2015年 5月3日 「イエスにつながる喜び」

5月3日 主日礼拝礼拝説教要旨
「イエスにつながる喜び」山本一牧師
ヨハネによる福音書15章1−5節


●讃美歌「主に従うことは」(21-507)は明るい歌ですが、作者G・C・Tullarの辛い子ども時代の体験からのメッセージが込められています
彼の父は南北戦争で負傷し、十分に働くことができず、母も彼が2歳の時にこの世を去ってしまいました。母の死をきっかけに家族はバラバラになり、彼は成人するまで住所も定まらず、羊毛工場、靴屋で働き、教育や宗教的な学びも受ける事はできませんでした。そんな彼が19歳の時、キリストを知り、後にメソジストの牧師となっていくのです。彼は強いられた厳しく貧しい環境の中で人を恨み、神を恨んで生きるような幼少期、思春期の果てに「思い通りになる人生」ではなく、イエス・キリストの歩みに従い人を愛し赦して生きる人生に本当に幸せがあるということを発見したのです。そして自分自身は子ども時代に決して得ることができなかった「最も大切なこと」を是非、歌で伝えたいと思ったのでしょう。

●今日の聖書「ぶどうの木の譬え」にもキリストに繋がる事の喜びが教えられています。
旧約聖書には度々「ぶどうの木の譬え」が記されます。イザヤ書5章には、ぶどう園の農夫たちが良い実を期待し、熱心にぶどうの木を世話するそのように、神様も人間を愛し恵みを与え、本当の幸せに導こうとしているのだと告げらています。しかし、往々にして人間はどうかというと、決して良い実りを実らさず、かえって神様に裁かれるという言葉が続いているのです。ホセア書という書物にはこんな言葉もあります。「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。・・・実を結ぶにつれて、祭壇を増し国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。」 神を忘れ自分勝手にこの世の利益を求め歩んでいる。そんな姿が批判的に描かれているのです。聖書はこのように人間という存在は往々にして神の期待を裏切ってしまう存在なんだと告げています。

●そのような現実にヨハネによる福音書は「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」という言葉を記し、イエス・キリストだけは確実に豊かな実を結ぶ「真の」ぶどうの木なのだと希望を述べているのです。そして私たちにはただ「繋がりなさい」、つまりイエスを日々思いすがりなさいと告げているのです。「実を結ぶ者はいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(2節)の「手入れをする」という言葉と後に続く「私の話した言葉によってあなた方は既に清くなっている」の「清くなっている」は同じ言葉が使われています。つまり「イエスキリストの愛の言葉」によって私たちは日々、豊かに実を結ぶように「剪定」をされるのだと聖書は告げているのです。

●実際のぶどうの枝は、手に取ると何とも節だらけで、細く頼りない枝だということに気づきます。けれどもその枝が幹に繋がっていれば、あの美味しいぶどうの実を生み出すように、しっかりとイエスキリストに、その愛に繋がれているなら、必ずや人に喜びを与える豊かな実りをこの世に残すことができる。そう告げているのです。
G・C・Tullarは本当の喜びと幸せは、自分の好き放題できるという事ではない。「どんなに思い通りにならない人生でもイエスと共に生きるのだ」という信仰。そこに幸せがあるんだといいました。私たちの人生もまた、思い通りになりませんが、同じように思い通りにならない人生を愛と平安をもって生き抜かれたイエスキリストの恵みと平安を私たちもいただきたいと思います。