2016年 10月2日「わたしたちの教会」 塚本旨兄信徒奨励

10月 2日 主日礼拝信徒奨励要旨
「わたしの教会」 塚本旨
テモテへの手紙二1章1-14節

●二週間前の礼拝後、日語部ではビジョンミーティングとして、私たちは教会に何を期待するのか、ということを話合いました。癒しの場、奉仕の場、また牧師の人柄、といった希望や期待がある中で、教会は信仰を育てる場所であることも忘れないで、という意見もその後の話し合いで聞かれました。今日の聖書の箇所は丁度その信仰についてイエス様が語っておられるところです。
今日の聖句の「からし種」は、聖書の世界ではいつも「小さなもの」を表し、また同時に「信仰」をも意味します。でも考えてみると、日本語でも英語でも「大きな信仰」という言い方はキリスト教の中ではありません。むしろ「深い信仰」という言葉を使います。イエス様はどういう意味で、この「からし種」のお話をされたのでしょうか。小さな信仰ではいけない、もっと育てなさい、ということなのでしょうか。今日はこのことをこれまでのウェスレー日語部を牧してくださった先生方の言葉から考えてみたいと思います。
●大友愛郎先生は1978年から1988年まで、ウェスレーに居られました。1983年にハドソン川で船の事故があり、犠牲者も出たのですが、その時乗客を救うために川に飛び込んだ人々を見て、「彼らをクリスチャンだと勝手に決めつけるな!」と言われました。先生はまだ若い頃、横浜の教会で近くの風俗産業に従事する人々を教会に迎え入れ、そのために教会を去る人も出てきたことがあります。「教会ってね、罪びとが集まる所なんだよ」、というのが先生の信条でした。でも「自分が罪びとであることを知ってる人たちなんだよ」。だから立派な人がクリスチャンというわけではない、ということなのです。
●次に来られた荒谷先生は、いつも「あるがままの自分」を受け入れてくださる神様を語っておられました。どちらの先生も小さな人、小さな信仰、を大事にしておられたのです。このことは今日の ルカ書の後半、主人に従う僕の譬えにも現れています。小さい者であるがゆえに主人に、そして神様に従う人でありなさい、と。つまり、信仰は小さなものでなければならない、とも言えるのです。
荒谷先生の後に来られたのは塚本先生でした。阪神・淡路大震災の時神戸に居られ、自分の教会を開いて避難した多くの人々を迎え入れました。でも、状況が落ち着いた後、その中から教会に連なる人は一人も現れませんでした。でも「もし同じことが起こったら、私は同じことをします」と断言されたのを今でも覚えています。
●塚本先生の後は松下先生でした。とても誠実な先生で、病や老齢の方々をいつも訪問し、請われれば決して上手とは言えない歌を、精いっぱいの声で歌っておられました。「私は小さな事しかできませんが、それで愛を感じてくださる人がいるのなら、いつまでもやり続けます」という先生の言葉は、その人柄を良く表しています。小さな自分だけど、御言葉に従っていけば、神様が自分を通して働いてくださる、という信仰です。どちらも、深い信仰があったからこその言葉です。
今日のテモテの箇所は詩を前にしたパウロが獄中で書いた最後の手紙です。恐れずに、教会を守るように、とテモテに諭しています。
●塚本先生の後にお迎えした西之園先生の時にジャズかつが始まったのを覚えておられる方も多いでしょう。実は当初、役員会はこのジャズかつに反対していたのです。とてもそんなイベントは今の日語にはできない、と。でもその時の先生の言葉は「私たちがやらなければ、一体だれがやると言うのですか」というものでした。東北の為だけではなく、今の日語を守る為にこそ、これをしなければならない、ということだったのです。
●私たちの教会はこうした素晴らしい先生方に恵まれて育ってきました。小さな「からし種」は今も小さなままかもしれません。でもこのウェスレー教会という畑の中で、その種がこれからも少しずつ深く根を下ろしていくことを願っています。