2015年 4月26日 「愛で繋がる」

4月26日 主日礼拝礼拝説教要旨
「愛で繋がる関係」山本一牧師
コロサイの信徒へ手紙3章12−17節


●私の故郷京都には立派な竹林があります。竹は一見、ひょろっと弱そうに見えますが、台風や地震にも負けません。別々に見える竹が地下で繋がっていて、竹林全体が一つの植物になっているからです。それと同時に一本一本は独立した個体でもあり、たとえ地下茎が途中で切られても、その先の竹は枯れることがないと言います。独立しながら同時に地下茎の広いネットワークで繋がっているところに、竹の強さの秘密があるのです。目に見えない繋がりによってそれぞれの命が生かされている。人間という存在も同じです。では、果たして私たちを繋ぐものは何なのでしょうか。
●コロサイの教会には11節を見るとギリシア人、ユダヤ人、スキタイ人といった異なる民族、また奴隷や自由な身分といった異なる立場の人たちが集っていたようです。そのような「違い」がある時に、私たちは往往にして互いに張り合い、壁をつくり、関係が断絶してしまいます。そこで聖書は「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を・・・そして愛を着けなさい」と勧めます。これらの事によって、様々な違いを超えて、人と人は繋げられるのだと告げているのです。また、この「身につける」の原語は「着せてもらう」という意味合いを持っており、つまり謙遜や柔和、愛というものは皆、自分では獲得できず、神からいただくのだと教えています。そして、それは往々にして私たちが「自分が弱く、不完全だと知らされる時」に与えられていくのだと聖書は告げるのです。この手紙では度々「あなたがたは死んだのだ、けれどもキリストと共に生き返ったのだ」と告げています。
私たちは自分こそが正しいと思い、自分の正義や教義、主張を振りかざす時には驕り高ぶり、その結果かえって孤立してしまいま す。けれども、自分は不完全だ、消えない痛みや弱さがあると落ち込む時に、痛みへの共感やあのイエス様の示した優しい心や、人と人との愛の絆を神さまが与えて下さる。そんな事があるように思います。
●先週「リレーフォーライフ」というイベントがキャンベルで行われました。ガン患者を覚え、医師や患者やその家族、友人が数人ずつのチームを組んで走ったり、歩いたりしながらファンドレイズをするイベントです。同じ苦しみを持った人がいる、人の苦しみを我が苦しみとして覚えてくれている人がいる。その人達と見える形で、また見えない形で繋がっており、その繋がりはたたとえこの世を離れたとしても切れないんだという、その思いが一人一人の命を前向きに、活き活きと強く立たしめている、そんな様子に心を打たれました。
●癌や他の大きな病のみならず私達は皆、様々な弱さや痛み、いつ倒れてもおかしくないような脆さを持っています。たとえ、一人一人が、また組織や教会が弱さを克服するためどれだけ大きな力をつけたとしても、それが孤立していくならいつか更に大きな力が襲ってきた時に倒れてしまうでしょうでしょう。各々がしっかりと立とうと努力していくことも大切ですが、それと同時に、自らの力では立ち得ないものである事を認め、互いに神さまの憐れみと愛を受けながら、イエス・キリストの心を戴きつつ、繋がりあっていければと願います。
あの「竹林」の竹たちが目に見えない根っこの部分で繋がりあっているように、私達も近くにあっても、遠くにあっても、覚え、祈り合い、愛し合うことによって互いに繋がっていきたいと願います。
「互いに愛し合いなさい・・・それによってあなたがたが
私の弟子であることを皆が知るようになる」(ヨハネ13:35)。
そうして互いに愛し合い、覚えあう私たちの間に全き平安をくださるイエス・キリストがいてくださるのです。