2015年9月20日「小さなものを愛される主」

8月30日 主日礼拝説教要旨
「小さなものを愛される主」山本一牧師
マルコによる福音書9章33−37節


●あなたは人生の価値をどこに見出しますか?

「働くこと」にのみ価値を置くある人に、フランクル医師は「働けない病人や弱くなった存在にも生きる権利と深い意味がある」と言いました。
また長谷川英祐さんは著作『働かないアリに意義がある』で「働きアリ」は実は7割が休んでいて1割は全く働かない。その働かないアリがいるからこそ、皆が疲れ果てず巣が保てるのだといいました。また同じルートを通らない「変わったアリ」こそが、餌への最短ルートを発見し、結果的には効率的に餌を集める事が出来るとのだと述べておられます。
私たち人間の社会でも、いかに沢山働けるかという価値判断に全ての人が支配される時に、実は落とし穴があり、そのような組織や社会は、結局は滅んでしまうという事があるように思います。今日の聖書のメッセージもまた私たちの価値感に疑問を投げかけます。
●今日の箇所はイエスさまの弟子達が「私たちの中でだれが、一番偉い(メガス=偉大な)のか」という議論していたというお話です。誰よりも低くなられたイエス様に従いながら、弟子たちは、どうしたら偉大な者になれるかと考えていたというのです。
この議論を聞いて、イエス様は近くにいた子どもの手を取って、彼ら12人の真ん中に立たせ、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は・・・つまり、父なる神を受け入れるのである。」と言われました。イエス様はこの言葉から何を教えようとされたのでしょうか?ここでイエス様は「素直な子どもこそが偉いのだ」と言ったのではありません。

この子どもは孤児として町の外で過ごしていたような子ども達だという説があります。当時様々な理由で親を失った子どもたちがい たと言われます。「子どもは素晴らしい」と言われますが、中には本当に大変な子もあります。愛に飢え、ストレスを溜め、問題を起こす子。今の社会に適応できない子。イエス様はここで、そういう存在を抱き上げて、弟子達の真ん中に置き「このような存在を受け入れなさい」とおっしゃったのです。「私の名のゆえに・・・受け入れなさい」という言葉はイエスさま、神様がこのような小さな問題だらけの存在も、またその様な存在こそ深く愛しておられるという事を意味しているのです。そして、このような小さな存在があなたがの中で受け入れられていく時に、本当にそこに私がいるんだよ、神様がおられるんだよ。そうして暖かな共同体になっていくんだよと、イエス様は教えられたのではないでしょうか?
●私が学生時代にお世話になった教会に知的なハンディキャップを持った女性がおられました。彼女は決して素行が良いわけではなく、困った事も沢山ありました。けれども、いつもその子は教会の中心にいました。そのためいつも皆、真剣に彼女の事で話合いをしていました。後から振り返ると、彼女が教会の中心にいてくれたからこそ、皆が配慮する空気が生まれていました。またなによりも、問題だらけの私自身もそこに、居られたのだと思いました。彼女は実に両親や沢山の人を教会に繋げてくれたのです。社会では周辺にいた彼女が教会の中心で輝くことによって、彼女自身も幸せに、そして教会が本当に暖かい教会になったのです。


●問題だらけの小さな存在をこそ中心にする時に温かい教会や社会ができる。それはとりもなおさず、私たち一人一人にも言えます。私たちの中にある弱さ、醜い部分こそが大切で、イエス様はそのような部分をこそ愛しておられるのです。私たちも自分の弱さや欠点から目を背けず、認めて中心にいつも覚えて歩む時に、本当に温かい人になる事ができるのです。今週も弱さをこそ中心に!