2016年 3月13日 「自分は救えない救い主」

3月13日 主日礼拝説教要旨

 「自分は救えない救い主」 山本一牧師

イザヤ53章1~5節 マタイ27:32-44

ユダヤ教のシンボルは「ダビデの星」(ユダヤ最高の王)、イスラムは「三日月と星」(トルコ帝国の勝利)などが知られていますが、なぜキリスト教は処刑の道具の十字架なのでしょうか。これはキリストの苦しみの象徴です。神学者ボンヘッファーは「キリスト教があらゆる宗教と決定的に異なっている点は神の無力と苦難を示している点だ」と述べ、この苦しむ神こそが人間に助けを与えることができる神なのだ」と言いました。イエスさまが私たちのキリスト(救い主)であるということの本当の価値は、奇跡などの不思議な力にあるのではなく、無力で苦しむ姿にあるのです。

●マタイ27章にはイエス様の十字架への道、受難の歩みが描かれています。ここには罪の無いイエスを馬鹿にし、罵る人間の冷酷さが描かれています。実にローマ兵から宗教家、隣の十字架につけられた犯罪者にいたるまで、皆イエスを嘲ったといいます。これは、私たち人間は例外なくこのような残虐さ、冷たさを持っているんだということを思い起こさせます。

 印象的な言葉は42節の「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ」と人々が罵った言葉です。そんな無力な王、救い主で意味があるのかと嘲り問うているのです。

 その中、イエス様は「意味があるのだ」といわんばかりに、その全ての苦しみから逃げず、受け止められるのです。痛みを和らげる麻酔の効果がある「苦いぶどう酒」を拒絶する姿も、この世の苦痛を受け止めようとするイエス様の覚悟が見えます。

イエス様は人がこの世で味わう苦痛を全て受けられたのです。その姿に大きな主の愛と私たちへの慰めがあるのです。

●私の母は大きな病気や手術を何度も繰り返し、今も難病を得ています。私は18歳から親元を離れ、母の最も苦しむ時に側にいる事も出来ませんでした。今から約12年前、母が急に倒れました。絶対安静で入院しました。私が病室を訪ねる事ができたのは、状態が落ち着いた頃でした。私が病室を訪ねた時、苦しむ母を励まし慰めたのは、病室の壁にかかった一枚の絵であった事を知りました。それは、2本の菖蒲の花の絵でした。母は猛烈な苦しみの中、それがイエス様が涙を流している顔に見えたのだといいました。「人にはわからないその痛みと苦しみを、あの十字架で苦しまれたイエス様はわかってくださる」。「今、涙を流しながら、私のそばにいてくださる」。そう母は絵を見て思い起こしていたのです。

●もしも、イエス様が苦しまれなければ、母は苦難の中、孤独な思いに支配されていたでしょう。もしもイエス様が・私たちの神さまが、私たちの世から遠く離れた聖なる領域にのみおられる方であったら、私たちたち人間は絶望的せざるを得ないでしょう。私たちは世の苦しみの只中にあって、共に苦しんで涙してくださるイエス様のお姿を、その深い愛を見出すことができるのです。そして、いかなる苦しみの中にあっても、主イエスさまが共にいてくださると信じる時に、与えられた自分の運命をまた人生を生き抜く力、勇気が与えられていくのです。私たちのために苦しみに会われたイエス様に感謝します。