2015年 4月19日合同礼拝「手を伸ばして」山本一牧師

4月19日 ウェスレー教会
スティーブンミニストリーコミッショニングサンデー合同礼拝 説教


みなさんおはようございます。今日はスティーブンミニストリー(stephen ministry)のコミッショニングサービスです。スティーブンミニストリーは信徒による一対一(one on one)のケアミニストリーです。50時間のトレーニングを終え、今、JimさんとPatさんが新しくこのミニスターになられました。このことは私たち、全てにとって大きな喜びでもあり、希望です。なぜなら私たちはいつ、苦難に出会うかわからない弱い存在だからです。愛するものを失った、仕事を失った、病気を患った、突然訪れる様々な苦難の時に、寄り添い、深く話を聞き、祈ってくれる存在があることは大きな助けです。

スティーブンミニスターはそのように人に寄り添い、人に手をさし延べますが、彼らは「イエスが私たちを通して働いてくださる」ということを信じています。
スティーブンミニストリーのみならず、人は時に人を助け、手をさし延べ、祈ります。なぜそのようなことができるのでしょうか、私たちが強いからでしょうか?そうではないと思います。むしろパウロは「私は弱い時にこそ強い」といったように、私たちが弱さを持ち、それを知っているからこそ手を差し伸べるのだと思うのです。

先日、私の娘が高熱を出しました。40度近い熱を出して3日の間うなされていました。いつもは元気に走り回っている娘が「私は死んじゃうの?」と涙を流して言っていたので、よほど苦しかったのだと思います。幸い4日目に彼女は回復しました。すると、ようやく治ったと思ったらまた今度は息子の「こう」が同じように高熱をだしました。その時に、驚いたのは、娘が、小さな手を合わせて、こうくんのために祈りはじめたのです。いつも食事の祈りの時には、私が祈る間に、あまり真面目ではない時も多く、ほとんど口に食べ物が入りそうになっている事もある彼女が、これほど熱心な祈りを捧げたのはこれまで見たことがありませんでした。私たち親は、続く看病で疲れ果てていましたが、彼女によって癒されました。

なぜ彼女は兄弟のために祈ったのでしょう。彼女自身が同じような経験していたからです。彼女自身も弱さを知り、人の弱さに共感(compassion)したからです。
共感することはとても大切だと思います。共感するときに私たちはイエスの愛の力が働くのだと思うのです。
今日の聖書の箇所は私の一つの思い出の箇所でもあります。私がこちらに来て初めて、サマージャムで子供のお話をした時の聖書箇所です。こんなお話です。イエスが弟子を先に湖の向こう側に行くようにと船に乗せる。しばらくは順調ですが、そこで風が強くなり動けなくなる。すると、湖の上を歩いてイエス様が来られる。でしのひとりのペトロも試そうとするが上手くいかない、結局、ペトロとイエスが船に戻り嵐は治った。というお話です。
これはイエスが「湖の上を歩いた話」として有名な箇所です。しかし、私は思います。この箇所でもっとも大切なのは、イエスが、ペトロが湖の上を歩いたことではない、イエスが、溺れそうになったペトロに手をさし延べた場面だと思うのです。
溺れそうになったペトロにイエスは「信仰の弱いものよ」と憐れんで、手を差し伸べられた、この場面が私は好きなのです。
わたしはウェスレーの夏のプログラムで子供達に話すときに、英語が得意ではありませんでしたので、この場面の「劇(スキット)」をしよう!と呼びかけました。私はペトロ、子どもたちは、これ(水色と白のバルーンを出す)を使って波と風をしてもらいました。
「準備はいい?私が、湖の上を歩き始めたら、波と風を激しく演じるんだよ」といい、私は、水色の座布団の上を歩き始めました。そして、「その時風が・・」というと、彼らは私に風船を降り始めました。名優の私はそこで、「たすけて!溺れる!!!」と演技をしました。
すると皆はどうしたか、・・・いよいよ激しくバルーンを降り始めました。
(彼らは悪くありません、忠実に聖書を再現してくれたのです)。
しかし、その時です。たった一人、一人のそのなかではとても小さな女の子が、私に近づき、手をさし延べ、私を起こしてくれたのです。
  そして、2度目の演技(テイク2)をした時には、よりたくさんの子供がわたしに手をさし延べてくれました。 彼女はなぜ手をさし延べたのでしょう。彼女が特別強さを持っていたからでしょうか、違います。聖書をよく理解していいたからでしょうか、きっと違うでしょう。彼女は下手な私の演技にも関わらず、溺れそうになっている私にコンパッションしたのです。
私は彼女にとても純粋なコンパッションを見、またイエスキリストの手を見た思いがしたのです。
繰り返して言いますが、私たちは強いから手を差し伸べるのではないのです。強い人しかスティーブンミニスターになれないのでもないのです。弱さを持っていてもいい。弱さがあるからこそ人の弱さに共感し、また手を差し伸べることができるのです。パウロは「わたしは弱さを大いに誇ろう」と言いました。私たちもまたそうありたいのです。

私は、以前、妻の家族と共にサンタクルーズの少し北、フェルトンという街にあるローリングキャンプという場所に行って参りました。そこにある古い蒸気機関車でゆっくりと30分以上山を登るとそこには、ネイティブアメリカンの方々が神の木と呼んだレッドウッドの森がひろがっていました。
私は教会はこのレッドウッドの森のようだと思うのです。

コンダクターの方が私に説明をしてくれました。レッドウッドは樹齢1千年を超える木がたくさんあり、中には高さ100m近くにもなる木ですが、その根は浅く1m、深くても3m位まで。しかし、その浅い根はあらゆる方角に20mほどにも広がり、その先で他の木の根と結びつき、そのネットワークは3キロにも及ぶそうです。その張り巡らされた根っこのネットワークで木々は強くそして長く生き続けられるというのです。
  地面に広く根をのばし、他の気の根と出会い、つながり、支え合って立っている。そのレッドウッドの木々。これはまさに私たち教会の活動のようです。

この世の様々な雨風、嵐によってすぐに倒れそうになる、希望を失う私たちです。私たちも一人では難しく、互いに支えあい、励まし合いながら立っています。私たちは今、弱さを持っているからこそ周りに手を差し伸べたいのです。そして、人と出会い、繋がっていきたいんです。
嵐の中、溺れるペトロに速やかに手を差し伸べられたイエス様が生き生きと私たちに宿り、私たちを通して働いてくださるように、祈って参りましょう。

最後に、私は、こんな詩を思い浮かべました。

      根を伸ばそう レッドウッドの木のように
根を伸ばすとは 祈る ということ
          根を伸ばすとは 手を差し伸べる ということ
   今、イエスのように祈り  イエスのように手を伸ばそう
   わたしが倒れないように   あなたが倒れないように。


お祈り致しましょう。

神さま、
私たちは弱さを持っているからこそ人に手を差し伸べられます。私たちの日系アメリカ人教会はマイノリティの集まりです。だからこそこの社会の虐げられた人、マイノリティの人々に共感できます。嵐の中ペトロを救われたイエス様の手を今私たちに与えてください。どうぞ、私たちの教会を新しいスティーブンミニスターをまた、ここにいるひとり一人を強めてこの世に愛し合い、支え合う神の国を実現するために用いてください。 主のみ名によって祈ります。