2015年  3月8日 「突然の苦難にも」

3月8日 主日礼拝説教要旨

「突然の苦難にも」山本一牧師

マルコによる福音書11章 15節~19

●先日、「え!?教会ってメンバー以外でも行っていいの?」とある方が尋ねられました。イザヤ書58章には民族や立場の区別無く、神を求めて集う者は誰でも祝福される。教会は「全ての民の祈りの家」なんだ。という言葉があります。今日、キリスト者だけでなく、様々な人と共に、ご一緒にこの米国で東日本大震災の被災地のことを覚えて祈れる事を嬉しく思います。

●今日は一通の手紙とともに礼拝を守っています。それは、福島の南相馬市からの手紙です。

原発から30キロ余りの南相馬市の仮設住宅で出会ったご婦人が先日、手紙をくださいました。このご夫妻は津波で辛くもも逃げのびることができたけれど、家と全てを失われ、長く避難生活を続けておられます。手紙には両足を3度手術し、歩くのも大変だという事が記されていました。長い仮設住宅の厳しい生活環境は彼女の体にとって大きな負担だったようです。そのような辛い報告の他に、4年経ってようやく家が再建できそうだ、という嬉しい知らせを受けました。そしてまたこのように綴られていたのです。

「あれから4年になろうとしております。どこの人も皆前向きに頑張っています。」

この短い言葉に私は重みを感じました。あの地震・津波、原発事故で家や家族を失い、絶望的なその状況を経験した方々の多くが未だ厳しい復興の途上にある、そして苦難の中にあっても、希望を持って前向きに歩んでおれる。その事をあらためて知らされたのです。

●今日の福音書はイエス様が神殿で商売する人たちのテーブルをひっくり返したという箇所です。「ひっくり返す」という言葉「カタストレフォー」は「大転換する」という意味で、ここから派生した英語に「カタストロフィー」という言葉があります。これは「突然の大惨事や破滅」という意味で、あまり良い意味では使われません。まさに震災などにも使われます。イエス様はある意味当時の神殿に、広く言えばユダヤ人社会や宗教のシステムにカタストロフィーをもたらされたのです。

 イエス様は当時、神殿でユダヤ人のための祈りの場所はキープされ、異邦人の祈りの場所では商売がされていたという差別的な神殿のあり方にたいして、一石を投じ、限られた神の民ユダヤ人のための神殿であったその場所を、全ての民の為の神殿にと「大転換」させられたということなのです。当時、誰もが困惑し、理解できなかったと思います。何故こんな事をするのかと思ったでしょう。けれどもそこに人間の理解を超える「神の意図」があったのです。

●時に、私たち人間は、また社会・教会は大変動、カタストロフィーと呼べるような状況と遭遇します。自分を揺さぶられるような、根底から崩されるような、なぜこんなことが私に起こるんだろうかと思うことに遭遇します。思い通りに行かない、なぜ自分に苦難が押し寄せるのだろうかという事に遭遇します。

 ある方がおっしゃいました。「自分にとって最悪なこと、どうしてこんなことが起こるのか、と絶望的になる出来事には、かならず神様の力が働いている」

 この言葉は、神さまが苦難を与えたということでは無いと思います。あの大地震も神が引き起こしたとは私は思っていません。この「生きた地球」に住んでいる以上、大地震は必ず起こります。そういう意味ではなく、なぜ突然、こんなことが起こるのか思う苦しい出来事を通して、予想もしていなかった、神の恵みを知らされることがあるということです。

 わたしたちは突然の苦難の中で、祈りあうこと、支えあう事、人の優しさや慰めを知り、神と人とにはまだ希望があることを知るではないでしょうか。

「あれからもう4年・・・どの人も皆前向きに頑張っています」という言葉を今日ご一緒に味わいたいのです。

 今、東北の被災地の方々の多くが世界からの支えを受けつつ、希望を持って歩んでおられます。この歩みにアメリカの地から更なる祈りと支援を送りたいと思います。