2015年 8月9日「私たちの飢えを満たすもの」 

8月9日 主日礼拝説教要旨
「私たちの飢えを満たすもの」山本一牧師
ヨハネによる福音書6章22−35節

●私たちは今「たった一切れのパンに飢えている」という事はまずありません。St.jamesパークのホームレスの方であっても多くはそうかもしれません。しかしマザーテレサが「人は一切れのパンではなく、愛に飢えている」と言ったように、誰からも愛されていないという心の貧しさ、愛への飢えを皆、持っているように思うのです。また、逆に言うと、もしも愛に満たされれば人はこの世で苦難や飢えがあっても、生きていく事ができるという事なのです。
●使徒パウロという人物はユダヤ人として冷酷に人を裁き、キリスト者を迫害していまたが、ある時目には見えないイエスキリストの声を聞き、その愛に触れ、変えられました。そんな彼がこう記しています。
「わたしは確信しています。死も、命も・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。実際に彼はキリストの愛を胸にいだきつつ、苦難の中を生き、また殉教したと言われています。
●今日の福音書もまた、イエスが、私たちの本当の飢え、愛への飢えを満たす存在であるということを告げています。
イエス様は5000人以上もの群衆を、5つのパンと2匹の魚で満腹させるという奇跡を行い、それに魅せられた群衆は、イエス様の後を追いかけて来ました。その彼らにイエス様はこのように言っています。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい・・・私は命のパンである」と。一度食べたらなくならない食べ物とか、永遠の命とは一体どういうことなのでしょう。
この「永遠の命」とは「決して死なない命」ということではありません。「永遠で限りない神の愛の中に常に置かれている命」ということです。ある人はこういいました「永 遠の命を得る」ということ、それは「自分がどんな状態であっても、その自分のことを愛し、許し、理解し、関わりを持ってくれる存在を得るとういう事だ。」
けれどもそんな存在にますます出会いにくくなっているのが現代ではないでしょうか?
●以前、日本で「遥学園」という児童養護施設にボランティアに行きました。そこには様々な事情で親と暮らせない子どもがたくさん生活しており、その子どもたちと丸1日遊ぶことが私の役割でした。中にとても口が悪く、私を大変困らせる女の子がいました。当時私はまだ若く、その子の一つ一つの言葉に傷つき、また腹が立ち、ただただ忍耐して一日が終わりました。けれども、いよいよ帰る時が来た時に、その子が言いました。「えーもうかえるん?今度はいつ来んの?」耳を疑いました。この子は私が本当に愛してくれるかどうかを試していたんだということに私は気づきました。自分を本当に愛してくれる存在を彼女は求めていたのです。何かできたから愛するとかではない「理屈を越えた愛」です。それを彼女はそれまで、十分受けられなかったのではないかと思いました。家庭の複雑な事情、社会や学校の環境もあったでしょう。皆が忙しくなり、物が溢れ、人と人との関係が希薄になる現代です。無理もありません。
だからこそ、聖書は言うのです「私たちの命を本当に生かし、私たちの心の飢えを本当に満たしてくれるイエス・キリストに何とかして出会いなさい。そこに繋がりなさい。私たちの心が乾ききってしまう前に」。そして、その愛を知ったなら、あなたがその愛をもって愛に飢えた人たちのもとに出て行くのですよと。聖書は勧めているのです。
●イーグルスと言うバンドのデスペラードと言う歌は、この世に対して心を固く閉ざしてしまっている、そんな人に向かって語りかけているような歌です。「君も誰かに愛されて生きていくべきだ(You better let somebody love you)。手遅れになってしまう前に(Before it's too late)」