2015年 6月7日 「どうすればよいのでしょう」

6月7日 主日礼拝礼拝説教要旨
「どうしたらよいのでしょう」山本一牧師
ルカによる福音書3章1−16節


●教会でホームレス支援の活動を続ける中で度々、「どうしたら良いのかわからないのです」という言葉を耳にします。彼らの多くが与えられた苛酷な家庭環境や、社会環境によって本人ではどうする事もできないという状況に置かれています。「どうしたら・・・」というこの言葉は自分自身の弱さや限界を知った者の悲痛な叫びであり、同時に私たち全ての人間の叫びだとも言えます。人はなかなか変われないからです。聖書によれば神を信じる民たちも常に道に迷い自分達の民族の弱さを憂いていました。今日の箇所からもそれが窺えます。
●当時、多くの人が罪を許してもらうため「洗礼」を受けようとして荒れ野のヨハネのもとに来たといいます。ただヨハネは憤って言います。「マムシの子らよ。・・・悔い改めにふさわしい実を結べ」。ヨハネは洗礼を受けても中身は全然変わらない当時の人々に失望しているのです。興味深いのは、それを指摘された群集、徴税人、兵士たちがそれぞれ「私たちはどうしたらよいのですか」と同じ言葉で尋ねている点です。それに対してヨハネは「持っている物をわける」、「規定以上取り立てをしない」、「だましとらない」など具体的に勧めます。これらの言葉は当時、大きな経済格差があったという事、またローマ帝国の支配の中で弱小民族が生きていくためには、悪いと知りながらもやめられない事柄があったという事を表しています。当時の社会にあって、簡単には人は変われず不公平や悪を、誰も止めさせることができなかったのです。 ●しかしヨハネは希望を語ります。自分には無理だが「私の後から来る方(つまりイエスという方)にはできる」。
今日の箇所は、人は人の力では本当の意味で変わることはできず、イエス・キリストという人物にまた、彼を通して示された神の愛に触れる事によってのみだと教えているのです。実際、イエスさまは厳しい社会システムの中で、追わなくても良い人の汚れや傷み罪を背負い、人を愛し生きられました。そのイエスの生き様に触れた人は、大きな感動を覚えて、一人また一人とその心を変えられていったのです。
●アラスカの地で活動された星野道夫さんの写真展でこんな言葉を見つけました。

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いつか、ある人にこんな事を聞かれた。

『降ってきそうな星空や泣けてくるような夕日を一人で見ていたとするでしょう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんな風に伝えますか?』
『写真を撮るだろうか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いてみせるか、いや、やっぱり言葉で伝えたらいいかな』。
するとその人はこう言った。『自分が変わっていく事でしょう。その夕日を見て感動して自分が変わっていくことだと思う。』
人は本当に素晴らしいものと出会った時、それがその人の生き方を根底から変える事があるんだというのです。
私たちもまた聖書を読み、教会に集い様々な活動に触れる中で、計り知りれない神さまの愛に感動を覚え、変えられていくのでしょう。私がこれまでに、出会った何人かのホームレスの方々は教会に繋がり、絶望の中から立ち上がっていかれました。皆、教会員を通して与えられた神様の愛に触れ、変えられたのだと私は信じています。


なかなか変わらない自分の現実はありますが、決して焦らず神さまの愛を共に感動をもって受け取り続けていきたい。また私たち自身がこの世にその神の愛を届け続けていきたい。そう願います。