2016年 5月22日「信仰のない私でも」

5月22日 主日礼拝説教要旨
「信仰の無い私でも」 山本一牧師
マルコによる福音書9章14節~29節


●「つもりちがい10箇条」は人間の思い違いを良くあらわしています。
高いつもりで低いのが教養 低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのが知恵 浅いつもりで深いのが欲望 厚いつもりで薄いのが人情 薄いつもりで厚いのが面皮
強いつもりで弱いのが根性 弱いつもりで強いのが自我 多いつもりで少ないのが分別 少ないつもりで多いのが無駄
その「つもり」でがんばりましょう。
使徒パウロもまた「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」と述べて誇り高ぶるコリント教会の人たちに苦言を呈しています。聖書を読むにつれ、私達は「信仰」においても、つもり違いをしているのではないかと思うことがあります。
●今日の福音書はイエス様がある人の息子を癒されたという記事です。ここには少し厳しいイエス様の言葉が記されています。
イエス様の弟子達が悪霊につかれた少年を癒そうとしたができなかった。そこで当時の宗教家達との議論が始まったようです。
イエスさまはこれを見て「何と信仰の無い時代なのか。いつまで私はあなた方と共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。
「なんと信仰のない時代なのか」の「時代」という言葉は「世」と訳せます。何か良い時代が他にあったわけではなく、そもそも「この世には信仰がない」と嘆かれたのです。とても厳しい言葉です。また、イエス様は、悪霊を追い出せなかった弟子たちに「こういう事は祈らなければ不可能だ」と言われました。恐らくその子を癒そうとして、祈っていたであろう弟子達にそう言われたのは、つまり「あなた方の祈りは祈りではない」と言われたのと同じです。 これら厳しい主の言葉には私たちもまた戸惑うかもしれません。なぜなら、私たちの内に信仰がある「つもり」になっているからで す。私たちが神様を前に信仰者の自負を少なからず持っているからです。その私たち人間の中にある「つもり違い」、「神様に対する自負」を打ち砕くような言葉が今日の言葉です。
そして本当に言いたいのは「自分の中に信仰が無い」と気づくところに本当に主イエスにすがる信仰が始まるのだという事なのです。

●このことを、この箇所に出てくる病む息子を持つ父親の言葉がよく表しているのです。
彼はイエス様に対して「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。自分の信仰ではなく、イエスの信仰に頼るしかないというこの祈りこそが、主イエス様が弟子たちに求めた祈りであり聖書が今の私たちにも勧めている祈りなのだと知らされるのです。
●私は牧師になる勉強をしていたころの話、父が病気になり、必死に祈りました。しかし祈れば祈るほど、「お前の祈りは聞かれない」という声が迫ってきました。日頃の自分の未熟さ、罪深さが迫ってきたのです。そこで、そこで初めて私は「イエス様にすがる」という思いにされたのです。今日の悪霊に取り付かれた少年の父のようにです。
●弟子達にも、往々にして私たちにも信仰はありません。しかしイエス様は「その子を私の所につれてきなさい」といわれました。罪もあり不信仰である私たちも打ち砕かれつつ、ただ全ての祈りをイエスさまのもとへと持っていく時に、イエス様は私達を憐れんでくださり、時に、驚くような奇跡を主イエス様ご自身が主ご自身の力信仰によって起こしてくださると信じていきたいのです。
今週も「イエス様!信仰のない私を助けて下さい」そのような叫びを祈りをもって、この世の苦しみ、悩みに共に立ち向かってまいりましょう。主による奇跡を信じて。