2015年 5月24日ペンテコステ礼拝「神様の働きのわだち(足跡)」

5月24日 ペンテコステ礼拝説教要旨
「神の働きのわだち(足跡)」山本一牧師
使徒言行録 2章1−13節


●先週、野生動物保護区のショアラインを歩きました。丁度、干潮で泥の上に点々と続く水鳥たちの足跡に風情を感じました。生き物が通った後の足跡、車が通った後のわだちなどに風情を感じるのは万国共通なのではないかと思います。
ユダヤ教のラビ、ハロルド・クシュナーが「神様の働きのわだち」という事柄を「ユダヤ人の生き方」という本の中に記しておられます。出エジプト記33章で神はモーセに「あなたは私の顔は見ることができないが後ろ姿を見るだろう」と言われたとあります。ここを取り上げ、「神の実際の後姿を私たちは直接見ることはできなが、神の力が働かれたわだち、つまり足跡を見ることができる。」そのように語っておられます。では私たちは現実社会働かれた神の力の跡をどのように見つけるのでしょうか。


●本日は「聖霊降臨日」です。弟子たちに与えられた「聖霊」とは一体どのようなものだったのでしょうか。使徒言行録2章2節には「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」とあります。そもそも「聖霊」という言葉は聖書の言葉では「風」や「息」という意味の言葉が使われています。風はいつ吹くかわからない、見えないけれども確かにそこにあって、物を吹き動かします。古来よりイスラエル人は神さまの力をそのような風のようなものだと理解してきたのです。その神の風が、突然キリストの弟子たちに臨んだというのです。人々は「一同が一つになって集まっていた」とあります。これはエルサレムの片隅でイエスさまが居なくなった後、力を落とし、部屋にこもって、ただ祈るしかなかった弟子たちの姿を示しています。悲しみ、途方にくれ、希望を失いかけていたその小さな群れに、神の力が注がれた。これがペンテコステの出来事なのです。

    また、聖霊を受けた弟子たちが当時の周辺世界の様々な言葉を語りだしたとありますが、これは弟子たちが聖霊を受けて、神が望むままに全世界へと遣わされて行ったという事を示しています。そのように弟子たちが人が変わったように勇気を持って生き始めた。その姿に当時多くの人が驚きを覚え、神の力が確かに働いたその轍、足跡を強く感じたのです。
今を生きる私たちは、神の力を受けて突然外国語を話し出すということはありません。けれどもやはり同じように自分自身に、また周りの人や社会や教会に働く「神様のわだち」を見ることができるように思います。


●この度3週間、日本から来られたご夫婦が礼拝にお集いくださいました。娘さんの急な召天のためでした。今月初め、ご友人を通して急に連絡を受け、司式をする事ができました。聞けば、実は日本での教派が一緒であったり、共通の知人がある事がわかりました。そして、共に日本語での告別式を沢山のご友人と共にこの米国で持つことができました。これら全ての人の繋がりや働きを振り返った時に、私はここにも神様の慰め深い働きがあった事を強く感じたのです。神様は確かにこの悲しみの出来事の中に働かれてその足跡を残してくださった、と感じ、同時に「神様は悲しむもの、弱り、途方に暮れる者を決して見捨てられないんだ」と改めて信じる想いを熱くさせていただきました。
「私たちは神を直接見ることはできないけれど、神の力が働かれたわだち、つまり足跡を見ることができる」。苦しみの只中にある時には神の力が働いているかどうかわからない事もあります。後から、ああそうだったのかと気づかせられることもあるのだと思います。それが、神の働きのわだち(足跡)をみるという事なのです。


●「あしあと」(マーガレット・F・パワーズ)という詩があります。これは、望みを持って生きている人を決して主なる神は見捨てない。見えない力「聖霊」を送り支え助けてくださるという事を伝えています。この事に望みをもって共に歩んで参りましょう。また聖霊の力にゆり動かされてイエス様のように、私たちもまた隣人に手を差し伸べていきましょう。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」