2015年 2月8日 「全ての命に価値がある」

2月8日 主日礼拝説教要旨

  「全ての命に価値がある」山本一牧師

マルコによる福音書1章 29~31節

●私たちが住むこの米国は豊かな国だといえるでしょうか?先日、ニュースでサンフランシスコの家賃の相場が1ベッドルーム3,410ドルで全米一となったと報道されていました。今、家賃の高騰に、医療費が高額であることが重なり、ホームレスが急増しています。

 日本人ジャーナリストの堤未果さんが「沈みゆく大国アメリカ」という本の中で年収9万ドルのサラリーマンが怪我の手術とリハビリによる医療費によって自己破産した例を紹介していました。「あの時病気にならなければ」、「自分の体が弱いせいで」そんなふうに病人が自らを責めてしまう、という声も聞きます。だれも好きで「病気になる」という人はいません。一番辛いのは「病気になった人です」。病気になった人が自分を責めざるをえない。果たしてそんな国は豊かな国だと言えるでしょうか?

●人の価値は往々にして、能力や若さ、社会に貢献していく力などで測られます。それが社会の現実です。けれども、案外これは今に始まった事ではなく、旧約聖書レビ記には驚くべき人間の価値観が示されています。

 レビ記27章では人間をその性別と年齢層によって銀の重さに換算して査定をしている箇所があります。これを見ると「20歳から60歳までの男子は銀50シェケル、女性は半額・・・60歳を超えるとその価値は約3分の1に価値が下がる」。と規定されているのです。実は、今から数千年以上前、聖書の時代から、どれだけ労働力となるかという事に価値基準が置かれ、人の価値はそのように測られてきたという事がわかるのです。

 しかし聖書は同時に、そのようなシビアな社会にあって、そこに、まったく違う信仰の価値観、神様の価値観が示されたのだということを告げています。

●今日の福音書は、イエス様が弟子のシモンペトロの家で彼のしゅうとめ、つまり妻の母親を癒したというお話です。一見、何気ない、イエス様の癒しの場面なのですが、このしゅうとめが置かれていた状況を深く考えてみたいのです。当時、父系社会のユダヤにあって年老いた親の面倒を見るのは長男の仕事でした。彼女には男の子がないか、亡くなったかの事情で、いわば嫁にやった娘の家に引き取られてきていたのです。それは肩身の狭いものであったと想像できます。

また、当時は家族が皆生計を立てるための働きをしており、家族に病人が出て、働きでが減ってしまったり、働けなく無くなると、家や土地を失い、家族で奴隷の地位になってしまう事もありました。まさに今のベイエリアに似た状況がそこにあったといわれています。

娘が嫁いだ家にお世話になり、おまけに手のつけようもない寝たきりになっている。そんな彼女の気持ちはどんなだったのでしょう。私はなんと迷惑をかけているのだろうかという思い、自分を責め、自分が情けなくまた虚しくなっていたのではないでしょうか。

このような、高齢であり、女性であり、また病にふしてたという、当時の世間の価値判断では全く価値が無いとされていたようなこのペトロの姑に、イエスさまというお方は目を留め、手を差し伸べ、愛し、また癒されたのです。

このことは、当時決して当たり前のことではなかったのでしょうこの出来事に本当の豊かさを感じさせる何かが、感動が温かさがあったのでしょう。何気ないようなこの出来事が、語り継がれ、聖書にしるされたのは、この小さな家で起こった出来事に当時の殺伐とした、社会にあって心温まるような、本当に必要なメッセージがあったからだと思うのです。

このイエスというお方は、当時の価値観とちがう価値観で人を見てくださる。どんな命も生きる価値があり、愛される価値があるのだということ示され、そして、弱った命、年老いた命、そこにこそ温かな手が差し伸べられる、そんな世の中こそが暖かい、本当の意味での「豊かな世の中」であるということをイエス様は示されたのではないでしょうか?

このしゅうとめは癒されるとただちにイエスをもてなし始めたと記されています。この「もてなす」という言葉は「奉仕する」という意味の言葉が使われているのですが、この言葉は、愛を受けた人が進んでまた人に仕えようとする姿を伝えています。

自分は厄介者だと思いこみ、生きる事も辛いと感じていた彼女が、イエス様の眼差しにふれ、愛にふれ、生き生きと生きはじめた。その喜ばしさを伝えています。

このようなことが、私たちにも起こるのです。貧しさの中で、病を覚える中で、様々な事情で、自分には価値が無いと思い込んでしまうその時に、イエスさまの愛にふれ、私たちもまた生き生きと神に仕え、人に仕えて歩む者となっていくのです。