2015年11月29日「平和の王を迎える」

11月29日 主日礼拝礼拝説教要旨
「平和の王を迎える」山本一牧師
ルカによる福音書3章1−9節


●クリスマスは真の平和であるイエス様を私たちの人生・心にお迎えするという時です。しかしどのようにして迎えるのでしょうか?部屋を掃除するように、心を綺麗にして迎えるのでしょうか?
今日の福音書にはイエス様の活動の前に道を整えた人物とされる洗礼者ヨハネのお話が記されています。彼は川で人を罪の汚れから清める「洗礼」を授けていました。しかし今日の箇所を見るとヨハネはこの群衆たちに問題を見出していたようです。彼は「蝮の子らよ。悔い改めにふさわしい実を結べ!」と叫んでいるのです。聖書において蛇は悪魔の象徴として描かれます。つまりこの言葉は「皆洗礼を受けても、相も変わらず、悪魔の子だ。悔い改めて良い実をどうして結ばないのか!」嘆いているのです。この言葉は人間の心というのはなかなか変わらない、という厳しい現実を表しています。私たちも、教会では清らかな思いにされてもすぐにまた苛立ち悪い心に満たされたり、悩みに陥ったりします。
洗礼者ヨハネは、イエスさま前に道を備えたと言いますが、人間の心をきれいさっぱり掃き清めるようなそんな役割をしたわけではなく。むしろヨハネは「蝮の子らよ」と叫び、民たち人間に拭いがたい悪や限界がある頃を知らせ、また弱さや悲しみがあることを見つめさせたのです。この「自分の罪や弱さを知らされる」という事、実はそれこそが心にキリストを迎える最も大切な備えなのです。
●先日見た「インサイドアウト」というアニメーション映画は12歳の少女の頭の中を描いたファンタジーでした。ある少女の頭の中で「喜び」「悲しみ」「怒り」などのキャラクターがあくせく働いて、感情を操作し、何とかこの女の子を幸せにしようとしているという空想のお話です。 一番活躍しているのは「喜び」で、彼女は楽しい思い出を沢山生み出し、少女の人格を作り上げようとしていきます。一方一番暗く弱々しく悲観的なのが「悲しみ」。彼女は皆のお荷物で少女の幸せの邪魔ばかりしているように思われていました。「喜び」は何とか「悲しみ」を前面に出さないようにと必死になります。しかし、徐々に彼女の人格は壊れていくのです。そして、最後に実はこれまで不必要だと思っていた「悲しみ」を素直に表現させる事を通して、人は他人の優しさに触れ、そこに人を本当に成長させる素敵な「思い出」が作られる事を知っていくというのです。「悲しみ」は排除すべき者ではなく、それを通してこそ得られるものがあり、それがとても大切なのだという事をこのアニメは教えているように思いました。
●哲学者ニーチェは「喜びは悲しみの中に浸透するのだ」と言いました。私たちは、人間として味わう痛みや苦しみ弱さ、悲しを脇に置いたり、閉じ込めたりするのでなく、大切に見つめ、受け止める中で、そこに染み透ってくるイエス様という存在、その愛を深く深く知ることができるのです。私たちは弱さや罪深さ、悲しみを否定しなくて良いのです。キリストは私たちの心や世の中が綺麗になったから来られたのではないのです。逆に罪深く、弱いからこそ来て下ったのです。そして寄り添い共に生きようとしてくださったのです。そして、それは今も同じなのです。私たちが悲しみに暮れる時、罪に震える時、痛みに呻く時、深い祈りを通して、またそばにある誰かを通してイエス様は目に見える形、見えない形で来てくださるのです。
●クリスマスの喜びとは、暗い暗い暗闇に灯されるキャンドルの灯りようなものです。暗闇が濃くなればなるほど、光は輝きを増すように、神様の愛、イエス様の愛は私たち人間の闇が濃くなればなるほど暖かく強く私たちを照らすのです。