2015年 2月15日 「雪よりも白く」

2月15日 主日礼拝説教要旨
「雪よりも白く」山本一牧師
マルコによる福音書8章2~9節

●日本で1960年代に活躍されたコメディアン植木 等さんの『スーダラ節』は「分かっちゃいるけど やめられねぇ」という言葉に多くの人が共感し流行しました。しかし植木さんは真面目な性格で最初はこの曲を歌うのをためらったそうですが、仏教の住職であった父の徹誠さんは「スーダラ節の文句は心理を突いている、あの詩には親鸞の教えに通じるものがある」と諭し、植木さんを後押ししたそうです。浄土真宗の悪人正機(自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえる)という考えは実にキリスト教の「救い」に近いのです。

●私たちにも悪いと知りながら、やめることができないという事が無いでしょうか?優しくしたいと思っているのにできない。それは全ての人間が抱えている葛藤であり、課題です。あの使徒パウロも「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」、「自分はなんと惨めなのかと」とローマの信徒への手紙に書いていますし、今日最初に読んだ詩編51編もそうです。

「ヒソプの枝で私の罪を払って下さい、わたしが清くなるように。私を洗って下さい。雪よりも白くなるように」。これはダビデ王の詩とされていますが、自分の罪深さを嘆き、叫ぶように祈った詩です。「雪のように」ではなく、「雪よりも白くしてください」とあるのはただの罪の赦しや清めではなく、この私を新しく生まれ変わる位に清くならせてください!という叫びなのです。それだけ深く自分の罪深さを嘆き、悔いている言葉だといえるでしょう。古くから人は自分の罪深さや至らなさを嘆き、神に祈り求めてきたのです。

●今日の福音書、イエスさまの姿が山の上で変わったという話を見ましょう。ここにはイエスさまの姿が「どんなさらし職人にも及ばないほど白くなった」とあります。 これはイエスというお方が、この世の輝きや清らかさではない、神の子としてのそれを示されたという事です。そこで、弟子の一人ペトロが「ここにいることは素晴らしい。仮小屋をたてましょう。」と言います。ペトロや他の弟子達はその輝かしい姿に恐れを抱きながらも、ここにずっといたいと思ったのでしょう。人間を超えた輝き、清らかさへの憧れ読み取れます。しかし、結局そこに留まるという事は赦されず、ただ一言天から声が聞こえたのです。「これは私の愛する子、これにきけ」。これは何を意味しているのでしょうか。
一つは、私たち人間という存在は到底、神の輝きを完全に得ることはできないという事です。私たちは、雪より白く、神の輝きを放つ素晴らしい人間になりたいと願い努力しますが、残念ながら、神のようにはなれない。あくまで「わかっちゃいるけど、やめられない」人間にすぎないという事を示しています。
では、私たち人間は絶望的なのか、そうではなく、そんな私たちに与えられるのが「救い」だと聖書は告げるのです。

●「これは私の愛する子、これにきけ」という言葉ここには、イエスが何のためにこの世に来たのか、それを聞いてみよ、という意味として受け止められます。イエスの答えは「私はあなたがた、全ての人間のために十字架で命を捧げるんだ」という事です。つまり私たちの罪を、わかっちゃいるけどやめられないという、うまく生きれない弱さや醜さを、神の子イエスというお方が十字架にかかって贖い許してくだるのだということを知らせているのです。
信仰生活の最も大きな意義は、自分の力で何とかよく生きるようになるという事にあるのではないのです。「自分が弱さをもった人間であるということをしっかりと受け止めて」イエスキリストに委ねて生きるという「救い」に預かる事にあるのです。そこに雪よりも白くされる様な自由と解放があるのです。