2016年 10月9日「Who I am?」 山本知恵牧師

10月9日 主日礼拝説教要旨
「Who am I?」 山本知恵牧師
テモテへの手紙Ⅰ 3章14~16節

●先日の水曜日の黙想礼拝で、キース牧師はサンタクルズの美しい海と大自然の中で作られたというポエム(詩)を紹介してくださいました。それは、小さな海辺の生き物に焦点をあてて書かれた、わたしたちの「存在」とは一体何なのかという問いを静かになげかけてくれる内容のポエムでした。
●わたしは昨年、「鬱」という状態を経験しました。いろんなタイミング、また体調、ショックな出来事など、様々なことが重なったり、小さなことが引き金となって、人間は心も病にかかるのだと感じました。私はこの時に、生まれてはじめて、「Who am I?」という問いを自分自身に問いました。
イエス様は「疲れたもの、重荷を負うものはだれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」と言われた後にこう続けて言われました。「わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
●私達は知っています。イエス様が負われた荷というものは、決して軽いものではなかったということを。誰よりも重く、イエス様ご自身にも決して負いきれない重すぎる重荷で 
はなかったでしょうか。ここで、「わたしに学びなさい」という言葉に大きなヒントがあるのです。私たちは、イエス様の生きざまを通して、またイエス様の「命」を通して、本当の意味で神を知ることがゆるされているからなのです。
イエス様の荷がなぜ軽かったのか。イエス様のくびきがなぜ負いやすかったのか。それは、イエス様がいつも、自分はだれなのか、自分は一体どこにつながっているのかを問い続け、見出していたからではなかったでしょうか。私自身が「わたし」を見失ったとしても、わたしのいのちに意味を見出し、わたしの命を愛しぬいた方が、どんな時もわたしを見出していてくださるということに、わたしたちも気づいていたいと願います。どこにいても、どこで倒れていても、どこでのたれ死んだとしても、道をあやまったとしても、もと来た道を引き返してしまったとしても、必ず、この方がわたしを見出して、その小さな、塵のようなこの恥ずべき私の命を、だれよりも愛していて下さることに、目を開かれていたいのです。
●わたしは誰なのか、そのことをいつも問いながら、同時に、神を見上げて「あなたはどこにいるのか」と私たちも神を探し求めていきましょう。