2015年 7月5日 「本当にふれてくれる方」

7月5日 主日礼拝礼拝説教要旨

「本当に触れてくれる方」山本一牧師

マルコによる福音書5章25−34節

●先週、若いホームレスの男性が悩みを抱えてこられました。私ともう一人の牧師が話を聞き一緒に役所まで付き添いましたが、結局、彼を取り巻く状況は厳しく、殆ど何もできませんでした。しかし彼はその後何度も教会に来られ感謝を述べられました。

ホームレスの方の多くが誰にも目を留められず、必要とされていないと感じる孤独の中で、命の根源を揺るがす「魂の痛み」スピリチュアルペインを抱えています。そんな痛んだ魂に神様の愛が届いたのではないかと感じました。

●本当の健康とは「身体的」、「精神的」、「社会的」に良好な状態だと定義されていますが、同時に「スピリチュアル」(霊的)も大切だと近年言われています。精神的、肉体的、社会的に恵まれていても、生きがいや生きる意味を見失う事がある。言うならば心よりも深いレベル、魂の痛みというものもあるからです。いつの時代でも人は自分はこの世に必要なのだろうか、生きていていいのだろうかという不安や痛みを持っているように思います。旧約聖書の詩編にはそんな魂の叫びが沢山出てきます。そしてイエス様という方は、その心の奥底、魂に触れてそれを癒すような方だったと知らされるのです。

●今日の福音書には12年間出血が止まらない女性が登場します。婦人の病気の一種だったのでしょう。彼女は肉体的、精神的に、大きな苦痛を持っていたという事が想像できます。また当時のユダヤの掟では、そのような病人は「汚れた人」とみられ、人に触れる事も触れられることも許されませんでした。彼女は「社会的」にも健康とは言えない状態でした。12年という長い間、彼女は「人間としての尊厳」を奪われるような、絶望的状況の中にあったのです。26節には「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たずますます悪くなるだけであった」とあります。これは治療と称して難病の方から多額のお金を巻き上げるような医者がいたという事を示唆しています。そのような環境に彼女の心も魂も痛み、悪くなっていったのです。そして彼女は最後の頼みとばかりに、命がけで群衆の中に紛れ込みイエスの衣に触れました。すると不思議なことに、たちまち、彼女はいやされたというのです。

 この女性が奇跡的に癒された場面は確かに素敵なのですが、私はむしろその後の場面に感動を覚えるのです。その後、イエス様はその女性をわざわざ探され、優しく語りかけられました「娘よ、貴方の信仰があなたを救った、安心して行きなさい・・・」。本当の意味で最も痛んでいた魂にイエスが触れ、彼女が人間としての尊厳を回復する事ができたのはこの場面だと言えるでしょう。

●あるお医者さんが、魂のケアというのは「一人をどこまでも大切にするという事だ」と仰いました。私は「そこまで別にしなくても・・・」と思うような事こそが今、本当に大切だと思うのです。先週笑顔で教会に戻ってこられたホームレスの方を見ながら、私は思いました。自分もまたどうしようもない存在だったが、こんな自分に目をとめ、進んで助け愛してくれた人たちが教会にいたからこそ変えられ、今こうして牧師として立たせてもらっている。

●イエスさまは別に探す必要もない名もない娘を探し、声をかけられました。何よりもイエスさまはそんな必要は全くないのに私たち人間の罪を全て背負って、十字架に架かってくださいました。

「そんな事までしなくても・・・」というイエスさまのその愛によって、私たち人間はその魂の奥底から癒されて、喜びで包まれて生きていく者とされるのです。変えられていくのです。そのイエスキリストの愛に日々触れながら、感謝しながら、今週もご一緒に歩んで参りましょう。