2015年 1月25日 「A Call Worthy of Our Life」 キラさん

Fishers of Men: A Call Worthy of Our Life

人をとる漁師:価値ある人生への招き

Mark 1:14-20

マルコによる福音書1章14節~20

ウェスレー教会の皆様おはようございます!ご存じとおもいますが、私はサルディーアザムで ブエナヴィスタUMCの教会員です。ご存じの方も ご存じ無い方もいらっしゃると思いますが、私は去年5月17日に当教会でわたくしのパートナー、ニッキー、と結婚しました。わたくし達の愛と互いに責務をおうことを家族や友人の前でこの聖壇のある場で誓うことが与えられました。

本当に感謝申し上げます。この聖なる場所をわたくし達のために開いて下さった皆様の優しさ、寛大さー思いやりの深さを感謝申し上げます。

わたくし達が祝う事を当教会許して下さったという事を 軽くは考えることはできません。わたくし達は自分達が分け合う愛は神よりの愛にひけをとらないと思っておりますが この愛をわたくし達自身の牧師により合同メソジスト教会の中で人々に見守らて祝う事が出来たという事はわたくし達にとって大変重い意味を持ちます。 ご存じと思いますが 合同メソジスト教会の規律ははっきりと同性同士の結婚を司どることはもちろん、その敷地内で式をあげることをも禁じているからです。 と同時にわたくし達はこれは根本においてキリストの教え 及び その信仰を損なう規則であるという事であるとも認識しています。 この忌わしい信仰解釈の結果 多くの信者がキリスト教教会から、合同メソジスト教会をも含め、離れていきました。多くのほかの抑圧されたコミュニティーとは異なり LGBTQのコミュニティーは逃れの場と安らぎの聖なる場を見つけることが出来ました。

それですから、 リコンサイル教会であるということは同性の結婚を司るという事以上の意味を持つものです。リコンサイルという言葉は調和を取り戻すという意味を持ちます。なぜこの事がリコンサイル教会にとって大切というと リコンサイルのメソジスト教会の宣教活動は心して癒しと回復を 抑圧されたり、抑圧した人々にあたえる宣教活動をする教会だからです。

そこには 教会が 組織として 性的指向が故に多くの人々を疎外し 害を与え 深い痛みを与えたという 認識があるからです。しかしながら、リコンサイル教会は抑圧された者 抑圧した者 双方のための 癒しを求めているからです。何故なら 全ての人々の人格を認める事こそ全き世への働きとなり、暴力的なサイクルを抑えことになるからです。そしてこうしたことは、 兄弟姉妹の皆様、自由となることなのです。信仰をもつ者として教えを述べ伝えるべく召されている者として 神の愛に忠実な者として解き放たれる事なのです。これこそが 愛の上に築かれたUMCメソジスト教会コミュニティーに存在する自由なのです。

 

問題はただ”受け入れてくれる”場所という意味より以上のものです。リコンサイルとはLGBTQのコミュニティーのために沢山することがあるという事を認識しなければなりません。 わたくし達すべてが LGBTQに関することは 結婚を認めるという事のみだけに留まらないことを認めなければなりません。 教会の中心事項は人々が何を必要としているか、コミュニティーの関心は何かという事に焦点を当てなければならないからです。残念ながら、わたくし達は誰が自分達の側かという問題ばかり考え本当にわたくし達信仰を持つ者が持たねばならぬ問題を忘れてしまいます。

時々わたくし達はLGBTQのコミュニティーが本当に必要とし、 されて召されている事 問題を提起し健康管理をし、 移民法 性転換を透明化し、 ホームレスの問題と取くみ、差別に起因する暴力など たくさんの問題があります。

わたくし達 一人一人、全ての者が、呼びかけられています。

イエスのお弟子たちがイエスご自身によって召されたように、わたくし達一人一人が神より召命されているのです。

召命は単に牧師や教会で働く人々のみに起こることではありません。 神はわたくし達一人一人に呼びかけられています。 そして、今わたくし達が新年を迎えているように、そのことは何を意味しているのか考えなければなりません。

ちょうど一ヶ月前に、私たちはキリストの誕生をお祝いしました。神の御子が人間となり、この地上で私たちと共にいてくださることを祝ったのです。そして今日、先ほど読まれた聖書のみことばの中でイエス様が宣教を始められたように、私たちもイエス様と共に新たな旅へと歩みだすのです。 イエス様は、シモンとアンドリューに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とおっしゃいました。すると、彼らはすぐに網を捨ておいて従ったとマルコは強調しています。間もなくイエス様は、船の中で網を繕っていたヤコブとヨハネにも声をかけられました。この二人も自分たちの父ゼベタイと雇い人たちを一緒に船に残して、イエス様に従ったのです。なぜ、シモンとアンドリュー、そしてヤコブとヨハネはイエス様に従うために全てを置いて立ち去ったのでしょう?

イエス様の4人の弟子たちは大変な世界で生きていました。ユダヤ人が自由を切望する時、ローマ帝国の搾取という無慈悲な現実に直面しなくてはならなかったのです。彼らは土地を失い、子供たちは仕事や生き延びる道を求めて散り散りとなり、しばしば貧しさのあまりに奴隷とならざるを得なかったのです。伝統的な家庭や村の組織は、多大な文化的または経済的ストレスで粉々にされてしまいました。イエス様の生きていた時代は、本当にわずかな一握りの人々が絶大な富を持って生活している一方で、数えることのできない大多数の人々は極貧にあえいでいたのです。この現実は、漁をしていたシモンやアンドリューにも影響し、またヤコブやヨハネも自分たちの網を繕いながらそれを感じていたのです。

人が、それまでの慣れ親しんだ生活から新しい生き方をするように変わるきっかけとなる動機はたくさんあると思います。弟子たちは、彼らの生活を放棄したわけではなく、単に彼らが生きるのにふさわしい召命に答えたのです。置かれていたところでの社会的不法に立ち向かうために、彼らの網を広く投げ打ったのです。

 私たちが求められている宣教奉仕について思いをはせる時、神は私たちの人生に、私が生きるのに価する神の召しについて、どのように話しかけられるのでしょうか?私たちが命を捧げるようにと呼びかけられていることは、一体なんでしょうか?

私は、一年のうち、この冬の時期が嫌いでした。南カルフォルニアでは、この時期、最も寒くなり、私の家庭内では、誰かが病気になったり、時には喧嘩したりと、常に悲しさが漂っていた感じでした。そして、私が高校生だった時の数年間は、毎年ホリデーシーズン前後に誰かが亡くなったように思います。それがとても嫌でした。だから冬が来るのがとても恐ろしかったのです。年の終わりが来るのが恐ろしく、いつも新年が来るのを不安げに待っていたものです。

私は新しい年の始まりが、より良いことを、さらに満足すべきことをもたらしてくれるように祈りました。そしてホリデーシーズンをただ乗り切るように懸命の思いだったのです。 

2006年の1月に、私と最も近い関係にあった祖母が亡くなりました。ですから、一年のこの時期には、私はよく祖母のことを考え、彼女の人生を振り返ります。先日、私がPSRに通ったことを祖母がどう思うだろうかと考えて、一人で笑ってしまいました。そうなのです、去年、私はチェンジメーカー・プログラムというPSRのプログラムに参加しました。それは、社会問題に関わる民間人を対象にした1年間の神学校での学びでした。 私にとって祖母は、自分の知る限り最も敬虔な人でした。いつも聖書を読み、神の教えによって生活し、私にも常に同じようにしなさいと熱心に勧めたものでした。そして、私といえば、クリスチャンスクールで育ったものの、神の教えに従って自分の人生を生きるという考えに、猛烈に背いていたのです。

しかし、祖母が死んだ時、私は苦しみました。いったい神はどういうお方で、なぜ私は彼を褒め称えなくてはならないのか、なぜ私にこれほどに痛みを味あわせることをお許しになる神の教えというものによって生きなくてはならないのか、理解に苦しみました。どのようにして私の網を下ろしてイエス様に従ったらいいのか、わかりませんでした。目的もわからないし、何か聖なるものに対する信仰というものもありませんでした。神に仕えるのに価する人生というものを概念として捉えることができませんでした。

その後、2007年に私はデイリーシティーに引っ越し、サンフランシスコ州立大学(SFSU)へと転入しました。そして、私はその時、神の召し(召命)を受けたのです。私はSFSUのエキュメニカル・ハウスで、定期的に聖書の学びに参加していました。そこで牧師先生から、フィリピンで起こった政治的大虐殺について何か知っていることや私の家族がそれによってどのような影響を受けたかを尋ねられたのです。私は政治的風潮についてはどこの国のことであっても全く知識がなく、フィリピンの事にも関心がなかったのです。

しかし、私は自分の母のところへ行き、自分なりにリサーチをし、フィリピンで人権問題のために働いていたUMCの人々「フィリピン連帯対策本部」と連絡を取りました。そして、結論をいうと、私は、2008年に起こった政治的虐殺を非難する決議案を書き、ワシントンDCで行われた学生協議会でそれが可決されたのです。その後まもなく、私はフィリピンに行き、迫害されている人々の解放運動のために献身することになったのです。

私は、心の準備が出来ていませんでした。本当に、想像もしていなかったのです。何が起こるか知る由もありませんでした。でも、私は出て行ったのです。

 

イエスの弟子たちが、召し出され、世へと出て行ったように、私たちは時々決断を迫られるような瞬間に直面します。

 私たちは何がよい行いかを決断しなければなりません。そして時としてそれは他のどんな時よりも辛い時になります。時としてその道ははっきりとしません。また時としてそこから逃げるボートも、人間をとる漁師にしてあげようと招くイエスもありません。しかし、神が臨在されるその時その時があるのです。

神の子イエスキリスト、その象徴は人の姿に神の啓示がある事を示しています。天と地、これら一見すると全く対極にあるものが、私たちに信仰を生み出す余地を与えるのです。

ある人は、イエスの人生こそがこの世の領域に現された神の存在であると言うかもしれません。

この場合、私たちは私たちの間に生きたこの人物から何を学ぶのでしょう?

 その聖なる臨在をどこにでも見いだすことができ、また、私たち皆のただ中ににおられる神は今ある場所といつか来る場所の間にあるスペースが神聖であるということを証明しているのです。つまり私たちが存在し、人生を送っているこの場所は聖なる場所なのです。

そして、私たちが生きるこの人生は孤独でないという事を思い出してください。誰もが不義に直面します。ある人は、他の人よりもより多く。不義に直面しなければいけない間、その最悪の事態の中で、不義を経験する他の人々の解放と私たち一人ひとりの解放は結びついているのだと理解しなければなりません。もしも私たちの世界が、コミュニティが家庭が脅かされるならば、私たちは皆それに応えなければなりません。

聖なる場所を提供し、霊的な家であり、コミュニティを構築し、多くの人への神の愛の源である教会は、また同時に植民地化のための道具として使われ、人々を遠ざけるための道具として用いられる事によって痛みと苦しみの源ともなってきました。

 しかし、覚えておかなければならないものは、聖書は人間によってまとめられた本であるということです。教会は、人間の概念です。

そこに神聖さがあるということも疑いがありません。しかし、それらは私たちが神聖化するがゆえに神聖なのです。それらは私たちが完全ではないように、完全ではありません。私たちに欠けがあるので、それらにもやはり欠けがあるのです。

 

霊は私たち一人一人に根ざしていて、この地上の領域に根ざしています。わたしたちがこの人生を生きる上での成長の為にその領域を提供しているのです。そして、霊は私たちから決して消え去ることはないということを知ることに安らぎがあり、あなたを包む愛が常にあるのです。また、私たちが過去から未来へと築き上げていく成長の段階と同じ領域にそれはあるのです。

わたしたちが人生の中で困難な経験、または失敗の経験を持つとき、それはわたしたちの人生にとって変換の意味をもたらすかもしれません。さらに、これらの段階は、わたしという存在が一体何者であるか、またわたしのアイデンティティーを定めるためのものではなく、反対に、神の存在を見いだすことが出来る「間」という領域を加えることができるのです。

神の愛を信じることが出来ない私たちたちとは、一体誰ですか? もし愛に包まれたコミュニティの現実を信じる事が出来ないとすれば、私達たちは一体何者でしょうか?これは、私たち全体に呼びかけられた召命です。わたしたちは召された宣教の為に出かけ、わたしたちのこの価値ある人生に語られた神の言葉に耳を傾けようではありませんか。

生まれ変わる決意をもって行動しましょう。そして、神がそこにおられる事を覚え、平安でありましょう。神はいつもあなたのそばにいてくださいます。神はあなたのすぐ隣りにいつもいて下さるのです。