2015年 9月13日「あなたにとってのイエスは?」

9月13日 主日礼拝説教要旨
「あなたにとってのイエスは?」山本一牧師
マルコによる福音書8章27−30節


●キリスト教とは何か?「キリスト」と言う言葉は人名ではなく「救い主」という意味の言葉です。つまりキリスト教というのは救い主という存在を私のうちに持つという生き方のことを言うのです。そして、私にとってのキリスト(救い主)とは誰かといった時に、聖書や賛美歌に出てくる「イエス」だと信じる、これがキリスト教です。
讃美歌121番「まぶねの中に」や聖書フィリピ2章にはイエス様が神にも等しい方でありながら、汚さ、貧しさのあるこの世に生きてくださり、最後には、十字架の上で、私たち人間の全ての罪を背負い私たちの代わりに死んでくださった事を告げています。
●日本の病院で全身に刺青のある方が友人に「キリスト教ってなんや」と言われて、恐る恐る、イエス様の話をした時に、彼は突然泣き出し「こんな俺のために死んでくれた神さまがあるのか」と言って洗礼を受けられたそうです。そしてイエスこそが自分のキリストだという事にかけて、残る生涯を生き生きと生きられたそうです。そのようにイエスという存在が「私」と無関係ではなく、私のキリストとして迫ってくる。そんな事が時に起こってくるのです。
●日本では豪雨による水害の深刻な被害が伝えられています。

私自身、日本でこのような 自然災害の被災地で泥かきのボランティアを度々しました。頭から足までどろどろ、全身臭くなるようなそんなワークでしたが、そこに連帯と希望を感じ、人の温かさを感じました。そしてそのように自分が臭い泥をかぶって気が付いたのです。神様はこのような自然災害を遠くから黙ってみているのでも、ましてやそれを天罰として与えているのでもない。災害の被災地で途方にくれ る中で、それでも何とか必死に臭いヘドロを被り涙と汗を流しつつ復興のための一歩を踏み出そうとするような私たちと共に神様・イエス様はおられる。そう深く感じたのです。イエス様は、「こんな汚いところに」、「こんな罪深い私のところに?」というような場所に力強く臨み、一緒に歩んでくださる。それが私にとってのイエス・キリストです。イエス・キリストは近づきもできない高貴な方ではなく、本当はもっと身近にいてくださるのではないでしょうか。
●今朝の福音書で主イエスは「あなたは私のことを誰だというのですか?」と弟子に尋ねられました。じつはこれがマルコによる福音書のちょうど中心にあたる箇所で、この福音書の中で最も大切な場面です。そこで一番弟子にあたるペトロがあなたは「メシア」つまり私の救い主ですと答えます。これはペトロの告白ですが、それと同時に、私たちはイエスこそが私の救い主だと告白していくのだ。それがキリスト教なのだというメッセージでもあるのです。
私達はイエスについての知識を学びますが、それ以上に「あなたは私を何と言うか」という問いに答える事が大切なのです。「会った事もないただの他人です」と答えるのも一つです。けれども、そうでない関係「私とこの世の汚れを担い救ってくださる救い主」と受け止め、そこにかけていくならイエスという方は、本当にその人を励まし、豊かにし、その人の人生とまた周りの世界をかえる力を与えてくださると私は信じています。今週もご一緒に、苦しむ私たちのすぐそばにいてくださるイエスを信じて歩んでまいりましょう。