2016年1月3日 「回り道に主の恵み」

1月3日新年礼拝説教要旨
マタイによる福音書2章1~12
「回り道にも主の恵み」山本一牧師


●日本一長い川「信濃川」は千曲川とも呼ばれます。その名の通り何度も曲がりくねって約230マイルを流れ、多くの土地を潤し、最後に海へと注いでいるのです。この川の長い旅路を思う時に、私たち人間の歩みも同じように思うのです。人生、色んなハプニングが起こり、あっちに曲がり、こっちに曲げられているように思います。しかし、信濃川が曲がり曲がってその土地を潤すように、私たちもまた回り道や失敗を経験する事で成熟した人間となるのです。
●旧約聖書は弱小の遊牧民族アラム人たちが神に導かれ強い国となったことを告げています。ただその後、イスラエルの国は神を忘れ、自らの豊かさに溺れ、国の亡びを招きます。しかしその亡国という最悪の出来事を通して、民はまた変えられたのです。彼らにも曲がりくねった歴史があるのです。彼らが神の民と呼ばれているのは罪がないからではなく、失敗しながらも神様を求めて生きたからに他ならないのです。

●今日の福音書は東方の占星術の学者たち(マギ)が誕生したイエスに会うために旅をし、宝物を捧げ礼拝したという話です。彼らの旅路はどのようなものだったのか?
学者たちは星を頼りに旅をしました。夜にだけ見える星、曇っている日は見えません。もどかしさや、見間違うこともあったでしょう。また、共に旅をする学者の間で議論もあったことでしょう。実際、彼らは道を誤り、一度はヘロデの王宮にたどり着いてしまい、王に「新しい王、救い主が生まれる」と告げたことで、王の不安と怒りを引き起こし、赤ちゃんの大虐殺につながる大惨事を招きました。そのような大失敗もしながら、苦労したからこそ最終的にイエスのいる場所を見つけた時、彼らは 「喜びにあふれた」のでしょう(聖書原文は至上の喜びを表しています)。
彼らは厳しい旅路で自らが限界のある人間である事に気づいたからこそ、憐れみ、赦し、救ってくれる神の子イエスキリストを礼拝したのです。高価な宝を捧げたその姿は、謙虚に神の前で謙り、感謝して、キリストに従う生き方を示しています。そこに、本当に深い喜びと平安があるのだと聖書は告げているのです。この占星術の学者たちもまた、紆余曲折を経てそのような本当の喜び、平安に出会っていったのです。

●新潟の敬和高校の校長であった榎本栄次牧師がこのような言葉を教えてくださいました”川は曲がりながらも”
私は曲がっているのが好きだ 曲がっているほうがいい
そこにはやさしさがあるから 川は曲がりながら大海に入る
あの里この村を潤しながら まっすぐだったら洪水になる
真理だってまっすぐじゃない 曲がりくねって一つのでき事になるのだ

物事がストレート行かないからこそ私たちは祈ることを覚えます。大きな失敗をしてしまうからこそ謙虚にされ、病を負うから弱い人の気持ちが分かり、苦悩して生きる隣人の心がわかるようになるのです。
キリスト教に真理という事があるとするならば、それは決して罪を犯さない完璧な人間になるということではなく、不完全でひねくれて、罪深い、けれども神にすがって生きていくそのような姿を、自分で確かに受け止め、弱い他者をも受け止める事なのです。そこに本当の平安があるのです。

●広隆寺の仏像「弥勒菩薩半跏思惟像」について、カール・ヤスパースという哲学者は「この菩薩の姿こそ人間が達し得る最高の姿」だと絶賛し「しかし、罪ある人でなければ、このような最高の姿、顔にはなれない」と言ったといいます。自らの罪や限界、過ちを深く知る者の美しさがあるのです。それに導くのが聖書です。今年も共に私たちを導く聖書に触れて参りましょう。