2015年 5月10日 「ひと言の力」

5月10日 主日礼拝礼拝説教要旨
「ひと言の力」山本一牧師
ルカによる福音書7章1−10節


●キリスト教は「言葉」を大切にする宗教です。イザヤ書55章10節 に雨や雪が天から地に降り、実りを実らせるように、神の言葉も必ず私たちの内に実りを実らせるんだ。という素敵な言葉があります。そのような言葉の持つ力を私たちは信じるのです。
今日は母の日ですが、近年子どもにかけている言葉が、ふと母や父が私にかけてくれていた言葉だったことに気づきます。また愛し励ましてくれた先生や先輩、近所のおばさんの温かな言葉を思い起こします。苦難と失意の中、内から聞こえて来る励ましの声は遙か昔に聞いた誰かの声の調子だったり温かさだったりするのです。言葉は本当に不思議です。時を超え、場所を越えて私たちの中に誰かが生き続けていると感じることが私はあるのです。私たち人間の命を支えているものはそのような人から受けた暖かな言葉の一つ一つなのではないでしょうか。そのような言葉との出会いの場として教会があると私は信じています。

●今日のルカ福音書にもまた「ひと言の言葉の力」を信じた人がでてくるのです。
ここには「百人隊長の僕の癒し」という出来事が記されています。百人隊長とは、当時のローマ帝国の軍隊を担う者であり、聖書の信仰を持っていない異邦人でした。ただ、この人物に対してイエスさまは9節で「これほどの信仰を見たことがない。」と絶賛しています。一体イエスがご覧になった信仰とは何だったのでしょうか。
2-3節を見ると、この百人隊長の部下が、病気で死にかかっていてそれを助けたいと思っていたという事がわかります。100人いる部下、自分より低い立場の僕に対してそのように心配し苦労することは珍しいことです。またこの百人隊長はユダヤ人を愛し、好意を示していたようです。ローマ帝国の権力を持って何とでもできる弱小のユダヤ人達にたいして仕えていたというのです。この百人隊長は、百人もいる部下の一人に仕え、そして、本来支配関係にあるユダヤ人達に仕えるような誠実で人格的にも優れた存在だったといえるでしょう。ただ、今日、イエスさまが褒めておられる彼の「信仰」はそこにはありません。

●6節以降、イエスさまがこの百人体調の家に向かった後の出来事にこそ注目したいのです。「百人隊長は友達に使いにやって伝えた。「主よご足労には及びません。・・・「ひと言おっしゃってください」そしてわたしの僕をいやしてください」。
彼はイエスを強引に連れて来て、触れさせ、祈ってもらうのではなく、「あなたのひと言で十分なのです」と言ったのです。彼は自分自身の百人の僕たちが自分のひと言を信頼して動く事をよく知っていました。同じように、私はあなたの一声「ひと言」の力を信頼します。そういったのです。
今日の聖書は「信仰」とは何なのかということをよく教えてくれているように思います。この百人隊長は聖書の事は殆ど知りませんでした。また彼は結局イエスと会ってすらいません。つまり、信仰とは「聖書の知識」でも「イエスと出会った」という神秘体験でもないのです、ただ「生きて働くイエスの言葉」にかけていくという事なのです。

●私はこの「信仰」という事を思う時、2011年の大地震で被災した気仙沼で牡蠣の養殖をしておられる畠山重篤さんを思い起こします。愛する家族を失い、子どものように大切にしていた養殖場も失った絶望的な状況にあって、畠山さんはこの様に言われました。「海は必ずよみがえる。」そして、その畠山さんの「海は必ずよみがえる。」というひと言を信じて、多くの方が立ち上がり、復興悲しみの中復興の歩みをはじめられ、今、本当に昔の海が回復してきているというのです。私は信仰というのは「ひと言」にかけていく事だと教えられたのです。

●畠山さんの言葉が絶望の中にある人の中に生きて人々を力づけたように、聖書の言葉はイエスの言葉は今も生きているのです。「あなたの罪はゆるされた」「あなたを一人にはしない。」「畏れるな!」 沢山の聖書にあるイエスの希望の言葉に今、私たちがかけていくなら、そこに本当に人を生かす不思議な力が働くという事をご一緒に信じたいと思います。そしてまた私たちも聖書の言葉をもってお互いに励ましあっていきたい。それが愛する誰かの中に生き続ける事になるのです。