2016年 11月6日「生きている者の神」

11月 6日 主日礼拝説教要旨
「生きている者の神」   山本一牧師
テモテへの手紙一1章12~17節
ルカによる福音書20章37節~38節

●人間が造ったのではない「豊かな自然」は人に感動を与えます。しかし、科学技術の発展は人間に快適な生活を人にもたらす一方、私たちの環境を「命あるもの」ではなく「命の無い」無機質なもので埋め尽くそうとしています。そして人は「生きた物」との関係を奪われ、本当に大切な何かを失っているように感じます。
●スペインの建築家ガウディは「自然界には直線はない。直線は人間が作り出したもの、神の創った自然なものは曲がっているのだ」と言いました。「命あるもの」は曲がっているのです。私たち人間も同じです。人は素直になれなかったり、上手に生きられなかったりする存在なのです。だからこそ忍耐や愛や感動やドラマがそこに生まれるのです。教会に色んな人が集っている事は何と素晴らしい事でしょう!
●聖書にでてくる人物も一人残らず、完璧ではなく、性格も人生も曲がりくねっています。テモテへの手紙は使徒パウロの人生について語られています。使徒パウロの自身「わたしは、迫害した者で、罪人の中で最たるものです。」と延べ、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と言っています。
正しい人、真っ直ぐな人ばかりだったら、イエス様は必要ないのです。実際に、私たちは生きている以上、誰一人、完全に真っ直ぐには、なりえないのです。そんな私を憐れみ、私を救うためにイエス様が十字架にかかってくださったのです。そんなパウロの信仰、感謝がここに溢れています。 神さまはそのようにして不完全な私たちに憐れみと恵みを与えて、神さまの御用に用いようとされるのです。
●後から読みました福音書ルカによる福音書にはこのような言葉がありました。
「私はアブラハム、イサク、ヤコブの神である」また「神は死んだものの神ではなく、生きている者の神だ」というイエス様のこれらの言葉に心を打たれます。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ユダヤ人にとっての偉大な先祖とされていますが、旧約聖書を読むと度々失敗して、ひどい事もしています。彼らも私たちと同じく罪も犯し、また同時に神さまに従いたいと思う気持ちもある。そんな生きた人間だったのです。しかし神さまは、そんな決して真っ直ぐではない、「生きた人間」の神であり続ける、と宣言されたのです。
私たち人間は速さや快適さを求めます。真っ直ぐさを求め、従順で無機質な者を愛します。けれども、神さまは違うのです。生きている者、不完全で曲がっているものを愛されるのです。
生きたクリスチャンとは、完全な人になる事をめざすのではなく、不完全な私たちである事を日々覚え、感謝のうちにあのイエス様の愛をもって互いに祈りあい、励ましあって歩んでいくのです。
●吉野弘さんの詩『祝婚歌』はそんな生き方をよく表しています。「完璧をめざさないほうがいい 完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい」「立派でありたいとか 正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わずゆったり豊かに 光を浴びているほうがいい」「生きていることのなつかしさに ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい」不完全な、そのままの私達と共に生きる主に感謝します。