2015年 2月1日 「神の霊を受けた命」

2月1日主日礼拝説教要旨

  「神の霊を受けた命」山本一牧師

マルコによる福音書1章21~28節

創世記は神が人に息()を吹き入れて人は生きるものとなったと告げています。全て人は神の霊を受けている。それが聖書の告げる人間観です。そのような素敵な命を生きている私たちですが、案外、その命を私たちはここアメリカの生活の中で、社会の中で、家庭や教会の中で萎縮させていないでしょうか?

今日の聖書はイエス様がある人から汚れた霊を追い出したというお話です。カファルナウムという小さな村のユダヤ人の会堂でイエス様が教えておられた時、ひとりの男がいて叫んだといいます。マルコは彼を「汚れた霊に取り付かれた男」と記しています。

 当時は医学が発達しておらず、人々は様々な病気や体調不良を「汚れた霊」の仕業と考えていたのです。しかし今や、病気の原因は細菌やウィルス、ストレスや環境汚染などだとわかり、霊や気が引き起こすというという人はあまりいないでしょう。では、今日のお話は価値がないのか、そうは思いません。もう少しこの人物について見てみたいのです。

24節をみると、叫んでいるのはその男ではなくこの男にとりついた霊となっています。そして「我々」といっているので、一人の男の中で分裂し、混沌とした、神に敵対する存在が有り、それが叫んでいる、そんなふうに見えます。この事を考える時、それは今の私達全ての人間が心に持つ二面性、なかなか自分では変えられない、かたくなな闇の部分に他ならないのではないでしょうか。

 また、おもしろいのは「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という言葉です。これは「わたしたちはわたしたち、あなたはあなた」という言葉になっています。

「イエス様、あなたが希望に満ちて、自由で、愛に満ちているのはわかるけど、あなたはあなた、私はどうせこんな小さな者、つまらない者です。良い歩みなんてできない。悪のような存在です!」

このような叫びを私達もまたその心の闇の部分で持ち合わせているのではないでしょうか?自由に生きたい、けれども生きられない。よりよく生きたいが、失敗してしまう。人に優しくしたいが、腹が立ってしまう…。私たちは自分ではどうする事もできない、闇の部分を抱えているのだと思います。今日の箇所はつげています。当時、神を崇める、会堂の中にいる人たちの中にもそのような「汚れた霊」はあったのだと。そして人間がいくら聖書を読んでも変わらなかったどうしようもなかった、その人の中の「闇」「混沌」の部分に触れられて、それを変えることのできる方が来られた、それがイエス・キリストなのだと今日の出来事はつげているのです。 

イエスさまというお方は神もとから来て「人間はすべて神の霊を持っている、そんな素晴らしい存在である」という事を思い起こさせ、回復させるような歩みを始められたのだとマルコ福音書は告げているのです。

伝統的なユダヤ教の教え、人を裁き、評価して、萎縮させたり、阻害したりするような教えではない、全ての人を愛し、全ての人が神の貴い命を生きているのだと説いたのがイエスさまだったのです。

全ての「神の霊の宿る貴い命」を萎縮させるような「汚れた霊よ黙れ、出て行け!」と叫ばれたイエスさま。そのカファルナウムという小さな町でのイエスの叫びは、いまも、力強く私たちにかけられているのです。だからこそ私たちは変われるのです。

 神様の、イエス様のみ旨、願いは、私たちすべての人間が、神の命を生き生きと生かすことにあるのです。私たちはそのイエス様の愛に包まれて癒される必要があります。神さまの息を受けた私たちの命が、イエス様の愛を受け、今週も伸びやかにいきいきと、生きることができますように。

「のびろのびろだいすきな木」は私の好きな歌です。

これは、加藤勇喜くんという、19歳の知的障害をもった男の子が書いた詩です。

のびろのびろだいすきな木     詩:加藤勇喜

のびろのびろ だいすきな木  みんなみんながすきだから

ひとりひとり そらにむかって いきをしているよ

のびろのびろ だいすきな木 きみはきみは 木がすきかい

ひとりひとり そらにむかって のびているよ

みんな みんながすき ひとりひとりが いきをしているから

おおきな おおきな 木 そらにむかって いきをしているよ

 

イエス様も神の命を受けた一人一人をこのように見ておられるのではないかと思うのです。