2015年 8月2日 「信じる心の大胆さ」 深田未来生牧師

82日主日礼拝説教要旨

「信じる心の大胆さ」深田未来生

ヨハネによる福音書4115

強い太陽の日差しがすべてをからからに乾かしてしまうようなパレスチナの気候はカルフォルニアの気候に合い通じるものがあるといわれている。湿度の高い京都の夏の暑さに半世紀にわたって耐えてきた人間にとってパレスチナの天候はきっと一種の快適さを与えてくれるものだろう。そのような環境では異常と思えるほど喉が渇くことがある。ひたすら喉を潤す水を喘ぎ求める気持ちを持つ。その水が私たちが当たり前のように思っている日本の水道の水のように「上等」でなくても私たちは改めて水を有難く思う。

イエスは弟子たちを連れて歩いておられた。散歩ではない。イエスに使命を与えた神の働きを一番必要としている人々に、その働きを明らかにするための歩みであった。人間は変えられる、善が悪を征して神の愛が人々の冷たい心を熱くする日は来るとアッピールする歩みであった。

時はお昼時。すでに温度は高く、日差しが強くなり始めていたころにイエスと一行は由緒ある「ヤコブの井戸」のあたりに到着していた。弟子たちが食料を仕入れに近くのシカル村に出かけている間、イエスは井戸端で休んでおられた。そこに現れたのは地元の女性、サマリアの女であった。歴史の不幸はユダヤ人とサマリア人を長く引き裂いてきただけに井戸端には何か冷ややかな空気が流れたに違いない。緊張は女性の方が強かったであろう。彼女は通常女性たちが水を汲みに来る時間帯から外れてやってきたのである。女性を目にしてイエスが声をかける。「水を汲んで下さいませんか」と。女性は戸惑ったであろう。身を翻して村へ帰るか、黙って水がめを満たして去って行っても良かったであろう。しかし、彼女はイエスに答える。「あなたはユダヤ人なのにこのサマリアの女に水を欲しいと頼むのですか」。少々突っかかるようにも聞こえる。しかし聖書を読み進めるとこの女性の言葉から2人に間には深い会話が成り立ってゆくのが分かる。そして彼女の発言は唐突にすら聞こえながらも大胆に聞こえ始めるのである。2人の対話はお互いに単刀直入、まっすぐに心の奥底に触れながら進展して行く。女性は自らのうちに戸惑いが薄れ、イエスの言葉が魂の奥底にしみ込んで行き、自分が清められてゆく感動を体験したに違いない。からからに渇いた喉を冷たい水が通る時の半分痛いような、半分心地よい気持ちを抱いたのであろう。

イエスは命の水について語る。井戸の水では癒すことの出来ない渇きを取り除き、魂を洗い清め、傷を癒し、新しい活力を与える水についてであった。その水は飲んだ人のうちで泉となりこんこんと湧き続ける永遠の命の水だとイエスは言う。

井戸端の女性はもうじっとしていられない変革が自分のうちに起こっているのを体験する。彼女を更に大胆にしたのはこの魂が揺さぶられる体験であった。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」あつかましいお願いでありながら、心からの真実な願いであった。魂の目覚めの瞬間の言葉だったといってよい。彼女は水がめを置いたまま、飛ぶように町へ帰ってゆく。日常的に人々の冷たい眼差しにさらされていたこの女性は、大胆な行動に出る。「私が出会ったユダヤの男性は私の過去を見通していた。この人はメシヤかもしれません」と語るのである。魂の目覚めと変革はこの彼女の大胆な言葉から町の人々が直接イエスの言葉を聞こうと井戸端へと出かけてゆくときに始まりかけていたのである。