられます。「不完全さ」に芸術的価値を見ておられるのです。
人間もまた同じ。誰一人として完全な人はいません。しかし、だからこそ配慮や愛が生まれ、感動が生まれるのです。昔から今に至るまで教会の良さもまた、欠点だらけの存在がそれでも希望をもって生きている所にあるのです。そして、この欠陥品の私たちをとことん愛して、何かの役に用いようとしておられる事を私たちは毎週の礼拝で感謝とともに覚えるのです。
●キリスト教が最も大切にする事は「愛」ですが、この愛についても、人間の愛は不完全です。旧約聖書のホセア書には神様が人間の愛は「朝の霧 すぐに消えうせる露」だと嘆き、逆に神の愛は背く人間をも愛し続けるような際限ない愛である事が告げられています。
新約の時代、古代ギリシャの人たちは三つの「愛」という言葉を使いました。価値のある者を愛する「エロース」、兄弟愛、友達の愛などを表す「フィリア」そして、価値のないものをも愛するような、無条件の愛「アガペー」です。最後の「アガペー」こそが人間にはなかなか持ち得ない神の愛だと考えられてきたのです。今日の聖書ヨハネによる福音書にもそれらの「愛」という言葉がでてきます。
●復活のイエスさまがペトロという弟子に言います。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」。それに対して、ペトロは答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。不思議なのは同じようなやり取りが三度も繰り返されている点です。 実はイエス様の最初の二度の問いかけには「アガペー」が使われ、後の「愛」には「フィリア」が使われているのです。そして、ペトロは三度共「フィリア」で応えているのです。
ある人はこう訳し分けています。
イエス「ペトロよ私を愛しているか?」
ペトロ「はい私はイエスさまが大好きです。
それは あなたもよくご存じでしょう。」
イエス「私を愛しているかと聞いているんだ。」
ペトロ「わたしがはあなたの事が大好きなのは知っておられるでしょう」
イエス「あくまで愛しているとは言わないんだな。
 あなたは私を大好きだとしか言えないんだな。」
ペトロ「そうです。私があなたを大好きだとしか言えない、その程度の人間だとい
うことをあなたはお見通しです。」


自らを献げて全き愛を示されたイエス様に対し、イエスを裏切ったペトロは限界のある愛しか示せない。そこにペトロの限界と悲しみがあります。
イエスさまの2度の「アガペー」での問いかけには「あなたはどうであれ、私はどんな時にもあなたを愛している」というイエス様の心が込められ、最後に「フィリア」でイエス様が尋ねられたのは、不完全さを自覚しつつ「あなたなりの愛で愛しなさい」と言うメッセージに読み取れます。
●人間の愛は「限界のある愛」です。しかし、その事が私たちの胸に悲しみと共に刻まれるとき、私たちは主の前で謙虚なものとされ、本当に人に仕え人に神様の温もりを伝える歩みへと押し出されて行くのだと聖書は教えているのです。
実際にこのペトロという弟子も18節以降に表されているように、後に教会の指導者として、人と神とに我が身を献げてくほどになっていったのです。欠け多い私たちですが、完全な主の愛を受けつつ、身近な愛の業に励んで参りましょう。