2015年 8月30日「心に平和のイエスを」

8月30日 主日礼拝説教要旨

心に平和の主を」山本一牧師

   マルコによる福音書7章1−23節

●私は「平和」と聞くと「菫の花」を思い起こします。長女「菫」が生まれた時、教会員が可愛い菫の鉢植えをくださいました。

しかしその年の夏の日照りが激しく、水やりを2日ほど怠ってしまい、枯らしてしまいました。本当に悔やみました。「平和」はそのような「菫の花」と同じで、黙っていて維持できるものではない、求め続け、努力し続けなければ失われてしまう物だと思うのです。

沖縄で平和活動に参加する若者が「平和は当たり前にやってこない、不断の努力が必要だ」と言いました。とても印象的でした。  

柏木義円牧師は「真の平和のためには、平和の君キリストの心を徹底的に主張すること、神の国がこの世に来るようにと心から一身をささげて祈らなければならない」と言いました。さて、私はどうかと問われます?

●今日の福音書には、イエス様とファリサイ派、律法学者と呼ばれる人たちとのやりとりが記されています。彼らはわざわざ遠い道のりをイエス様をやり込めるためにやってきました。そして弟子に目をとめ「なぜ、彼らは 昔の人の言い伝えを破り手を洗わずに、食事をするのですか」と批難を始めたのです。

「昔の人の言い伝え」とはユダヤ人の間に口伝えで伝えられてきた決まり事をさしています。彼らは聖書の決まり以外に細かな規定をいくつも作り、何百と伝えてきたのです。

ファリサイ派の人たちは、真面目にそのような決まり事を守っていました。しかし、イエス様は彼らに預言者イザヤの言葉を用いて厳しい言葉をかけられました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言した・・・『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。』

イエスは彼らに、一見熱心なようで心が」神様から遠く離れていると言われたのです。

また「外から人の体にはいるもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚す・・・人間の心から、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口・・・」とも言われ、やはり大切な問題として「人の心」を取り上げられたのです。

●殺意や盗みこそ無いにしろ「貪欲、悪意、ねたみ、悪口」これらの言葉と無縁な人はいないように思います。私たちは日常の生活ですぐに心が荒んでしまいます。環境が苦しくなると「妬みや悪口」も増えてきます。いや、お腹がへったというだけでいらだち人にあたってしまう。そんな弱い者です。そんな弱い私たちだからこそ、イエスさまは心に注意をしなさいとおっしゃるのです。こんな私たちだからこそ、日々、自分の心を見つめ、そこに良い部分もあれば、少なからず利己的な心がある、その事を認め、主イエスキリストにすがっていく事。「神さま赦してください、あのイエスさまの心をどうか私に!」と切に祈り求めていく事が、大切なのです。

●1882年に生まれ、バークレー太平洋神学校で学びオークランドにも住んでいた久布白落実(くぶしろおちみ)は廃娼運動を熱心に行い、女性解放運動で目覚しい働きをしました。その久布白は毎朝必ず5つの言語で新約聖書を読み、2節ずつ書き写し、祈っていたそうです。そして「なぜそんなことをするのですか?」という問いに彼女は「隙間風がはいるといけないからね」と応えたそうです。彼女の社会活動は確かに素晴らしいものです。平和を実現するものでした。しかし彼女の活動のその影には一人で聖書を読み祈り、私の主なる方はイエスキリストただ一人であるという事に立ち返る。その「不断の主への立ち返り」があったのです。そして、それこそが、久布白の平和を生み出す活動の命だったのです。 私たちがも平和のため、まず日々自らの内にキリストを求め祈る事から始めたいと願います。