2015年 5月17日「その時を待つ」

5月17日 主日礼拝説教要旨
「その時を待つ」山本一牧師
使徒言行録 1章3−26節


●先日フィラデルフィアで発生した悲惨な脱線事故は2005年に日本の尼崎で起こったJRの脱線事故を私に思い起こさせました。あの時、やはり速度オーバーした運転手が非難され、JRが指導や安全設備の不備を責められました。確かにそこに責任もありました。ただ一方でこれは電車が少しでも遅れれば苛立ってしまうような「待つこと」ができない私たち現代人が生み出した事故だとも思ったのです。今回事故を起こしたアムトレインも米国有数の過密路線でした。スピード社会の引き起こした事故という側面はなかったのでしょうか。
「待つ力」は何かを「信頼する力」でもあります。私たちは神に祈り求めます。祈りがすぐにきかれたと思う時もあれば、そうでない時もあります。実は「きかれない祈り」にこそ大切な事が含まれているのです。何故なら「祈りがすぐにきかれない」という事を通して本当の意味で「神を信頼して待つ力」というものが養われからのです。この「信じて待つ力」こそが、現代の私たちにとって、最も必要で大切なものではないかと思うのです。
●来週は「聖霊降臨日」を迎えます。キリストの弟子達が見えない神の力(聖霊)を受け、力強く宣教に出ていった事を記念する日です。その前に彼らがしたことは「待つこと」だったと今日の聖書は告げています。
復活したイエスが天にあげられる前にこのように言ったと記されています。「エルサレムを離れず前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい、あなたがたには間もなく聖霊が授けられるからだ」(4節)。父なる神が約束されたもの、すなわちイエスの代わりに送られる神様の力、聖霊を待ちなさいと告げられるのです。続く7節でもやはり聖霊がくだるという約束が記されています。
自分たちが救い主だと信じ、愛したイエスさまを失った弟子たちには悲しみや心細さも あったでしょう。彼らは途方に暮れるように「いつまでも、イエスがあげられた天を見つめていた」といいます。しかし、彼らはすぐに厳しい現実と向き合い、イエスの約束の言葉を信じて、歩み出すのです。彼らは、どのようにその約束の時を待っていたのでしょうか。
●まず「皆が一つに集まり祈っていた」のだと記されています。最初は小さなあつまりだったのが、後に120人となったようです。そして次に彼らは聖書に基づいて、欠けた弟子の補充をする事を決めます。その時に「くじで選んだ」とありますが、これは適当に決めたというのではありません。当時の「くじ」は神の意志を問うための大切な方法の一つでした。つまり彼らは、神に祈り、聖書を読み、神に尋ねながら、今自分たちにできることを、彼らなりに考え実行していったのです。そんなささやかな「待つ時」を経て、驚くべき神の力「聖霊」が彼らに宿ったのだと聖書は告げているのです。
聖書はこのような使徒たちの姿を描くことによって、私たちもまた神の言葉を信じて集り、祈り、自分たちなりにできる事をしたら良いのだと教えているのです。たとえ私たちに力が無く勇気が持てないという現実や悲しみに暮れる状況があっても、私達を生き生きと、生かす神の霊は、今も必ず「信じて待つ」私たちに注がれる、そう告げているのです。
●アメリカの絵本に「にんじんのたね」という絵本があります。小さな種に宿った命を素朴に信じて世話を続け実りに預かった男の子の姿に「信仰者」の姿を見る思いがします。
今私たちの世はこのような力を必要としています。人に対して、子どもに対して、物事にたいして、そして神さまに対して。この「信じて待つ」姿勢を共に育みたいと思います。
何より、神様こそが私達を信じ忍耐強く育んでくださっているという事を思います。その神の眼差しを信じつつ、私達も共に集い、祈り、今できることをなしながら、神の奇跡を待ちたいと思います。