2015年 8月16日「キリストの光に照らされて」

8月16日 主日礼拝説教要旨
「キリストの光に照らされて」山本一牧師
エフェソの信徒への手紙5章10−20節


●日本の安倍首相の戦後70年の談話が取り上げられています。綺麗な戦争のお詫びの言葉を使いつつも、他方で戦争の準備を強引に進めている所に矛盾を感じてしまいました。
自らの失敗や罪を認めることは難しい事です。自分自身、子どもに示しがつかないと思う事も度々です。そんな中で、子どものテレビアニメに教えられることがありました。「きかんしゃトーマス」というアニメです。
ソドー島という島で働く生きた機関車が登場するのですが、どの機関車も皆「役に立つ機関車」を目指しているのです。ただ、往々にして皆、役に立つ機関車になりたいがために、暴走し、周りが見えず失敗をしてしまうのです。そして毎回「ごめんなさい、役に立つ機関車になりたかったのです。でも間違っていました」という台詞がでてくるのです。
この機関車トーマスの原作者はW.オードリーという英国の牧師です。彼自身、様々な失敗をしてきた人物だったようです。その彼が、自らの過ちを認める事、そこから本当に役に立つ者への道が開かれるのだ、というメッセージをこの作品に込めたのです。
●自分の罪を認めることは難しい、けれども大切だと今日の聖書も告げています。今日の内容は「光の子として」歩みなさいというお勧めでした。18節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ・・・」とあります。これは禁酒の勧めではなく、その後につづく「むしろ、霊に満たされ」が大切で、お酒に酔うのではなく、聖霊に酔いなさい(霊に満たされなさい)と勧めるのです。「酒に酔う」とは一般的に、正常な判断ができない状態を指します。現実を正しく理解出来ない。自分が間違っているという事を認める事ができない。人をそのような状態にさせます。そうではなく、しっかりと現実を、自分の行いや言葉を 直視し、善悪の判断をつけなさい。それが霊で満たされる歩みだというのです。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」(15節)も原語では「気を配って」ではなく「しっかりと見分ける」という意味の言葉が使われています。つまり「自分たちがどのように歩んでいるか入念に見直しなさい。」(別訳)という事なのです。
私たちは別にお酒に酔っているわけでなくても、私たちには往々にして、自分の歩みが神を悲しませる罪深い歩みとなっていながら、それを認められない弱さがあります。「口ばかり」は日本の政府だけを責められません。
そんな私たち人間に対して、聖書は「眠りについているもの、起きよ、死者の中から立ち上がれ、そうすればキリストはあなたがたを照らされる」と告げます。これは、自分が死者だ(罪人だ)と認める時に、私たちは本当の意味でキリストと出会い、全く新しい命がスタートするのだと告げているのです。
●作家の椎名林蔵は晩年洗礼を受けた時、同じ作家の遠藤周作にこういったそうです。
「遠藤さん、これで私は『虚空』をつかみながら、じたばたしてしんでいけますわ」
遠藤氏は、それは自分の表も裏も見せて、何か大きな者(神)に全てを任せるような気持ちになったという事だ、といいました。表も裏も、つまり良い部分も悪い部分も、格好いい部分も悪い部分も、神様の前に知って頂く事、自分でもそれを認める事、ここにキリスト教における「救い」があります。光の子として生きるという事は、良い行いばかりをして生きるという事ではないのです。いくら頑張っても罪深い存在である自分。機関車トーマスではないけれど、スクラップになっても、捨てられても可笑しくないほどの失敗や醜さを持っている私を、愛し赦し、まるごと包んでくださる神の光・キリストの愛があるのだという事を覚えて「深く自分の罪を見つめつつ生きる。それが「光の子」としての歩みなのです。